2016年11月18日金曜日

二種類の漁色家

欲望と愛は、構造的に相容れない。欲望とは欠如の欲望であるというような意味のことをラカンは言っている。

より正確に言えば、欲望において、《〈他者〉のなかに探し求めるものは、手に入れたい(欲望しうる)le désirable ということであるよりは、欲望する le désirant ということであり、それは〈他者〉が欠如しているものを欲望するということである ce que cherche le désir c'est moins, dans l'autre, le désirable que le désirant, c'est-à-dire ce qui lui manque》(ラカン、セミネール9)と。

さらによりいっそう古典的ラカンなら次のような言明がよく知られている。

欲望は、満足への欲求(性向appétit)でも、愛への要求でもなく、二番目のもの(愛への要求)から最初のもの(満足への欲求)を引き算することから生じる差異である。

C'est ainsi que le désir n'est ni l'appétit de la satisfaction, ni la demande d'amour, mais la différence qui résulte de la soustraction du premier à la seconde,(ラカン、エクリ、La signification du phallus

他方、欲動をめぐっては、セミネール11で次のように言っている(仏語では、目標/目的の区別がないらしく、英語の aim/goal を使って語っている箇所である)。

……ここで我々は zielgehemmt(目標を禁止されたもの)ーーフロイトの『集団心理学と自我の分析』などに出現する語ーーの謎を解明することができる。欲動は、その目的に到らないままで満足を獲得しうる形態の謎について。(……)

欲動は、目的 goal に到達しないままで、満足されうる。…その目標 aim は…円環への回帰 retour en circuit である。…(欲動の)対象は、実際には、シンプルに空洞 creux・空虚 vide の現前であり、フロイトが言うように、どんな対象によっても占められうる。そしてこの空洞の代理を、喪われた対象a の機能の形式のなかでのみ我々は知っているだけである。この対象a は口唇欲動の起源ではない。対象a は原初の栄養物(母乳)によって導入されるものではない。どんな栄養物も口唇欲動を決して満足させない。ただ永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant の周りを循環する contourner ことのみが満足をもたらす。(ラカン、S.11、私訳)

この文はフロイトの「快の獲得」をめぐる叙述とともに読むことができる。

まずはじめに口 der Mund が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは‘性的 sexuell'と名づけることができるし、またそうすべきものである。(Freud,S.1940 "Abriss der Psychoanalyse" 「精神分析学概説」1940)

事実、ラカンは後年、次のように言っている。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)

欲望と欲動をめぐってはもちろんこれだけではない。いろんなことをいうラカン派がいてわたくし自身あまり瞭然としていない。ただ上のような捉え方における欲望と欲動の対比をアレンカ・ジュパンチッチは「とても愉快に」説明している。

ラクロ(『危険な関係』)のヴァルモン子爵、モリエールのドン・ファン。ジュパンチッチが『リアルの倫理』で叙述した欲望と欲動の漁色家の相違とはおおよそ次のようなものである。

ヴァルモン子爵は欲望の英雄的人物像とされる。それは、欲望は常に、欠如の欲望・失われているものの欲望である(すなわち欲望は、欲望自体の永続化を欲望する)という意味において。

たとえばヴァルモンは愛の落し穴に陥ることを拒絶する。彼はどんな特定の対象に落着くことも拒絶する。永遠に失われている「正しい女」への絶え間ない探求を繰り返すために、彼自身の幸福さえ犠牲にする。《欲望を「満足させる」かに見せかけるどんな愛の対象からも欲望を分け隔てる裂目》(ジュパンチッチ)ーーその裂目を情け容赦なく開いたままにしておくタイプである。

対照的に、ドン・ファンは《満足感を以て彼の行動の欲動を構成する裂目を見出す。ドン・ファンの事例は、欲望の換喩の例ではない。「真の」(欲望の)対象の永遠の到達し難さではない。彼は正しい女を探し求めていない。(…)それどころかドン・ファンにとって、どの女・すべての女は正しい女である。彼をいっそう駆り立てる(ドライブdriveする)のものは、以前の愛人のなかに見出せなかったものではなく、彼がまさに見出していたものである。ドンファンは目標に至らずに満足を獲得する。より正確にいえば、彼の目標は「循環運動に復帰すること」である》。


ーー上の文に「欲望の換喩の例ではない」と「換喩」という言葉が出てきているが、これはまず、《欲望は存在欠如の換喩であるle désir est la métonymie du manque â être, (Lacan,E.640)に依拠しているはず。

これをめぐってはーー上にいろんなことをいうラカン派がいると記したようにーーわたくしは現在、コレット・ソレールの《欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩である la métonymie qui vaut pour le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.》(2013)という見解に傾きつつあるのだが、ここでは旧来の古典的ラカンの欲望/欲動解釈に基づいた記述に終始している。

※古典的ラカンを覆す最新のラカン派の見解のさわりは、「欲望は剰余享楽の換喩である」にいくらかのメモがある。

…………

女のことに限らず、さてわれわれはどっちのタイプなんだろう? 

たとえば野坂昭如の次の叙述は、いっけんヴァルモン子爵タイプ(欲望タイプ)のことを言っているように読めないではない。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

だが実情は、その都度満足を見いだすドン・ファンタイプ(欲動タイプ)がエロ道の真髄なのではなかろうか。すなわち、ラカン曰くの《ただ永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant の周りを循環する contourner ことのみが満足をもたらす》タイプ・・・

どうだろう、研究者やら、いやもっと「格調高く」芸術家諸君でもよい。どっちのタイプなんだろ? 実は永遠に失われている「真理」や「美」の周りを循環することに満足を見いだしてるんじゃないか。 文芸愛好家にすぎないわたくしはすくなくともそうだね。

(さてソウカナ・・・。たとえば音楽のドンファンではなさそうな気がしないではない・・・、たぶんコレット・ソレールのいうような混淆系ではなかろうか、つまり欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩型ではなかろうか)

次の文は、すこし異なった意味(「崇高」)で言われている内容だが、わたくしは今いった文脈で読みたくなる。

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S.7ーーカントの「美は無関心」をめぐって