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2017年2月13日月曜日

「マスクされた精神病 masked psychosis」・「マスクする神経症 masking neurosis」

深さの問題としてとらえれば「マスクされた精神病」masked psychosis のある一方、神経症が精神病(あるいは身体病)をマスクすることも多い(“masking neurosis”)。ヤップは、文化的変異を基礎的な病いの被覆(うわおおい overlay)と考えていた。

私は精神病に、非常に古い時代に有用であったものの空転と失調の行きつく涯をみた(『分裂病と人類』1982年)。分裂病と、うつ病の病前性格の一つである執着性気質の二つについてであったが、要するに、人類に骨がらみの、歴史の古い病いということだ。これは「文化依存症候群」のほうが古型であるという通念に逆らい、いずれにせよ証明はできないが、より整合的な臆説でありうると思う。むろん文化依存症候群の総体が新しいのではなく、表現型の可変性が高いという意味である。(……)

逆に、軽症な人のほうへと目を移してゆけば、文化的ステロタイプの中から次第に個人性が卓越してくるのではないか。すなわち文化依存症候群から、普遍症候群の反対側に個人症候群にむかい、次第にその色を濃くするスペクトラム帯があるということである。力動精神医学が長く神経症に自己限定し、フロイトが精神病治療に対してほとんど忌避に近い態度をとったものおそらくそのためだろう。(中井久夫『治療文化論』pp.93-95)

と記された後、個人的症候群 → 文化依存症候群 → 普遍症候群のスペクトラム図が示されている。ここにはすでに現在流通する自閉症スペクトラム、分裂病スペクトラム(統合失調症スペクトラム)の概念に近似したものが示唆されている。

それはさておき、「マスクされた精神病 masked psychosis」、あるいは「マスクする神経症 masking neurosis」って概念がすばらしいな。

フロイトの「心的被覆 psychischen Umkleidungen」(『マゾヒズムの経済的問題』)、あるいはラカンの《 l'enveloppe formelle du symptôme 症状の形式的封筒 》(E.66、1966)よりもずっとわかりやすい(参照:フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム)。

やあやっぱり神経症やら精神病やらの区分をまがおで論じていたらダメだったんだよ、最初から(臨床初期の判断において、いまだ大切なものがあるのは知らないではないが。自由連想はもはやお釈迦にしたほうがいいんじゃないかね・・・)

馬鹿げたことじゃない、精神分析がペテン escroquerie に陥りうると言うのは》c'est pas absurde de dire qu'elle peut glisser dans l'escroquerie. (ラカン、S.24、1977)
精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい? Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S.24.1977)

ほぼ15年前ほどから私は感じはじめたんだ、私の仕事のやり方、私の伝統的な精神分析的方法がもはやフィットしないようになってしまったと。私はとても具体的にこれが確かだとすることさえできる。あなたが分析的に仕事をしているとき、いわゆる予備会話をするだろう。この意味は誰かを寝椅子に横たえる瞬間をあとに延ばすということだ。あなたはいつ始めるかの目安をつかむ。あなたが言うことが出来る段階のね。さあ私は患者を寝椅子に横たえるときが来た、と。ところが多くの患者はこの段階までに決してならない。というのは彼らが訪れてくる問題は、寝椅子に横たえさせると、逆の治療効果、逆の分析効果をもっているから。

それで私は自問した、これはなんだろうと。ここで扱っているのはなんの問題なんだろう? と。どの診断分類なのだろう? あらゆる診断用語のニュアンスを以て、どの鑑別的構造に直面しているのだろう? 私が思いついた最初の答、それによって擁護しようと思った何か、いまもまだ擁護しようとしているものは、フロイトのカテゴリーAktualpathologie(現勢病理≒現実神経症)だった。

ここに私はこれらの患者たちのあいだに現れる数多くの症状の処方箋を見出した、まずはパニック障害と身体化somatisationだった、不十分な象徴化能力、徹底操作や何かを言葉にする能力の不足とともに。これが我々の最も重要な道具、「自由連想」を無能にしたのだ。(ポール・バーハウ、2011)

…………

現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』所収)

ーーいやあ、ほんとにまがおでエディプスなんていってたらダメだよ、いまどき。そうだろ? 巷のフロイト研究者さんよ(末尾資料記載)。

今、私は思い起こしてみる。あの時私はなぜ、今話しているような「ふつうの精神病」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか、と。私は言おう、我々の臨床における硬直した二項特性ーー神経症あるいは精神病ーーから逃れようとした、と。

あなたがたは知っている、ロマン・ヤコブソンの理論では、どのシニフィアンも基本的に次のように定義されることを。それは、今では古臭い理論だ。他のシニフィアンに対する、あるいはシニフィアンの欠如に対するそのポジションによって定義されるなどということは。ヤコブソンの考え方は、シニフィアンの二項対立定義だった。私は認める、我々は長年のあいだ、本質的に二項対立臨床をして来たことを。それは神経症と精神病だった。二者択一、完全な二者択一だった。

