2017年2月16日木曜日

真理と嘘とのあいだには対立はない

人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我慾の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない Man muß gleichgültig geworden sein、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・(ニーチェ『反キリスト者』「序文」1888年)

上にあるようにニーチェは1888年、真理をめぐって《人は無関心 gleichgültig となってしまっていなければならない》とした。

ところで前年、すなわち1887年に出版された書には名高いカント批判がある。

「美とは関心なし(ohne interesse)に人の気に入る(gefallen)何かである」とカントは言った。この定義を、本当の「鑑賞者」であり芸術家である人がなした定義と比較して頂きたい。つまりスタンダールは、美は幸福を約束するものと呼んだのである。ここではいずれにせよ、カントが美的状態において浮き彫りにしたことがまさに拒絶され、消し去られているのである。それは無関心(le désintéressenment)である。果たしてカントが正しいのかスタンダールか。もっとも我らの美学者諸氏がカントを贔屓目にこんな事を量りに掛けてみたらどうだろう。美という魔法が掛けられて、いやそれどころか一糸纏わぬ女性の銅像を「関心なしに」観ることができるかどうかということである。おそらく彼らの無駄な努力に人はいささか笑いを禁じ得ないだろう。芸術家の諸々の経験はこのデリケートな点に関して「より関心を引く」ものであり、またピグマリオンが「審美的でない(unästhetisch)人間」であったというのはいずれにせよ当を得ていないのである。(ニーチェ『道徳の系譜』1887年)

はて「関心なし ohne interesse」と「無関心 gleichgültig」の相違があるのだろうか。

ドイツ語の辞書を眺めると、次の例文が掲げられている、

ohne Interesse, ohne Anteilnahme Er steht dieser Sache völlig gleichgültig gegenüber.

ーー「関心なくohne Interesse、共感なく、彼は全くgleichgültig である」とあり、ohne Interesseとgleichgültig は殆ど同意ではなかろうか? 独語に疎いものとしてあまり確たることはいえないが、ここでは「同意」の前提で話をすすめる。

とすれば、美に「関心なし」では許されないが、真理には「無関心」であるべきなのであろうか。

いやさらにもう一年前年の1886年の書にはこうある。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)
女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は嘘をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。(『善悪の彼岸』)

《女の最大の技巧は嘘をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである》とあった。

女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、 S18)

ーーよく知られているように、ラカンはパクリの天才である(そもそも初期ラカンの鏡像段階とはヴァレリーのナルシス断章のパクリでなくて何だというのか)。とはいえニーチェもパクリの天才であることはさらによく知られている。初期の『悲劇の誕生』におけるバッハオーフェン剽窃に始まり、晩年の遺稿にはこうもある、 《あらゆる『創造』の99パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》とある。 マンフレート・エーガーは、ニーチェを「受容の天才」と呼び、さらに後の書『ニーチェとバイロイトの受難劇』においては「盗みの天才」と 呼ぶようになる。

さてパクリではなく見せかけの話に戻るが、見せかけsemblant をめぐっては次の視点を忘れてはならないであろう。

分節化ーー見せかけの代数的 algébrique, du semblant 分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これが実在 réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何が実在 réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇するのである。》(Le séminaire, livre XVIII. D'un discours qui ne serait pas du semblant,1970-1971、私訳)

ーー見せかけでも徹底化すれば、リアルが現われるのである! !

というわけでーー何が「というわけ」か知らぬが、論理の飛躍をするときは便利な言葉であるーー、ニーチェの文の矛盾を突くのは児戯に類する。なぜなら真理は女なのだから。さらにはこう言ってさえよい、真理はレトリックである、と。ナイーヴにレトリックが悪いなどと寝言を言ってはならぬ。数学がレトリックであることは、20世紀になってようやく認知された。そしてそのレトリックを基にした物理学が世界を変えてきた。

証明の背後にある何かが証明するのではなく、証明が証明するのである。…数学はいつも新しい規則をつくり続け、いつも新しい交通路をつくっている、古い道路網をひろげることによって。/数学者は発明家であり、発見家ではない。/数学者はいつも新しい表現形式をつくりだす、といえよう。(ウィトゲンシュタイン「数学の基礎」)

われわれはニーチェのそれぞれの文を楽しめばよいのである。重苦しさや深刻さがお好きな謹厳居士連は、カントやハイデガーにでも専念しておればよろしい。フモールと哄笑を聞き分ける耳をもった精神の貴族だけがニーチェの読者に相応しい。

さてここで、上に引用した『道徳の系譜』に、《一糸纏わぬ女性の銅像を「関心なしに」観ることができるかどうか》とあったことを思い出そう。

この問いへの応答はーー間接的であるとはいえーー先ずはラカンによる次の文がよい。

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S.7)

よく知られているように、あまり美女すぎると、男のオチンチンは萎えてしまう。なんでもほどほどがよろしい。

ニーチェに戻るが、《真理が女》であるなら、《一糸纏わぬ女性の銅像を「関心なしに」観ることができるかどうか》とは、一糸纏わぬ真理に「関心なしに」向かうことができるかどうか、と変奏しうる。

