エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)
エロスは己れ自身を循環として・循環の要素として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトスでしかありえない。両者は、愛と憎悪、構築と破壊、引力と斥力として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』)
(Lacan, S.19, p.425) |
祖母の思い出の中に、何が起こったのか。ひとつの強制された運動が、ひとつの反響とかみ合うのである。死の観念を持った拡がりが、共鳴する瞬間を除去してしまった。しかし、見出された時と、失われた時とのあいだの、あれほど激しい矛盾は、両者のそれぞれを、その生産の系列と関連させている限り、解決される。
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。
このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。
それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964-1970-1976「三つの機械 Les trois machines”」)
※プルーストの「祖母の思い出」ーー実際は「母」--にかかわる心情の間歇をめぐっては、「心の間歇と心の傷」を参照。
ここでラカンの図式ーー人間の生の図式とさえいるーーをもう一度掲げよう(上に掲げた図の詳細版)。
(Lacan, S.19, p.157) |
そして。ためしに次のように変奏してみることにする。
プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』)
究極の「エロス的統合」とは究極の「享楽」である。だが、それは主体の死を意味する。《この享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち、主体の死である》(ヴェルハーゲ、2001)
死への道 le chemin vers la mort は、享楽 jouissance と呼ばれるもの以外の何ものでもない。(ラカン、S.17)
・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。
・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』)
もちろん雑な図式化であるのは分かっている。たとえば潜在的対象をタナトスの位置に置くことも可能だろう。ただしドゥルーズのいう仮面とは、エロス的主体であり、ラカンの semblant(見せかけの主体)であるのは間違いない(あるいは別に代理人 agent)。
ーー上部が象徴界(快原理の此岸)、下部が現実界(快原理の彼岸)である。ようするにエロスは上部構造、タナトスは下部構造にある。《even in Freud, the relation between Eros and the symbolic is clearly visible…》(Paul Verhaeghe , Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、PDF)
この世(象徴界)が見せかけ・仮面の世界であることは既にシェイクスピアが言っている。
この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』)
《言説自体、いつも見せかけの言説である。le discours, comme tel, est toujours discours du semblant》(ラカン、S.19)
ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」としている(S.18)
とすれば、次のような言い方もできるかもしれない。
仮面(見せかけ)の主体は、潜在的リアル(真理)に導かれて他者に融合しようとする(究極のエロス=享楽=融合)。だがタナトスの斥力があり完全には融合できない(そもそも完全に融合してしまったら、主体の消滅・主体の死である)。その代わりに産出物として剰余享楽が生まれる。剰余享楽とは真理(潜在的リアル)とは一致しない。こうして終りなき反復が生じる。
ドゥルーズが無意識的記憶をめぐって次のように言っているのは、究極的にはあの現象は主体の消滅、主体の死だからである。
無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
※参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」
これらのメカニズムの最もわかりやすい事例のひとつは、次の指摘だろう。
ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・ヴェルハーゲ、1998ーー欲動と享楽の相違)
すなわち各々の国は自らの「主体の死」を恐れ、破壊衝動が生まれる。
またここまでの記述でエロス的主体といっている内実はヒステリーの主体のことである。
ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」私訳)
強迫神経症とはフロイトのいう通り、ヒステリーの「方言」に過ぎない。倒錯・精神病(緊張型分裂病catatoniaを除いて)も言語を使うかぎり、なんらかの形でヒステリー的でありうる(ミレールのふつうの精神病をめぐる記述を見よ)。
…………
以下、資料のいくつか(近未来の微調整のために)。
先ず、仮面 masque は偽装 déguisement を意味(徴示)する。それは、厳密に共存する二つの現実的諸系列(deux séries réelles)の項と関係に想像的効果を与える。しかしながら、さらに深い意味では、仮面は遷移(置換) déplacement を意味する。それは本質的に、潜在的な象徴的対象に影響を与える。その諸系列のなか、且つ潜在的対象が絶え間なく循環する現実的諸系列の両方において。((ドゥルーズ『差異と反復』)
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。(ドゥルーズ『差異と反復』)
快感原則には例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまりは彼岸……が存在するということなのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)
エロスの役割は、タナトスのエネルギーを結びつけ、その結合を〈エス〉のうちで快感原則に従属せしむることにある。それ故、エロスは、タナトス以上に与件として示されるものではないにもかかわらず、すくなくともその声をあたりに響かせ、現実に顕著な影響を及ぼすものなのだ。だが、エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトスは、本質的に口をとざしている。それだけに怖ふるにたるものなのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)
《反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.》(ラカン、S.17)
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。
・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。
そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)
〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのである。
L'Éternel Retour est la Répétition ; mais c'est la Répétition qui sélectionne, la Répétition qui sauve. Prodigieux secret d'une répétition libératrice et sélectionnante.(ドゥルーズ『ニーチェ』1965)
・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)
・「一の徴 trait unaire」と反復――徴 marque として享楽を設置するものーー、それは享楽のサンスのなかに極小の偏差(裂け目) très faible écart に起源を持つのみである。…du trait unaire, de la répétition, de ce qui l'institue dès lors comme marque, …s très faible écart dans le sens de la jouissance que cela s'origine.