そう、あなたがたにはまた、倒錯がある。けれど、それは同じ重みではなかった。というのは本質的に、真の倒錯者はほんとうは自ら分析しないから。したがって、あなたが臨床で経験するのは、倒錯的痕跡をもった主体だけだ。倒錯は疑問に付される用語だ。それは、ゲイ・ムーブメントによって混乱させられ、見捨てられたカテゴリーになる傾向がある。

このように、我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・精神療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。 (Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

…………

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(心的なもの)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初の事例であるドラの症例においてはっきりと現れている。(……)

この事例の核心は、二重の構造にあると言いうる。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが《身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen》と呼んだものーーである。のちに『性欲論三篇』にて、《欲動の固着fixierten Trieben、Fixierung der Libido》と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因的な表象の抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動である。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、《症状の形式的な外被l'enveloppe formelle du symptôme》に帰着する。すなわち、それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)である。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、《あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの》(『あるヒステリー患者の分析の断片』)である。享楽の現実界は、症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2003)

で、フロイトの核心は、現勢神経症だね、「現勢神経症スペクトラム」でいいんじゃないかね、殆どすべては。現在の寝言のようなDSM5じゃなくて、次期DSM6のありうべき新しい概念として「現勢神経症スペクトラム Aktualneurose Spectrum」を「世界に先駆けて」提案しておくよ。ようはフロイトに戻れ! だな。かつまた、日本寝言派精神科医連中は中井久夫に戻れ!だよ

中井久夫)フロイトは神経症を三つ立てています。精神神経症、現実神経症(現勢神経症)、外傷神経症です。彼がもっぱら相手にしたのは精神神経症ですね。後者の二つに関してはほとんどやらなかった―――あるいはやる機会がなかったと言った方がいいかもしれないけど。フロイトの弟子たちも「抑圧」中心で、他のことはフロイティズムの枠内ではあまりやっていませんね。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離ーーホロコースト生存者の子供たちのPTSD)

…………

われわれが心的なもの(心の生活)と呼ぶもののうち、われわれに知られているのは、二種類である。ひとつは、それの身体器官と舞台、すなわち脳(神経系)であり、もうひとつは、われわれの意識作用である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940)
正常人といってもいずれもみな一定の範囲以内で正常であるにすぎず、彼の自我は、どこかある一部分においては、多少の程度の差はあっても精神病者の自我に接近している…。

Jeder Normale ist eben nur durchschnittlich normal, sein Ich nähert sich dem des Psychotikers in dem oder jenem Stück, …(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』1937年)

正常人だと思っているエディプス的「(精神)神経症」諸君、おわかりだろうか? 君たちの核は精神病、あるいは現勢神経症があるのだよ

…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「精神的に選択され、精神的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)
……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

もっとも寝言派精神科医でも役に立つことはあるんだろうよ。理論的には「寝言」でも、マッサージ師や娼婦のような精神衛生維持治療をしてくれているはずだから。

人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。

通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には……)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。

もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュートも、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』pp.129-130)


プロスティテュート(売春婦)であるという自己規定が必要だね、彼らは。

……私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』)

ーーやあシツレイ! 暴言を吐いて。巷でエラそうにしている精神科医にはかなり気に障る文かもな、これ。とはいえツイッターで精神科医らしき人物のツイートを垣間読むと殴ってやりたくなることがままあるからな・・・

いずれにせよ大切なのはイエスになることさ、『治癒者イエスの誕生』(山形孝夫)という名著があるだろう? わたくしは読んでないが噂ではすばらしい著書らしいよ。

そもそも人はナザレのイエスにたいするニーチェの限りない敬愛を忘れている。ニーチェに戻れ!

