2016年11月18日金曜日

基本版:二つの欠如

熱心な質問者がいるが、で、何が疑問なのかわたくしにはさっぱりわからないね。それともこっち系の質問なんだろうか・・・

質問とはあることを知りたいと思うことである。しかし、多くの知的論争においては、講演者の発表に続く質問は欠如の表明ではなく、充実の確認である。質問という口実で、弁士にけんかを仕掛けるのだ。質問とは、その場合、警察的な意味を持つ。すなわち、質問とは訊問である。しかし、訊問される者は、質問の意図にではなく、その字面に答えるふりをしなければならない。その時、ひとつの遊戯が成立する。各人は、相手の意図についてどう考えるべきか、わかっていても、遊戯は、真意にではなく、内容に答えることを強制する。誰かが、さりげなく、《言語学は何の役に立つのですか》と、私に質問したとする。それは、私に対して、言語学は何の役にも立たないといおうとしているのだが、私は、《これこれの役に立ちます》と、素直に答えるふりをしなければならない。対話の真意に従って、《どうしてあなたは私を攻撃するのですか》などといってはならない。私が受け取るのは共示〔コノタシオン〕であり、私が返さなければならないのは外示〔デノタシオン〕である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

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以下、すべて以前に書いたものの再掲。

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)


◆ミレールの古典的な注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)

対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。   





〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)

ーー現在の主流ラカン派(ミレール等)は、この説明にある「存在欠如」は「享楽欠如」に修正。とくにコレット・ソレールの見解が鮮明→参照:「リアルな対象a とイマジネールな対象a

つまり微調整するところはないではないが、この説明が基本。ただし二つの欠如への言及が欠けてはいる。

【二つの欠如 Deux manques】

ラカンはセミネール11で、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている。

【主体の到来と生存在(生物)の到来】

一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこと。

続いて同じ内容を重ねて強調している。このリアルな欠如は、生存在が性的な形で再生産された時に、己れ自身の部分として喪失した欠如である、と。《Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant : - à être ce vivant qui se reproduit par la voie sexuée》


【ラメラ神話】

この欠如がラメラ神話にかかわる、ということ。

このラメラ lamelle、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。

それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.(ラカン、S.11ーーエロス的主体による絶え間ない反復

そしてこのラメラがリアルな対象a、あるいは《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》(S.11)にかかわる。




ーーより詳細には、「二つの欠如 Deux manques (Lacan , Paul Verhaeghe)」(ただし英文・仏文を貼り付けているだけのメモ)

これは基本的な区別。ほかにも種々の形式で対象aはありうる。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらは原初の対象a objets a primordiaux の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre Athens, May 2013)

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で、荻本氏の次の記述のどこが問題があるんだろ?

フロイトは『制止、症状、不安』のなかで、安易に、不安信号の布置が形成されるのは、生下時の新生児の血管運動性反応、呼吸困難としていますが、分離不安というものを云々するのであれば、この最初の分離において、主体が分離するのは母親ではありません。胎児は子宮内において卵膜に包まれ、羊水のなかに浮かんでいます。卵膜は母体由来の脱落膜、胎児由来の絨毛膜,羊膜からなり、一部分が胎盤として形成されます。胎盤はいわば寄生的に形成される母体と胎児を連絡する器官であるといえます。母体由来の基底脱落膜と胎児由来の絨毛膜有毛部とが複雑にからみあっています。分娩時にこどもは文字通り生下つまり落ちるのですが、同時に羊膜も落ちます。分離するということであれば、こどもは、生下時、羊膜と別れるのであり、鏡像段階以前ということにあえて言及するならば、a はこどもの身体の一部でもあった羊膜であるといってしかるべきです。(荻本芳信,2008)

ラメラってのは薄片なんだから羊膜みたいなもんだろ、「羊膜」神話でいいじゃないか。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。(ラカン、S.11)
例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11)

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で、象徴的去勢・想像的去勢があるとしたら、このラメラ喪失を現実界的去勢(原去勢)と読んで何が悪いんだろ?

以下の文に、《原初の享楽の不可能性を強化する》とあるが「強化する」とは現実界的去勢を強化するの意味だよ。

フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体のに、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(もっとも)ラカンがこの欠如を象徴的去勢と命名した事実は、彼の理論の理解可能性を改善したわけではない。…(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳ーー第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