・…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.19)
・「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19ーー永遠回帰・享楽回帰・純粋差異
次のジャック=アラン・ミレールの「見せかけ」の底にあるものの定義というのは、また別の観点で上の図を捉え直すヒントである。
すべてが見せかけ semblant ではない。ひとつの現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界 Le réel du lien social は、性関係の不在 l'inexistence du rapport sexuel であり、無意識の現実界 Le réel de l'inconscient は話す身体 le corps parlant である。 (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER)
「話す身体 le corps parlant」は、ドゥルーズ=アルトーの「器官なき身体 corps sans organes」のこととしてよいだろうから(参照:話す身体と分裂病的享楽)。
…………
※付記
フロイトによるプラトンの饗宴の「神話」をめぐる箇所を付記しておこう。この『饗宴』のアリストファネスの話は、ラカンがセミネールⅧで延々と語ったことでも知られる。
実は究極の「享楽」概念とはここに起源があるとさえ考え得るし、ラカンのセミネールⅩⅠのラメラ lamella 神話も同じく。同じセミネールに現れる「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」やら 「生きる存在(生物)の到来 l'avènement du vivant」という表現もこの神話にかかわるのだが、ラカン派でさえこれをめぐって語る人は少ない(二つの欠如 Deux manques)。
だが対象a の最も原初的意味を問いたければ、この神話に思いを馳せざるをえないはずである。
フロイトの上の文をラカンがどう捉えているのかを知るためにも、セミネールⅩⅠに現れる「アリストファネスの神話 le mythe d’ARISTOPHANE」の箇所は決定的だろう。
日本では荻本氏が次のように語っている。
これはーー荻本氏はラメラ神話に触れていないにもかかわらずーー、その文脈のなかで読みうる「すぐれた」指摘である、とわたくしは思う。
ラカンのラメラ神話は次の通り。
わたくしはドゥルーズの珍しくやや曖昧な表現ーー神話的な表現ーーでさえこの文脈のなかで読みたくなる・・・
フロイトによるプラトンの饗宴の「神話」をめぐる箇所を付記しておこう。この『饗宴』のアリストファネスの話は、ラカンがセミネールⅧで延々と語ったことでも知られる。
……われわれは科学の領域で性の発生の問題についてわずかしか発見したものをもたないので、この問題は、仮説という光線すらも射し込まない暗闇に比することができるほどである。まったく別の場所で、むろん、われわれはこのような仮説に出くわすことはあるけれども、それは非常に空想的なものである。たしかに科学的な説明というよりは、むしろ一つの神話である。だがそれは、われわれがまさにのぞんでいる一つの条件を満たすものであって、もしそうでなかったら、私はあえてここで引用する勇気をもたなかったであろう。それは、つまり以前の状態を回復するという要求から一つの本能を演繹しているのである。
言うまでもなく私はここでプラトンが『饗宴篇』の中で、アリストファネスを通じて展開させている理論のことをさしている。この理論は、性的衝動の起源のみならず、対象に関するその重要な変型の由来をも論じている。
「つまりわれわれの身体は、もとは現在とおなじにつくられていなかった。それはまったく別物だった。最初に三つの性があった。いまのように男と女だけでなく、この二つの性を結びつけていた第三の性……つまり男女〔おとこおんな〕があった……」この種の人間ではすべてが二重になっていた。つまり四本の手と四本の足、二つの顔、二重の陰部などをもっていた。ところがゼウス神は、あらゆる人間を二つの部分に分けようという気になった。「ちょうど『まるめろ』の実を漬け物にするために真っ二つにするように……こうして全体が二つに断ち切られてしまったため、二つの半分はたがいに憧憬に駆りたてられた。彼らは手と手で抱き合い、合体しようとの望みをいだいて、たがいにひとと絡み合った……」
われわれは、詩人哲学者の暗示にしたがって、生命ある物質は生を享けたさいに、小部分に引き裂かれ、これら小部分はその以来というもの、性的衝動によってふたたび結合しようと努めると、勇んで仮定すべきなのであろうか?(……)
しかし、批判的な考慮から出た数言をつけ加えておく必要があろう。ここに展開した仮定を、果たして確信しているかいないか、また、どの程度まで信じているのかと問う人があるかもしれない。私は自分でも信じていないし、他人にもそれを信じよなどと求めはしないと答えたい。もっと正確にいえば、私がどの程度それを信じているのか分からないのである。確信というような感情的な要素は、ここではまったく問題とするに足りないように思われる。われわれは、ある思考過程に身をまかせ、それがみちびくところまでついて行くことはできるが、それはただ学問的な好奇心からである。いってみれば、悪魔の代弁者として思考の路を追うのだが、だからといって、悪魔に身を売ることにはならない。(……)
以前の状態を回復しようとするのが、現実に本能の一般的な性質であるとすれば、精神生活において多くの事象が快感原則の支配をうけずに成就されることは、あやしむにたりないであろう。この性質はそれぞれの部分的衝動につたえられて、それぞれの場合に応じて発展経路の一定段階にふたたび到達することになるであろう。しかし、これらのすべてのことは、快感原則がまだ支配するにいたらない場合のことであるから、快感原則に対立する必要はないのであって、衝動的な反復現象が快感原則の支配とどのような関係があるかは、未だに解決されていない課題である。(フロイト『快感原則の彼岸』)
