2016年10月7日金曜日

愛を語るときに生まれる「演出」

人間は、自身で経験した事件についてさえ、数日後には噂話に影響された話し方しかしないものだ。 (小林秀雄「ペスト」『作家の顔』所収)

…………

僕が、はじめてランボオに出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。しかも、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題でないくらい敏感に出来ていた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様に思われる。文学とは他人にとって何んであれ、少なくとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である、と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様にも思われる。(小林秀雄「ランボオ Ⅲ」『作家の顔』所収)

蓮實重彦は、この小林秀雄のランボー小論に「嘘」が混じっていると指摘しているのは比較的よく知られているだろう(高橋悠治による小林秀雄のモーツァルトにおけるメロドラマの指摘と同様に。--《小林秀雄は作品に対することをさけ、感動の出会いを演出する。その出会いは、センチメンタルな「言い方」にすぎないし、対象とは何のかかわりもない》)。

……高橋(英夫)氏が引用するのは、いうまでもなく、「僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてい た、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」で始まる一節である。だがそれにしても、これが「一種の狂暴 な〈出会い〉として一挙に起こったのだ」という点に注意すべきだとする高橋氏が、すかさず「精神が精神に触れ合う危機」を語り始めるとき、ここで小林氏が 嘘をついているという事実になぜ気づこうとしないのだろう。というより、小林氏は嘘をつくべく強いられているのだ。「神田をぶらぶら歩いていた、と“書い てもよい”」の、動詞「書く」がフランス語の譲歩による語調緩和の「条件法」に置かれている点を見逃してはなるまい。それに続く瞬間的な衝撃性の比喩とし ての「見知らぬ男」の殴打、「偶然見付けたメルキュウル版」に「仕掛けられてて」いた「爆薬」、「敏感」な「発光装置」、「炸裂」などの比喩は、事件としてあったはずのランボー体験を青春の邂逅の光景としてしか語りえない「貧しさ」に苛立っていた言葉が、「書いてもよい」を恰好な口実として一挙に溢れだして小林氏を裏切り、ほとんど無償に近い修辞学と戯れさせてしまったが結果なのであり、問題の一節にあって「条件法」的語調緩和の余韻をわずかにまぬがれている文章は、最後に記される「僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあった」という一行のみである。つまり、真の小林的ランボー体験は、その装われ た性急さにもかかわらず、徐々に、ゆっくりと引き伸ばされ、時間をかけて進行した事件だったのである。わざわざ「『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」とことわっている小林氏は、書物の言葉をかいくぐって一挙に「精神が精神に触れ合う危機」などを演じてしまうほどに、「精神」を信用してはおらぬ、それとも高橋英夫は、小林氏が言葉にもまして「精神」を尊重していたとする確かな証拠でも握っているのであろうか。(……)

……だが、多少とも具体 的な夢へと立ち戻りうる者になら、人が「未知」の何かと「偶然」に遭遇したりはしないという点が素直に理解できるだろうし、そればかりか、むしろ「出会い」を準備しうる環境と徐々に馴れ合い、それを通じて出会うべき対象をかりに無意識であるにせよ引き寄せ始めていない限り、遭遇などありえはしないとさえ 察知しうるはずだ。つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではな い環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりし まい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会 い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色 調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批評宣言』所収)

こういった「メロドラマ」とは、蓮實重彦が制度(あるいは物語)という言葉で批判しつづけてきた言説のあり方である。

制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する装置なのである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
「制度」…。本当はそんな身振りを演ずべき必然性などどこにも見当たらないのに、誰もがついついそんな身振りを演じてしまうことで支えられたかりそめの葛藤劇。それは、かりそめとはいえ、かりそめであるが故に可能な執拗性を帯びている。「制度」が恐ろしいのは、そのかりそめの執拗性という奴が唯一の基盤であるからだ。(蓮實重彦『表層批評宣言』)

なかんずく、人は愛を語ろうとすると、こういった現象に陥りがちだろう。もっと一般的に、 《主体の最も深刻な疎外は、主体が我々に彼自身について話し始めたときに、起こる》(ラカン、E.281)、あるいは《人はつねに愛するものについて語りそこなう》(ロラン・バルト)と言ってもよい。

