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2016年10月6日木曜日

偶然/遇発性(Chance/Contingency)

写真は絶対的な「個」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの」であり、「あるがままのもの」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché」の、「機会」の、「遭遇」の、「現実界」の、あくことを知らぬ表現である。.(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳)

elle(la Photographie) est le Particulier absolu, la Contingence souveraine, mate et comme bête, le Tel (telle photo, et non la Photo), bref, la Tuché, l'Occasion, la Rencontre, le Réel, dans son expression infatigable.

ロラン・バルトの『明るい部屋』は、「遇発性」論でもある。

いま敢えて、Chance/contingency の対比でしばしば語られ、後者は偶有性や偶発性やらの訳語とされることの多い Contingence(偶発的なもの)を「発性」としてみたが、そうしたのは、ラカン=アリストテレスの Tuché テュケー概念に依拠している(Tuché はセミネール11の邦訳では「僥倖」と訳されているようだが、人は「倖」の字にいささか異和があるはずで、とすれば僥発性としてもよい)。

そもそもロラン・バルトの上の文の la Tuché の箇所は、英訳では、‟What Lacan calls the Tuché”となっている(それを蛇足とするか’親切とするかは読む人によるだろう)。

『明るい部屋』が「遇発的なもの」論であることは、この書の核心概念のひとつ、プンクトゥムが示しているようにわたくしには思える。

ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。(……)
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(『明るい部屋』)

qui vient déranger le studium, je l'appellerai donc punctum; car punctum, c'est aussi : piqûre, petit trou, petite tache, petite coupure — et aussi coup de dés. Le punctum d'une photo, c'est ce hasard qui, en elle, me point (mais aussi me meurtrit, me poigne).

 わたくしはまずここから「至高の遇発的なもの la Contingence souveraine」、つまり《「偶然 la Tuché」の、「機会 l'Occasion」の、「遭遇 la Rencontre」の、「現実界 le Réel」の、あくことを知らぬ表現》である遇発性を、プンクトゥムと相同的なものと読む(この考え方に依拠する別の『明るい部屋』におけるパラグラフは、末尾近くに掲げた)。

ここでバルトの別の書『テキストの快楽』から引用してみよう。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』ーー揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉

この悦楽(享楽 jouissance)が、プンクトゥムにかかわるものだろう。そして、テュケー Tuché とは、ロラン・バルトが冒頭の文で示しているように現実界である。

かつまた、《現実 réalité とは現実界 réel の顰め面である》(ラカン、テレヴィジョンーーにたにた笑い grin としかめっ面 grimace)。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)
享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー基本版:現実界と享楽の定義

ーーとすれば偶然とは遇発性の顰め面にすぎないのではなかろうか。

…………

ところで偶然と遇発的なものの相違は、より具体的にいえば、なんなのだろうか。それはおそらく「欠如」と「穴」の相違にかかわる。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”)

ラカンはセミネール11で、アリストテレス用語の、automaton (αủτoματov) versus tuchè (τuχη) を取り上げている。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更)

オートマンのほうは、システム内部での自働性である。ラカンが《無意識は言語のように構造化されている》としたときの無意識は、オートマンとしての無意識(力動的無意識)であり、それとは別の無意識(システム無意識)がある(参照)。

現実界は《快原理の障害物である l'obstacle au principe du plaisir》(Lacan,S.11)。オートマンと象徴界によるシステム的決定因の彼方には、テュケー・遇然的要素としての欲動の現実界が待っている。

ラカンによれば、この遇発性はすべて欲動にかかわる。彼は、フロイトに従って、欲動に随伴する部分対象と共に欲動における部分的側面を強調する。フロイトによれば、対象 Objekt は欲動の最も重要でない部分である(欲動 Trieb の源泉 Quelle、衝迫 Drang、目標 Ziel という他の部分に比べて)。

部分対象が重要性に劣ることについて、ラカンは次のように説明している。どの対象も決定的に喪われた原初の対象a (l'objet perdu (a))の場に現れる。《この喪われた対象は、実際には、シンプルに空洞・空虚の現前であり、フロイト曰く、どんな対象によっても占められうる Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide… occupable, nous dit FREUD, par n'importe quel objet》(S.11)。(ヴェルハーゲ、2001、 Beyond Gender. From Subject to Drive.

《フロイトの反復の議論の混乱はフロイトが二種類の反復を混同している事実による。一方は、シニフィアンの反復、“自動装置automaton”、――それは実は強迫なのであり…トラウマのリアルに対処するための反復努力である。他方で、リアルそのものの反復がある。それはシニフィアンの鎖が限界に達したとき現われる(テュケー tuchè)。》(同、ヴェルハーゲ)

より一般的なオートマンとテュケーの注釈としては、次のロレンツォ・キエーザのものがもっとも分かりやすい。

ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。

オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。

テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。

しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)

上の文の最後にある「物質的原因」の「物質」とは何だろうか。ここでは言語ではなくララング lalangueにかかわるとのみ言っておこう。それをめぐっては、ラカン派の説明ではなく、中井久夫の説明がひときわ優れている(参照:中井久夫とラカン)。


…………


メイヤスーの偶有性をめぐる思考も、基本的にはこれらにかかわるのだろう(もっともわたくしはメイヤスーを読んでいない)。

アレンカ・ジュパンチッチ、2014によれば、次の通り。

メイヤスーは、ポパーの「反証可能性」の批判で始まる『有限性の後で』のある章で、正しく指摘している、科学は偶然 chance を基礎にして機能しており、偶発性 contingency を基礎にしていないことを。(……)

(しかしながら)メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、メイヤスーに不在の〈原因〉absent Cause を絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。…「無神論者の神」のような何か、つまり「神がいないことを保証する神」を。(ジュパンチッチ、2014,Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、PDF)