◆ニーチェ『反キリスト者』より
キリスト教が、その最初の地盤を、最下層の階級を、古代世界の冥府を立ちさったとき、権力をもとめて野蛮民族のあいだへと出かけていったとき、そこで前提となったのは、もはや疲れた人間ではなく、内的に粗野となったおのれを引き裂く人間、――強いが、しかし出来そこないの人間であった。
――もとに話をかえして、私はキリスト教のほんとうの歴史を物語る。――すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤解であるーー、根本においてはただ一人のキリスト教者がいただけであって、その人は十字架で死んだのである。「福音」は十字架で死んだのである。この瞬間以来「福音」と呼ばれているものは、すでに、その人が行きぬいたものとは反対のものであった。すなわち、「悪しき音信」、禍音であった。「信仰」のうちに、たとえばキリストによる救済の信仰のうちに、キリスト者のしるしを見てとるとすれば、それは馬鹿げきった誤りである。たんにキリスト教的実践のみが、十字架で死んだその人が生きぬいたと同じ生のみが、キリスト教的なのである・・・今日なおそうした生は可能であり、或る種の人たちにとってはそのうえ必然的ですらある。真正のキリスト教、根源的キリスト教は、いかなる時代にも可能であるであろう・・・信仰ではなく、行為、なによりも、多くのことをおこなわないこと、別様の存在である・・・意識の状態、たとえば、信仰とか真なりと思いこむとかはーーいずれの心理学者も知っていることだがーー本能の価値にくらべれば完全にどうでもよいことであり、五級どころのことである。もっと厳密に言うなら、精神的因果性の全概念が誤りなのである。キリスト者であることを、キリスト者であるゆえんのものを、真なりと思いこむことに、たんなる意識の現象性に還元することは、キリスト者であるゆえんのものを否定することにほかならない。実際のところ一人のキリスト者も全然いなかったのである。「キリスト者」なるものは、二千年以来キリスト者と呼ばれているものは、たんに心理学的な自己誤解にすぎない。
――福音の宿業はあの死とともに決せられた、――それは「十字架」にかかったのである・・・死がはじめて、この予期もしない恥ずべき死がはじめて、一般にはたんに悪党をかえるためにのみ取っておかれた十字架がはじめて、――この最も身の毛のよだつパラドックスがはじめて、使途たちに本来の謎を提示した、「あれは誰であったのか? あれは何であったのか?」――動揺させられ、最も深い傷手をおった感情、そうした死はおのれたちの関心事の論駁であるかもしれないとの疑惑、「なぜまさしくこうであるのか?」との恐ろしい疑問符――こうした状態はあまりにもよく理解できることである。ここでは万事が必然的であり、意味を、合理性を、最高の合理性をもたなければならなかった。使徒の愛はなんらの偶然も知らないのである。いまやはじめて深淵が口を開いた、「彼を殺してしまったのは誰か? 彼のほんとうの敵は誰であったのか?」――こうした問いが閃光のごとくひらめいたのである。答え、支配権をにぎっているユダヤ人ども、その最上流階級。この瞬間以来彼らはおのれたちが秩序に反抗する叛乱のうちにあると自覚し、その後はイエスをも秩序に反抗して叛乱をくわだてたと解した。そのときまでは、こうした戦闘的な、こうした否と断言し、否を実行する特徴はイエスの像のうちにはなかった。それどころか、彼はこうしたこととはあいいれなかった。明らかにこの小さな集団はまさしく主要な点を理解していなかった、自由、ルサンチマンのあらゆる感情を越えでた卓越性という、こうした死に方のうちにある模範を、――これこそ、総じて彼らがイエスをいかに少ししか理解していなかったかを示す一つの目じるしである! 本来イエスがその死でねがったのは、おのれの教えの最も強力な証拠を、証明を公然とあたえるということ以外の何ものでもありえなかった・・・しかし彼の使徒たちには、この死を容赦することなど思いもおよばなかった、――そうすれば、最高の意味で福音的であったであろうに。ましてや、心の柔和な好ましい平安のうちでイエスと同じ死にわが身を提供することなど思いもおよばなかった・・・まさしくこのうえなく非福音的な感情が、復讐が、ふたたび優勢となった。事態がこうした死でけりがつくことなどありうべからざることであった。「報復」が、「審判」が必要となったのである(――しかし、「報復」、「罰」、「審判」にもまして非福音的なものがなおありえようか!)。もういちど俗うけするメシアの待望が前景にでてきた。歴史上の一瞬間が注視された、「神の国」はその敵を審くために来るというのである・・・しかしかくして万事が誤解されてしまった、終幕としての、約束としての「神の国」とは! だが、福音とはまさしく、この「国」の現存、実現、現実であったのだ。まさしくそうした死こそこの「神の国」であった。いまやはじめて、パリサイ人や神学者に対する軽蔑や反感の全部が師の類型のうちへともちこまれた、――かくして師その人が一箇のパリサイ人、神学者にでっちあげられた! 

他方、これらまったくの支離滅裂におちいった者どもの狂暴となった崇拝は、イエスが教えたところの、誰にも神の子たるの資格をあたえるあの福音的な平等観はもはや我慢できなくなった。彼らの復讐は、法外な仕方でイエスを持ちあげ、おのれたちから引きはなすことであったのである。あたかも、以前ユダヤ人がその敵たちへの復讐からその神をおんれたちから引きはなして、高所に持ちあげてしまったのとまったく同様である。ただ一つの神とただ一人の神の子、この両者こそルサンチマンの所産である・・・(ニーチェ『反キリスト者』)

…………

※付記
ラカンはその教えの最後で、父の名と症状とのあいだの観点を徹底的に反転させた。彼の命題は、父の名の「善き」法にもかかわらず症状があるのではなく、父の名自体が、あまたある症状のなかの潜在的症状ーーとくに神経症の症状--以外の何ものでもない、というものだ。ヒステリーの女性たちとともにフロイトによって発明された精神分析は、まずは、父によってつくり出された神経症的な症状に光を当てた。だが、精神分析をこれに限るどんな理由もない。事実、精神病においてーーそれは格別、我々に役立つ--、主体は、母から分離するために、別の種類の症状を置こうと努める。

この新しい概念化において、症状は、たとえ主体がそれについて不平を言おうとも、母から分離し、母の享楽の虜にならないための、必要不可欠な支えなのだ。分析は、症状の病理的で過度に制限的な側面を削減する。すなわち、症状を緩和するが、主体の支えとしての必要不可欠な機能を除去はしない。そして時に、主体が以前には支えを仕込んでいない場合、患者が適切な症状を発明するよう手助けさえする。(Geneviève Morel の‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law'(2009、PDF))
……精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することである。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論