ところで蓮實重彦は、2003年の国際シンポジウムで、ロラン・バルトへの愛を口頭で(仏語によって)語っている(後に、自ら日本語訳して「文學界」(2006、01)に発表された)。

それはとても「美しい」文であり、とくにその冒頭箇所はーー下記に引用するがーーロラン・バルトファンのわたくしにとって鍾愛してやまないものである。

とはいえそこには、《二五年の余も、バルトを論じることなくすごしていた》とある。ロラン・バルトが《パリ街頭での自動車事故で呆気なく他界》したのは、1980年である。1980年以降、25年のあいだバルトを論じることなくすごしていた、と言っていることになるのだが、1985年に出版された『物語批判序説』の結論部分にはプルーストをめぐる叙述のあとに「Ⅲ ロラン・バルト あるいは受難と快楽』という章があり、247頁から306頁までがそれに当たる(初出は1984年の『海』)。

ーーというわけで、やはり蓮實重彦もロラン・バルトへの愛を「美しく」語ったとき、なんらかの「演出」をしている、あるいは物語の制度に囚われてしまっていると言ってよいだろう。

長いこと、バルトについて語ることを自粛していた。パリ街頭での自動車事故で呆気なく他界してから、その名前を主語とする文章をあえて書くまいとしてきたのである。いきなり視界にうがたれた不在を前にしての当惑というより、彼自身の死をその言葉にふさわしい領域への越境として羨むかのような文書を綴ったのが一九八〇年のことだから、もう二五年の余も、バルトを論じることなくすごしていたことになる。とはいえ、その抑制はあくまで書くことの水準にとどまり、バルトを読むことの意欲が衰えたことなどあろうはずもない。

二〇歳ほどの年齢差にもかかわらず彼との同時代を生きえたわたくしにとって、ロラン・バルトは語の最良の意味における「批評家=エッセイスト」と呼ぶべき存在にほかならない。彼は、「現在」というとりとめのない瞬間に、そのつどほんの思いつきといった身軽さで、しかも、これしかないという鮮やかな身振りで触れてみせる希有の才能に恵まれていた。そのとき、言葉とともにあろうとする彼の身振りのえもいわれぬものやわからさを、その場で気持ちよく「消費」していればよかった。彼のテクストは、大量消費社会が奇蹟のようにもたらす贅沢きわまりない「消費」の対象だったとさえいえる。その言葉を心地よく「消費」しようとする姿勢を、彼自身なら「くつろぎ」《 aise》という言葉で肯定してくれることだろう。

さいわいなことに、この「批評家=エッセイスト」は、あくまで「消費」されることをこばむ「芸術家」などではついぞなかった。読まれることの「現在」と「永遠」との修正しがたいひずみにどこまでも無頓着な「理論家」でもなかった。バルトは、あくまで「現在」に生きるジャーナリスティックな「批評家=エッセイスト」だったのであり、それは、プロに徹した純粋なアマチュアともいうべきすぐれて矛盾した存在だったといってよい。その姿勢は、コレージュ・ド・フランスの教授として「文学記号論」を講じ始めてからも変わることがない。実際、「形容詞は一つの商品である」といった言葉で「中性」的なものを位置づけようとするそのディスクールは、講壇批評の厳密さとはおよそ異なる自在さにおさまっていた。

そうしたバルトのテクストが、死のもたらすだろう「永遠」の時間と触れあうための配慮をあれこれ身にまとっていたとはとても思えない。「永遠」という概念ほど、この「批評家=エッセイスト」にふさわしからぬものも想像しがたいからだ。つかの間の移ろいやすさと真摯に触れあうこと。それが、プロに徹したアマチュアとしてのバルトの決定的な「美しさ」だったはずである。新しい「芸術家」も新しい「理論家」も存在しがたい二〇世紀後半におけるバルトの貴重さは、そこにあったとさえいえる。その死を願ってもない好機ととらえたかのように、さまざまな地域のーーとりわけ合衆国のーー大学がやってのけるバルトの学術的な「カノン」化には、ただただ呆気にとられたというのが正直なところだ。「永遠」の時間とは容易に折り合いをつけがたい彼にふさわしい「くつろぎ」の維持に、人々は率先して目をつむっているかにみえたからだ。

