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2016年2月14日日曜日

シニフィアンは「物の殺害」である

ラカンは1953年のローマ講演(「精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野」)にある名高い文を、言語は「物の殺害」であると訳されて流通しているのを以前みたことがある。

立木)われわれが言語にとらわれている、というこの状態は、ラカンにとって何らかの喪失抜きにはありえない。ラカンが1953年に「物の殺害」と言ったのもそのことです。言語は物を殺す。同様に、言語は人間も殺す。主体が一つのシニフィアンに同一化すれば、他方ではその存在が欠如とならざるをえない……(「来るべき精神分析のために」(座談会、十川幸司/原 和之/立木康介、2009

たまたま、原文を眺めてみると、こうなっている。

Ainsi le symbole se manifeste d'abord comme meurtre de la chose, et cette mort constitue dans le sujet l'éterrusation de son désir. (Lacan,E.319)

「シンボルとはモノの殺害である」とあり、「この死が、主体の欲望の終わりのない永続化をもたらす」とでも訳せるか(何度も言っているが、ラカン文は訳したくない)。

ここで言いたいのは、シンボルと言語とは違うということだ。

「記号とは物の殺害」ならまだわかる。だが、後年のラカン理論からいえば、「シニフィアンとは物の殺害である」がよりふさわしいはずだ。

ラカン理論には、記号 symbole ・意味作用の原因としてのシニフィアン/文字 lettre ・純シニフィアン signifiant pur の二項対立がすくなくともある(参照:純シニフィアンの物質性)。

前者は象徴界、後者は現実界にかかわる。

いずれにせよ、言語を象徴界と同じものとするなどとは寝言である。

言語のシニフィアン/シニフィエ/文字とは、象徴界/想像界/現実界ということになるはずだ。

(立木氏の会話文に文句をつけるつもりはない。よく読むと言語は物の殺害のあと、すぐさまシニフィアンという語が出現する。ただし誤解を招きやすいということは言える)。


ーーで、次に続く。

→「第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