以下、メモ。たいした意図はない。ドゥルーズとラカン派の文の列挙。共鳴するところもあれば、当然いくらかの齟齬もあるだろう。
問いは、ドゥルーズは下記のようなことを言っていたのに(たとえば「強制された運動」)、後年なぜ欲望の自由な流れーー「自由状態での純粋な流体un pur fluide à l'état libre」ーーなどということを言うようになってしまったのか、ということだが[参照])、わたくしはそれほど突っ込んでみるつもりは(今のところ)ない(その能力もない)。
問いは、ドゥルーズは下記のようなことを言っていたのに(たとえば「強制された運動」)、後年なぜ欲望の自由な流れーー「自由状態での純粋な流体un pur fluide à l'état libre」ーーなどということを言うようになってしまったのか、ということだが[参照])、わたくしはそれほど突っ込んでみるつもりは(今のところ)ない(その能力もない)。
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《潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur.》(ドゥルーズ『差異と反復』1968)
《剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance 》(ラカン,S.17, 1970)
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【潜在的なものと強制された運動の機械】
《アクチュアルではないがリアルであり、抽象的ではないが観念的である。》(プルースト)――この観念的なリアルなもの、この潜在的なものが本質である。
« Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits. » Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence. . (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』,1964-1970-1975[参照])
プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。それが失われた時間のばあいには、部分対象objets partielsの断片化により、見出された時間のばあいには共鳴による。失われた時間のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964年→1970年に加えられた「アンチロゴスまたは文学機械」CHAPITRE IV “Les trois machines”より)
【死の欲動と享楽の漂流】
すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.(Lacan Ecrit848)
きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20)
《享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. 》(『彼自身によるロラン・バルト』)
……盲目的で破壊できないリビドーの執着を、フロイトの「死の欲動」と呼んだ。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳ーー欲動と享楽の相違)
【享楽侵入の記念物と文字】
「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)
…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.19)
反復は本質的に象徴的なものであり、シンボルやシミュラークルは反復自体の文字 lettre である。la répétition est symbolique dans son essence, le symbole, le simulacre, est la lettre de la répétition même.(ドゥルーズ『差異と反復』)
反復の概念は転移の概念とは何の関係もない。le concept de repetition n'a rien a faire avec celui de transfert.(ラカン、S.11)
・反復は言語の結果である。la répétition est une conséquence du langage
・転移は反復に要求の形式を与える le transfert donne à la répétition la forme de la demande
・転移以外には、反復は本質的に要求はない Hors transfert, la répétition n’est pas essentiellement demande (コレット・ソレール、2010_« La réptition ne se produit qu’une seule fois »par Colette Soler)
「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19)
現在最も信頼のおけるラカン解釈者の一人コレット・ソレールーーすでに多くの仕事をなしとげたブルース・フィンクでさえ、この2016年にもいまだ彼女の著作に讃嘆しつつ英訳しているーーは、別に《Lacan réécrit la répétition en re-petitio》としているが、re-petitio(ラテン語起源)のこの言葉をラカンはどこで言っているのか見つからない。訳せば、嘆願反復か? 要はこの嘆願の反復や転移反復を「解き放つ」ことが、ラカン派の反復概念の核心のひとつである。それは次のドゥルーズ=ニーチェの永遠回帰にも表れる。
・感受性 sensibilité/観察 observation
・思考 pensée /哲学 philosophie
・翻訳 traduction/反省 réflexion
・愛 amour/友情 amitié
・沈黙した解釈 interprétation silencieuse/会話 conversation
・名 noms/言葉 mots
・暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites
【永遠回帰と反復】
〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのである。
L'Éternel Retour est la Répétition ; mais c'est la Répétition qui sélectionne, la Répétition qui sauve. Prodigieux secret d'une répétition libératrice et sélectionnante.(ドゥルーズ『ニーチェ』1965)
永遠回帰は、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異の世界から派生する。
L'éternel retour ne fait pas revenir le même et le semblable, mais dérive lui-même d'un inonde de la pure différence.
・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在。それを言い換えるなら、起源は差異であると特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。
L'éternel retour n'a pas d'autre sens que celui-ci : l'absence d'origine assignable, c'est-à-dire l'assignation de l'origine comme étant la différence, qui rapporte le différent au différent pour le (ou les) faire revenir en tant que tel.
そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。
En ce sens, l'éternel retour est bien la conséquence d'une différence originaire, pure, synthétique, en soi (ce que Nietzsche appelait la volonté de puissance). Si la différence est l'en-soi, la répétition dans l'éternel retour est le pour-soi de la différence.(ドゥルーズ『差異と反復』)
【暗き先触れと強制された運動の増幅】
(ニーチェとは)ジョイスの作品はもちろんまったく異なる手法に訴えている。しかしそこでも相変わらず問題となるのは、諸々の異なった系列を最大限に(極限的には、コスモスを構成する多様なあらゆる系列に至るまで)集めることである。それも言語的な「暗き先触れ précurseur sombre」(この場合それはカバン語のような不可解な言葉)を、そこで機能させることによって、諸々の系列を集めることである。そうした暗き前触れは、あらかじめ在るとみなされるような同一性にはけっして基づくことなく、またとりわけ原則としては、「その同一性を定めること、それ自身であるという身元を確認すること」が不可能なものである。そういう前触れが、システム全体のなかに、「差異それ自体」の差異化作用というプロセスの結果として、類似性と同一性を最大限に導入するのである(『フィンガネス・ウェイク』のコスモス的な文字を参照されたい)。
この暗き前触れの活動のおかげで、システムのうちに生起するもの、つまり共鳴し合う諸々の系列のあいだで生起するものが、〈聖体顕現(エピファニー épiphanie)〉と呼ばれる。そして宇宙的な cosmique 拡がりは、ある種の強制された運動が大きく増幅されること l'amplitude d'un mouvement forcé と一体をなしている。すなわち諸々の系列を一掃し、それらの系列をのり超えて溢れ出す強制的な運動が増幅することである。つまり最終的な審級における死の本能 Instinct de mort 、スティーヴンの〈否 non〉――それは否定という非‐在 non-être du négatif ではなく、執拗に続く問いかけの(非)‐在? であり、その(非)‐在? にはブルーム夫人の宇宙的な〈然り Oui〉が、答えるというのではないやり方で、照応している(なぜならそういう〈然り〉だけが、(非)‐在? を適切に満たし、十全を占めるのだから)――このスティーヴンの〈否〉がそうであるような一つの強制的な運動の増幅と、宇宙的な拡がりはまさに一体をなしているのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)
(プルーストの作品は)ジョイスの聖体顕現 épiphanies とはまったく異なった構造をもっている。しかしながらまた、それは二つの系列の問いである。 すなわち、かつての現在(生きられたコンブレー)と現勢的 actuel な現在の系列。疑いもなく経験の最初の次元にあるのは、二つの系列(マドレーヌ、朝食)のあいだの類似性であり、同一性でさえある(質としての味、二つの瞬間における類似というだけでなく自己同一的な質としての味覚)。
しかしながら、秘密はそこにはない。味覚が力能をもつのは、それが何か=X を包含するときのみである。その何かは、もはや同一性によっては定義されない。すなわち味覚は、それ自身のなか en soi にあるものとしてのコンブレー、純粋過去の破片 fragment de passé pur としてのコンブレーを包んでいる。それは、次の二つに還元されえない二重性のなかにある。すなわち、かつてあったものとしての現在(知覚)、そして意志的記憶 mémoire volontaire によって再現されたり再構成されたりし得るかもしれないアクチュアルな現在への二重の非還元性のなかにある。
それ自身のなかのこのコンブレーは、己れの本質的差異によって定義される。「質的差異 qualitative difference」、それはプルーストによれば、「地球の表面には à la surface de la terre」存在せず、固有の深さのなかにのみ存する。この差異なのである、それ自身を包むことによって、諸々の系列のあいだの類似性を構成する質の同一性を生み出すのは。
したがって再びまた、同一性と類似性は「差異化するもの différenciant」の結果である。二つの系列が互いに継起するなら、それにもかかわらず、二つの系列に共鳴を引き起こすもの、すなわち対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレーとの関係において共存する。さらに、二系列の共鳴は、その系列をともに越えて溢れ返る déborde 死の本能をもたらす。たとえば半長靴と祖母の記憶である。
エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。(ドゥルーズ『差異と反復』)
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とはいえ純粋差異というものがわたくしにはあまりピンときていない。だが次のことはいくらかわかってきた。
・すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである。 il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.》(Lacan, S.14)
・常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)(Lacan,S.20)
《ヘーゲルは『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。》(Levi R. Bryant、The Democracy of Objects、2011)
もっとも身近な例でいえば、「私」というシニフィアンはそれ自身に一致しない。だからわれわれは生涯反復し続ける。
いずれにせよ言語を使用する人間は、つねに差異ーーそれを純粋差異というのかどうかは別にしてーーの世界に住まわっているには相違ない。すなわち言語による「物の殺害 meurtre de la chose」(E.319) の世界に 。
ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
→「人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか?」
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※付記:ところでジャック=アラン・ミレールはかなり前に次のように言っている。
分裂病的観点においてのみ、言葉は物の殺害ではなく、物である。(ミレール、IRONIC CLINIC、1988)
ドゥルーズの1970年代の仕事は、「戦略的分裂病」だとしたらーー戦略的倒錯という言葉があるようにーーどうだろう?