立木)われわれが言語にとらわれている、というこの状態は、ラカンにとって何らかの喪失抜きにはありえない。ラカンが1953年に「物の殺害」と言ったのもそのことです。言語は物を殺す。同様に、言語は人間も殺す。主体が一つのシニフィアンに同一化すれば、他方ではその存在が欠如とならざるをえない……(「来るべき精神分析のために」(座談会、十川幸司/原 和之/立木康介、2009)
たまたま、原文を眺めてみると、こうなっている。
Ainsi le symbole se manifeste d'abord comme meurtre de la chose, et cette mort constitue dans le sujet l'éterrusation de son désir. (Lacan,E.319)
「シンボルとはモノの殺害である」とあり、「この死が、主体の欲望の終わりのない永続化をもたらす」とでも訳せるか(何度も言っているが、ラカン文は訳したくない)。
ここで言いたいのは、シンボルと言語とは違うということだ。
「記号とは物の殺害」ならまだわかる。だが、後年のラカン理論からいえば、「シニフィアンとは物の殺害である」がよりふさわしいはずだ。
ラカン理論には、記号 symbole ・意味作用の原因としてのシニフィアン/文字 lettre ・純シニフィアン signifiant pur の二項対立がすくなくともある(参照:純シニフィアンの物質性)。
前者は象徴界、後者は現実界にかかわる。
いずれにせよ、言語を象徴界と同じものとするなどとは寝言である。
言語のシニフィアン/シニフィエ/文字とは、象徴界/想像界/現実界ということになるはずだ。
(立木氏の会話文に文句をつけるつもりはない。よく読むと言語は物の殺害のあと、すぐさまシニフィアンという語が出現する。ただし誤解を招きやすいということは言える)。
言語のシニフィアン/シニフィエ/文字とは、象徴界/想像界/現実界ということになるはずだ。
(立木氏の会話文に文句をつけるつもりはない。よく読むと言語は物の殺害のあと、すぐさまシニフィアンという語が出現する。ただし誤解を招きやすいということは言える)。