……というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。(プルースト『花咲く乙女たちのかげにⅡ』)
プルーストの悪評(?)高い友情否定であり、ニーチェの友情をめぐる態度さえ批判している。
……つまり、友情はきわめてとるに足らぬものであるというのが私の考えかたなので、なんらかの天才と称せられる人たち、たとえばニーチェなどが、これにある種の知的価値を賦与するといった、したがって知的尊敬にむすびつかなかったような友情はこれを認めないといった、そのような素朴な考をもったのは、私の理解に苦しむところなのだ。
そうだ、自己への誠実さに徹するあまり、良心にとがめて、ワグナーの音楽と手を切るまでになった人間が、本来つかみどころがなく妥当性を欠く表現形式であり、一般的には行為であるが個別的には友情であるこの表現形式のなかに、真実があらわされうると想像した、またルーヴルが焼けたというデマをきいて、自分の仕事をすてて友人に会いに行き、その友人といっしょに泣く、といったことをやりながら、そこに何ほどかの意味がありうると想像した、そんな例を見ると、私はいつもあるおどろきを感じてきたのである。
私がバルベックで若い娘たちとあそぶことに快楽を見出すにいたったのも、そういう考えかたからなので、つまりそんな快楽は、精神生活にとって友情よりも有害ではない、すくなくとも精神生活とはかかわりがないと思われたのであって、そもそも友情なるものは、われわれ自身のなかの、伝達不可能な(芸術の手段による以外は)、唯一の真実な部分を、表面だけの自我のために犠牲にするという努力ばかりを要求するのであり、この表面だけの自我のほうは、もう一つの真実の自我のようには自己のなかによろこびを見出さないで、自分が外的な支柱にささえられ、他人から個人的に厚遇されていると感じて、つかみどころのない感動をおぼえる、そしてそういう感動にひたりながら、この表面的な自我は、そとからあたえられる保護に満悦し、その幸福感をにこにこ顔でほめたたえ、自己のなかでなら欠点と呼んでそれを矯正しようとつとめるであろうような相手の性癖のたぐいにも、目を見張って関心するのである。(『ゲルトマントのほうⅡ』 井上究一郎訳)
ドゥルーズはプルーストの「友情」をめぐる考え方について次のように言っている(ドゥルーズは最後までガタリとは TU を使うことはせず、VOUS で呼び合っていたそうだ)。
哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的である。
(……)われわれは、無理に、強制されて、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)
…………
ロゴスの中には、どんなに隠されていても、それによって知性が常に前に来るような、それによって全体がすでに存在しているようなひとつの側面がある。それは、それを適用するものを前にして、すでに知られている法則である。つまり、あらかじめ与えられてあったものを再発見するだけであり、あらかじめ置かれてあったものを取り出すだけの、弁証法的手品である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)
このアンチロゴス/ロゴスは、ラカン的観点からは、非全体の論理/例外の論理と相同性があるように思う。あるいは遇発性(テュケー)/偶然(オートマン)をめぐっている、としてもよい。
ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。
オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。
テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。
しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)
メイヤスーが唯一の必然性としての遇発性を主張したとき、…彼の誤謬はラカンの性別化の公式における男性の論理に従って遇発性を心に抱いたことだ。つまり普遍性とその構成的例外の論理に従っている: すべては遇発的である。遇発性自体を例外にして、と。そこでは、遇発性は絶対的に必然的なものであり、したがって必然性は、普遍的遇発性の外的(メタな)支柱となる。
我々が遇発性のこの普遍化に反対すべきことは、必然性の普遍化ではない(必然的なものすべては遇発的だ、必然性自体の例外にして、というような)。そうではなく、遇発性の「女性の論理における」非全体pas-tout である:遇発的でないものは何もない。それが非全体が遇発的であるという理由である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
メイヤスーは最終的にはラカン派により上のように批判されるがーーほかにも(わたくしの知る範囲でさえ)ロレンツォ・キエーザ、ジュパンチッチに同様の批判があるーー、科学への問いをめぐってラカン派に強い刺激を与えたことは間違いない。そして科学の時代とはロゴスの時代だろう。
科学的言説だけではなく、哲学的言説、合理的思考は、おおむね偶然をのみ基盤にしている。アンチロゴス/ロゴスには、ほかにも種々の変奏があるだろう、事前/事後、イディオス・コスモス/コイノス・コスモス(エリオット=ヘラクレイトス)……。
ドゥルーズの《哲学者には、《友人》が存在する》で始まる上に掲げた文のあとには、次のような文もみられる。《思考を強制するものは、シーニュ Ce qui force à penser, c'est le signeである。シーニュは、ひとつの出会いの対象 l'objet d'une rencontreである。しかし、思考させる必然性を保証するものは、まさにこの出会いの遇発性 contingence de la rencontre である。》