死後出版というかたちで流通しはじめたバルトの「新刊」のいくつかには、何よりもまず、その場で「消費」されることへの心遣いが影をひそめており、そのほとんどを読んでも心が揺れなかった。何にもまして、そこに「くつろぎ」にふさわしい配慮を見いだしえなかったからだ。『全集』にいたっては、心もとない撒布状態を生きることで初めて意味を持つそのテクストに惹かれていたわたくしに、「可哀想なバルト ……」とつぶやかせるのがせいぜいだった。「伝記」と呼ばれるものを目にしても、読む意識をバルトのテクストへと向わせる刺激が徹頭徹尾欠けていることに、うんざりするほかはなかった。コレージュ・ド・フランスの「講義録」の新たな刊行に対しては、いまなお態度を決めかねている。『全集』も「伝記」も「講義録」も、書物としては、バルトのおぼつかない「現在」におよそふさわしからぬもので、それと向かい合うには、バルトが嫌った「厚顔無恥」《 arrogance》に陥るほかはないという危惧の念を捨てきれぬからである。この四文字の漢語を「はしたなさ」という和語に置き換えた方がよかろうとは思うが、いずれにせよ、そうしたことが、わたくしに、四半世紀にもおよぶ短くはない沈黙を選ばせたのかもしれない。「はしたなさ」ばかりが跳梁跋扈する世紀末から二一世紀にかけての「文学理論」や「批評」がもたらす苛立ちも、沈黙を破らせることにはならなかった。

いま、その無言状態からふとぬけだそうとすることに、深い理由があるわけではない。あたりにはりつめていた禁止の力学が、ようやくときほぐれ始めたというのでもない。バルトをめぐってたち騒ぐあたりの饒舌を、雄弁な沈黙によっておきかえようと思いいたったのでもない。そもそも、雑駁きわまりない呼び方で「現代思想」 ――または、店晒しにされた「厚顔無恥」 ――などと分類されたりもするフランスの他の作家たちにくらべてみれば、バルトに対して、人は、あまりにも少なく饒舌だったというべきだろう。

何かを書くというあてもないままの無言状態の中で、わたくしは、好みのテクストにひたすら読み耽っていた。それは、『ミシュレ』であり、『ラシーヌ論』であり、『サド、フーリエ、ロヨラ』であり、『テクストの快楽』であり、『彼自身によるロラン・バルト』であり、『明るい部屋』でもあったりしたのだが、それらを、ちょうどプルーストを読むバルト自身のように、これという確かな方法もなく、一冊のモノグラフィーにも仕立てあがるというひそかな野心もいだかぬまま、読了するという「はしたなさ」をもおのれに禁じつつ、もっぱら贅沢な暇つぶしとして「消費」していただけなのである。暇つぶしとして「消費」しえないことがその価値を高める書物など、現在の地球に、また歴史的にいっても、ごくまれにしか存在しない。

バルトにとってのプルーストが「永遠」の作家ではなく、とだえることのない永続的な「消費」の対象だったように、わたくしにとってのバルトもまた、とだえることのない永続的な「消費」の対象だった。ごく個人的なものにとどまるその「消費」は、あるとき、間違っても刊行されるあてのない不在の書物の構想へとゆきつく。「消費」する者として気ままに思い描いていたわたくしなりのコンテクストにしたがって、この「批評家=エッセイスト」の声のいくつかをよみがえらせてみたいというとりとめもない思いへと誘われたのである。それは、『彼自身によるロラン・バルト』を自在に「リメイク」するという映画のようなフィクションとして、漠たる輪郭におさまることになる。バルトの「全体像」には背を向け、ある任意の一点でバルトを横切るとき、そこにはバルトが書いたわけではないが、バルトの「くつろいだ」声が低く聞きとれるかに錯覚されるフィクションとしての「リメイク」が切りとられるはずだ。

ここに読まれようとしているのは、その「リメイク」の書かれるあてのないシナリオのほんの一部 ――どこかに隠匿されているかもしれない全体の一部ではなく、一部としてしかありえないーーにすぎず、生前のバルトが、ことあるごとに「中性」的な領域に描きだしていた「病気」、「失敗」、「倦怠」という三つの光景をとりあえずの舞台装置として語られることになるだろう。その「シナリオ」は「批評」として読まれることがあってはならず、アマチュアの言葉としてもっぱら「消費」されることのみを願っている。(蓮實重彦「バルトとフィクション 『彼自身によるロラン・バルト』を《リメイク》する試み」)