実は究極の「享楽」概念とはここに起源があるとさえ考え得るし、ラカンのセミネールⅩⅠのラメラ lamella 神話も同じく。同じセミネールに現れる「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」やら 「生きる存在(生物)の到来 l'avènement du vivant」という表現もこの神話にかかわるのだが、ラカン派でさえこれをめぐって語る人は少ない(二つの欠如 Deux manques)。
だが対象a の最も原初的意味を問いたければ、この神話に思いを馳せざるをえないはずである。
フロイトの上の文をラカンがどう捉えているのかを知るためにも、セミネールⅩⅠに現れる「アリストファネスの神話 le mythe d’ARISTOPHANE」の箇所は決定的だろう。
己を補完してくれるものの探求というアリストファネスの神話は、悲劇的で魅惑的なイメージを織り上げています。この神話は、生命体が愛において求めているのは、他者であり、性的半身であると述べています。愛の神秘のこの神話的表現に代えて、精神分析体験は、性的補完物の探求とは違う主体による別の探求を置きます。それは、自分自身から永久に失われてしまった部分の探求です。この部分を構成しているのが、己は有性の生命体にすぎず、もはや不死ではないという事実です。(ラカン、S.11、ミレール版邦訳、p.274)
日本では荻本氏が次のように語っている。
フロイトは『制止、症状、不安』のなかで、安易に、不安信号の布置が形成されるのは、生下時の新生児の血管運動性反応、呼吸困難としていますが、分離不安というものを云々するのであれば、この最初の分離において、主体が分離するのは母親ではありません。胎児は子宮内において卵膜に包まれ、羊水のなかに浮かんでいます。卵膜は母体由来の脱落膜、胎児由来の絨毛膜,羊膜からなり、一部分が胎盤として形成されます。胎盤はいわば寄生的に形成される母体と胎児を連絡する器官であるといえます。母体由来の基底脱落膜と胎児由来の絨毛膜有毛部とが複雑にからみあっています。分娩時にこどもは文字通り生下つまり落ちるのですが、同時に羊膜も落ちます。分離するということであれば、こどもは、生下時、羊膜と別れるのであり、鏡像段階以前ということにあえて言及するならば、a はこどもの身体の一部でもあった羊膜であるといってしかるべきです。(荻本芳信,2008)
これはーー荻本氏はラメラ神話に触れていないにもかかわらずーー、その文脈のなかで読みうる「すぐれた」指摘である、とわたくしは思う。
ラカンのラメラ神話は次の通り。
新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。
ラメラ、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係がある何物かです。それがなぜかは後ですぐお話しましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。
ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。
こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。
このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。
これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。
それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のもの(形象化したもの?)です。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
Cette lamelle, cet organe qui a pour caractéristique de ne pas exister, mais qui n'en est pas moins un organe - et je pourrai vous donner plus de développement sur sa place zoologique - je vous l'ai déjà indiqué, c'est la libido.
La libido, je vous ai dit, en tant que pur instinct de vie, c'est-à-dire dans ce qui est retiré de vie, de vie immortelle, de vie irrépressible, de vie qui n'a besoin, elle, d'aucun organe, de vie simplifiée et indestructible, de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée.
C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.
わたくしはドゥルーズの珍しくやや曖昧な表現ーー神話的な表現ーーでさえこの文脈のなかで読みたくなる・・・
母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。
しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》
恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)