すなわち、メイヤスーは例外の論理①から免れておらず、それに反してラカンは非全体の論理②であるというジュパンチッチの見解である。

①全ては偶発的である。この偶発性の必然性以外は(例外の論理)
②必然性は、非一貫的である。(非全体 pas-tout の論理)

ほかにも例えば、エイドリアン・ジョンストン Adrian Johnston によるメイヤスーの Chance/Contingency の区別についての批判がある(ジュパンチッチの批判と類似したものに見えるが、全く同じ形の批判なのかは、これだけでは不明)。

he disputes Meillassoux’s use of the chance/contingency distinction. Chance refers to the calculation of probabilities relative to a One-All set of possibilities, and thus for instance the chance a flipped coin will show up heads approaches 50% as the number of throws approaches infinity, the infinite One-All set of throws. Contingency, on the other hand, is what one has when one adopts Cantor’s “unbounded infinite of multiplicities-without-limits”, for then one undoes the very One-All totality “upon which the probabilistic aleatory reasoning of chance allegedly depends, namely, the presumed existence of a totality of possible outcomes.” (Adrian Johnston,2013)

…………

さてここで、ロラン・バルトの『明るい部屋』から、わたくしには核心的な箇所と思われるいくつかを抜き出しておく。

「写真」は、もしこう言ってよければ(これは言葉の矛盾であるが)、本質的に、偶発的なもの contingence、個別的なもの singularité、冒険 aventure(=不意にやって来るもの)にすぎないという、どうしようもない気持があった。私にとって写真は、つねに、どこまでも、《任意のある何ものか quelque chose quelconque》という性質をおびていた。p.32
一般的な観念(虚構)に関しては無力だが、しかし「写真」の力は、人間精神が現実性 réalité を保証するために考案しうるあらゆる手段を凌駕している--しかし他方、「写真」が保証する現実性 réalité はつねに偶発的なもの contingence にすぎない(《そのとおりのものであって、それ以上ではない ainsi, sans plus 》)。pp.106-107
ある種の写真に私がいだく愛着について(本書の冒頭で、すでにずっと前に)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。p.118

たとえば、《その場を横切り traverser ce champ 》とある。これは現実(快原理という文化的な場)の横断とすることができる。

「幻想の横断 traversée du fantasme」とは現実の外部に出ることを意味するのではない。そうではなく現実の非一貫的な非全体 pas-tout を受け入れつつ現実を「揺らめかすこと vacillating」を意味する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

幻想とは、象徴化に抵抗する現実界へ意味を与えようとする試みである。また、ラカン派的観点からは、現実とは幻想によって構造化されている。

ここでシェイクスピアの文句さえ、ラカン的な幻想の光の下で読むことができる、と言っておこう。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』)

これらが、上にも掲げた「現実は現実界の顰め面」の意味である。もう少し長く引用しよう。

人間はひとつの構造、つまり言語の構造、-構造とは言語を意味するのですが-この構造が身体を分断することによって思考するのです。(……)

魂にかんして、思考は不調和です。ギリシャ語のヌース神話であって、この迎合は世界、魂が責任を持っている世界(環境世界[Umwelt])に適ったものなのでしょうが、じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasmeでしかありません。それもひとつの現実 réalitéには違いないかもしれませんが、現実界の顰め面 grimace du réel として理解されるべき現実 réalité です。(ラカン『テレヴィジョン』)

ほかにもこの現実=幻想を、「見せかけ semblant」の世界とも言う。そしてこの見せかけの世界に裂け目としてリアルが現れる。それを「穴を開ける」、「揺らめかす」などと言ったりする。

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18)

・ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えた。(ヴェルハーゲ、2001)

・無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)

・精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants]》(ジャック=アラン・ミレール,1996

もうひとつ、バルトの文に出現した「純粋な表象 représentation pure」について触れよう。これはラカンの概念「純粋シニフィアン signifiant pur」とともに読むことができる。

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン、そして、文字 lettre 、純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。(ロレンツォ・キエーザ、 Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007ーー純シニフィアンの物質性

ーーここでのロレンツォによる区分、「記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン」/「文字 lettre 、純シニフィアン signifiant pur 」とは、明らかに偶然/遇発性、欠如/穴にかかわる。そして後者は言語の物質性としてのシニフィアンである。

私の言語理論に関して皆さんが私に同意していただける最低線、それは、ーーもし皆さんが興味を示されるならですがーー、私の言語理論が唯物論的であるということです。

シニフィアンとは、言語においておのれを超越する物質です。(ラカン『哲学科の学生への返答』1966)

Le minimum que vous puissiez m'accorder concernant ma théorie du langage, c'est, si cela vous intéresse, qu'elle est matérialiste.

Le signifiant, c'est la matière qui se transcende en langage. (Lacan: Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse)

…………

もちろんわれわれは、ロラン・バルトをラカン的観点から読む必要はない。むしろロラン・バルトの視点からラカンを読むことができる。そのときの核心は上に引用した文からすれば、「時間」(プルースト)であり「強度」(ドゥルーズ)であるだろう、--《いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。》

さて、《純粋過去passé pur》(ドゥルーズ)、あるいは《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》(プルースト)とは何であったか。

マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたちになっている。

コンブレーは、かつて現在であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。

それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、無意識的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、実在 réalité においてではなく、その真実véritéにおいて現われる。

コンブレーは、純粋な過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の無意識的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》(プルースト)である。

つまりそれは、現在と過去、現実的な actuel ものである現在と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去のそれ自体における存在〔即自存在〕である。《純粋な状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間の本質である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳)

※プルースト自身の文は、「ドゥルーズ派諸氏の訳文 réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits」を見よ