この遇発性が、ラカン派のいう遇発性=テュケーとまったく同じものだというつもりはない。
ただし、ドゥルーズ=プルーストなりに、遇発性(テュケー)/偶然(オートマン)に近似した対比がなされている、と言ってよいだろう。
トラウマ traumatismeについて、ラカンは後年(S.21)、troumatismeとの表現もしている(参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」)。
…………
なるほどこの世には在りそうな事しか起こるものではないが、逆に、起こるもの、現にあるものは、皆在りそうもない事ばかりである。観察とはすべて事後の観察である。観察によって知る代わりに、生きて知るという心掛けで眺めるなら、人生には在りそうもない事だけが起こっている。(小林秀雄『作家の顔』)
ドゥルーズの《哲学者には、《友人》が存在する》で始まる上に掲げた文のあとには、次のような文もみられる。《思考を強制するものは、シーニュ Ce qui force à penser, c'est le signeである。シーニュは、ひとつの出会いの対象 l'objet d'une rencontreである。しかし、思考させる必然性を保証するものは、まさにこの出会いの遇発性 contingence de la rencontre である。》
この遇発性が、ラカン派のいう遇発性=テュケーとまったく同じものだというつもりはない。
ただし、ドゥルーズ=プルーストなりに、遇発性(テュケー)/偶然(オートマン)に近似した対比がなされている、と言ってよいだろう。
テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能 fonction de la τύχη [ tuché ]… du réel comme rencontre ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマ traumatisme という形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更)
トラウマ traumatismeについて、ラカンは後年(S.21)、troumatismeとの表現もしている(参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」)。
…………
『失われた時を求めて』は、一連の対立の上に築かれている。プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先に立ち、《全体的な魂》というフィクションのなかに集中させるような、我々のすべて能力全体の、論理的な、あるいは連帯的な使用に対して、我々がすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断された能力の使用がある。
また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシャ的同性愛には、ユダヤ的なもの・呪われたものが、言葉には名が、明示的意味作用には、暗示的シーニュ・巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)
小林秀雄の文に「生きて知る/「事後の観察」の対比があったことに注意して、あるいはラカンの「遇発性(テュケー)/偶然(オートマン)」とともに(当面)わたくしはこのドゥルーズの文を読む。
・感受性 sensibilité/観察 observation
・思考 pensée /哲学 philosophie
・翻訳 traduction/反省 réflexion
・愛 amour/友情 amitié
・沈黙した解釈 interprétation silencieuse/会話 conversation
・名 noms/言葉 mots
・暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites
プルーストはいたるところで対立させる、「シーニュ・症状の世界/属性の世界」、「パトスの世界/ロゴスの世界」、「象形文字・表意文字の世界/分析的表現・表音文字・合理的思考の世界」を。
Partout Proust oppose le monde des signes et des symptômes au monde des attributs, le monde du pathos au monde du Logos, le monde des hiéroglyphes et des idéogrammes au monde de l'expression analytiquc, de l'écriture phonétique et de la pensée rationnelle.
いつも拒絶されるのは、愛・知・対話・ロゴス・声といったギリシャ人から継承した大きなテーマである。
Ce qui est récusé constamment, ce sont les grands thèmes héri tés des Grecs : le philos, la sophia, le dialogue, le logos, la phoné. (Gilles Deleuze, Proust et les signes, DEUXIÈME PARTIE LA MACHINE LITTÉRAIRE CHAPITRE 1 Antilogos)
《シーニュ・症状(徴候)の世界 monde des signes et des symptômes /属性の世界 monde des attributs》とは、《暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites》と同じことを言っている。