2017年2月14日火曜日

踏み越え、あるいは侵犯(transgression)

《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではない。Jenseits von Gut und Böse"... Dies heißt zum Mindesten nicht "Jenseits von Gut und Schlecht》(ニーチェ『道徳の系譜』)

…………

「踏み越え」transgression とは、あまり聞きなれない言葉かと思う。しかし、オクスフォード辞典(OED)によれば、15世紀から「法やルールの埒外に出る」という今の意味で、心理学よりも法学のほうで使われてきたようである。お馴染みの「リグレッション」(退行)「プログレッションン」(前進)と同系列の言葉であるが、「トランス」は「越えて向こうへ」という意味であるから「踏み越え」と訳しておく。私の意味では、広く思考や情動を実行に移すことである。知情意を行動化するということか。抽象的に言えば「パフォーマンスのモード」の切り替えと定義してよかろう。

その逆は「踏みとどまり」holding-on である。実行に移さないように衝動に耐えて踏みとどまることである。

今にはじまった問題ではないし、私が何らかの明快な答えを与えるわけではない。ただ、踏み越えは現在無視できない重要性を持っているのではないかという問題提起をしておきたい。21世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目立つ。テロとテロへの反撃という国家社会的政治水準から個人の非行まで、その例は枚挙に遑がない。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

ラカンもセミネール7で、享楽の踏み越え transgressionと言った、《享楽の侵犯 la jouissance de la transgression》(S.7)

多くのラカン派はここで留まってしまっている。だが10年後、次のように言うことになる、《何も侵犯などしない!on ne transgresse rien ! 》(S.17)

Ce n’est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption, chute dans le champ, de quelque chose qui est de l’ordre de la jouissance : un boni.(ラカン、S.17)

同じセミネールで、《享楽の侵入 une irruption de la jouissance》(S.17)とも言う。

だがさらに転回がある。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 (ロレンツォ・キエーザ2004 Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)

ジジェクとロレンツォの考え方は、まずは次のラカン文に由来すると言ってよい(最も主要な表現のひとつとして)。

現実界は形式化の行き詰り以外の何ものでもない。le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(S.20)

この文脈での、ジジェクのおそらく最もすぐれて簡潔な現実界の定義は次の文である。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に固有のものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在 being(現実 reality)があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

ただしジャック=アラン・ミレールによれば、さらなるラカンの転回がある。ミレールの依拠するラカンの言葉は、「法のない現実界」である(参照: 何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)

・le Réel sans loi.(法のない現実界)

・Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre(本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない)(ラカン、S23、3 Avril 1976)

さて、こうしてラカンは「踏み越え=侵犯」に回帰したのか否か。それはわたくしには判然としない(この享楽の観点においては、侵犯・侵入・形式化の袋小路・彼方にある法のない現実界、のそれぞれを並立的に考えてしまいがちのところがわたくしにはある)。

いまはさしあたり中井久夫の「踏み越え」論からさらに引用してみよう。

不幸と幸福、悪(規範の侵犯)と善、病いと健康、踏み越えと踏みとどまりとは相似形ではない。戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、産児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えであるといってよかろう。

これに対して、踏みとどまりは目にとまらない。平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでという期限がないメインテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。(……)

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。(……)私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。(……)

私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。

自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。

もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ジジェクや、さらに遡ってニーチェなどの観点からすれば、「秩序」を愛する「保守的な」考え方とみえるということがあるかもしれない。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである(ニーチェ「反時代的考察」)
人はおのれの野性において、おのれの不自然から、おのれの精神性から最もよく回復する・ ・ ・(ニーチェ『偶像の黄昏』)

とはいえ、中井久夫の文には《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》とあった。これはミレール=ラカンの脚立論とともに読むことができるかもしれない(参照:芸術家集団による美の「脚立 escabeau」)。

脚立 escabeau は梯子 échelle ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある。escabeau とは何か。私が言っているのは、精神分析の脚立であり、図書館で本を取るために使う脚立ではない。…

脚立は横断的概念である。それはフロイトの昇華 sublimation の生き生きとした翻訳であるが、ナルシシズムと相交わっている。…

脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントーム特有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。…

ジョイスは症状(サントーム)自体を…彼の芸術の「脚立」へと移行させた…モノの尊厳の脚立 l'escabeau à la dignité de la Chose に高めた。…
脚立を促進 fomente するのものは何か。それはパロール享楽 jouissance de la parole の見地からの言存在 parlêtre である。パロール享楽は「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beauをもたらす。

他方、サントーム sinthome は、言存在のサントームとして、言存在の身体に固着 tient au corps du parlêtre している。症状(サントーム)は、パロールがくり抜いた徴 marque que creuse la parole から起こる。…それは身体のなかの出来事 événement dans le corpsである。(JACQUES-ALAIN MILLER, 4/15/2014, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

他方、ジジェクの別の観点は、現在の新自由主義システムそのものが「踏み越え」形式をもっているというものである。

まずドゥルーズ&ガタリを引用しよう。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の欲動、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)

ラカンは次のように言っている。

自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う。さあ、あなた方はその上に乗った…資本家の言説の掌の上に…。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972ーー器官なき身体と資本家の言説

おそらくこういった考え方を基にしてだろう、ジジェクは次のように言う。

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012ーー資本の欲動という海に浮かぶ孤島

われわれを支えている資本主義システム自体が、暴力のゼロ度という考え方でもある。

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

支え自体が「踏み越え」だとしたら、われわれはどうしたらよいのか? ジジェクの問いはこのまわりを常に廻っているように思える。

実際、中井久夫自身も別の論で次のように言っている。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

この前提で中井久夫の「踏み越え」論を読まないと、いかにも保守的な考え方ではないか、ということになる。上に掲げた文から再掲するが、この文は、現在のむきだしの市場原理主義という観点とともに読まなければならない。、

私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。

自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。(中井久夫「「踏み越え」について」)

ここでわたくしが記している文脈においては、社会の支柱自体が「自己コントロール」を失っているのである。冒頭に引用した《21世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目立つ》とは、この文脈に置き換えて読みたい。もちろん上部構造には、自己コントロールと踏み越えの対決がある。

「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収ーー実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって

柄谷行人の上の記述、{(差異/同一性)同一性}→{(同一性/差異)差異}を援用すれば、{(踏み越え/自己コントロール)自己コントロール}→{(自己コントロール/踏み越え)踏み越え}となる。母胎(分母)自体が踏み越えのときに、分子で自己コントロールに固執すれば、次の結果を生む。

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の圧制と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant PDF)

こうして現在のシステムの座標軸を変えるには、「踏み越え」が必要だという論理がもたらされる。《行為は、可能なことの領域への介入以上のものである。ひとつの行為は可能なことの座標軸そのものを変化させ、その結果、それ自身の可能性の条件を遡及的に創出する。》(ジジェク、2010)

バディウの過激な表現、《何も起きないよりも、厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 》も同じ文脈のなかにある。そして次のような批判も生じる、《バディウはマオ+ラカンの最悪の結合であり、そのポジションは「ヘテローマッチョ」だ。》(メディ・ベラ・カセム)

もちろんシステム的暴力のゼロ度に全く不感症で、ただひたすら「自己コントール」信奉をするのみの巷間の「ほどよく聡明な」仔羊インテリ諸氏たちは、ジジェクに対しても同じような批判をするだろう。そしてバディウやジジェクサイドからの反駁は、連中はシステムの侍僕・侍女に過ぎないという具合になる。

柄谷行人の議論ーー世界共和国という国連による「世界同時革命」ーーもジジェクなどと同様の現状認識から生まれている筈である。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009