真理のほうは、わたくしには容易にできそうである(だが「一糸纏わぬ真理」とは一体なんなのか。ここでは当面この問いを保留しておく)。美女の裸にはーーいま上に記したところではあるがーー無関心であるのは正直言っていささか自信がない。ラカンによる《美は欲望の宙吊り・武装解除の効果がある》とは理想的な、崇高な美である。クレオパトラ程度の美女や日本的隣のお姉さん的美女なら、わたくしは勃然としたままである可能性が高い。

ここまで「敢えて」文字通りに読んできたが、実はニーチェの〈女〉とは--当然のことながらーー隠喩である。

ここでもまた先ずラカン文にて補足しよう。

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立止まらないからにすぎない。(ラカン、セミネール9「同一化」)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、セミネール20「アンコール」)

「大他者の大他者はない」とは、真理を支えるものは何もないということである。これが、« Lⱥ femme»である。

だがこれは何もラカンの専売特許ではない。真理が女であり、非全体であることは、ニーチェの次の文があまりにも明瞭に教えてくれる。

………確信は虚言にもまして危険な真理の敵ではなかろうかとは、すでに長いこと私の考慮してきたところのことであった(『人間的、あまりに人間的』第一部 四八三)。このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、虚言と確信とのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? ――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! ――それぞれ確信は、その歴史を、その先行形式を、その模索や失敗をもっている。長いこと確信ではなかったのちに、なおいっそう長いことほとんど確信ではなかったのちに、それは確信となる。えっ? 確信のこうした胎児形式のうちには虚言もまたあったかもしれないのではなかろうか? ――ときおり人間の交替を必要とするだけのことである。すなわち父の代にはまだ虚言であったものが、子の代にいたって確信となるのである。――私が虚言と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で虚言するのか、目撃者がいないとき虚言するのかは、考慮しなくともよいことなのである。最もふつうの虚言は、おのれ自身を欺くそれであり、他人を欺くということは比較的に例外の場合である。――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である。すなわち、党派人は必然的に虚言者となる。(ニーチェ『反キリスト者』)

他方、ラカンの「真の」専売特許とは、真理が、女が、ーーあるいは《 Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある》とあったようにーーS(Ⱥ) が、ヴァギナ・デンタータやブラック・ホールであり得ることを示唆した点である。《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果》(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF)

上に、一糸纏わぬ真理に「関心なしに」向かうことが容易にできると記したが、あれはレベルの低いレトリックであったことを自覚している。真理がヴァギナ・デンタータやブラック・ホールであるなら、オチンチンの即座の武装解除はあまりにも瞭然としており、さらに武装解除どころか戦慄・苦悶・恐慌・奈落の底への崩落でさえありうる・・・

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)

ヴァギナデンタータでもあるS(Ⱥ) とは、もちろんȺ を徴示するシニフィアンである。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”)

これらの核心が「性関係はない=Ⱥ 」である(もうひとつは「身体の享楽」)。真理とは性関係の不在と身体の享楽である。あとはすべて見せかけ semblant 、レトリック、昇華である、というのがラカン専売特許の教えである。もちろん「教え」であり、これ自体のレトリックを疑わねばならない。すなわち「真理と嘘とのあいだには対立はない」。

ーーさてミナさん、ここに書かれたことをまさか「まがお」で読んではならない、笑って読めばよいのである。蛇足ながら、ネット上のことであり、そう断っておく。

…………

蛇足ついでに「性関係がない」について触れておこう。

全てが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ここでジャック=アラン・ミレールは性関係の不在以外に、話す身体ということをいっている。これは身体の享楽、そして自閉症的享楽、分裂病的享楽ということである(参照:だれもが自閉症的資質をもっている)。

昇華のひとつはこの「身体の享楽」の昇華である。

もう一つの「性関係の不在」の昇華、これについてはジジェクのあまりにも分かりやすい文章を掲げておくことにする(人はジジェクを侮ってはならない)。

二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は空腹を訴えるような眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女はビール瓶に変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性から見れば(キスで表現される)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにファロス的な存在に変える。男からすると、彼は女性を部分対象、つまり自分の欲望の原因に還元してしまう。この非対称ゆえに、性関係は存在しないのである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。絶対にありえないのは自然な美しい男女のカップルである。幻想においてこの理想的なカップルに相当するのは、瓶ビールを抱いているカエルだろう。この不釣り合いなイメージは、性関係の調和を保証するどころか、その滑稽な不調和を強調する。われわれは幻想に過剰に同一化するために、幻想はわれわれに対して強い拘束力をもっているが、右のことから、この拘束から逃れるにはどうすればよいかがわかる。同時に、同じ空間内で、両立しえない幻想の諸要素を一度に抱きしめてしまえばいいのだ。つまり、二人の主体のそれぞれが彼あるいは彼女自身の主観的幻想に浸かればいいのだ。少女は、じつは若者であるカエルについて幻想し、男のほうは、実は瓶ビールである少女について幻想すればいい。(ジジェク『ラカンはこう読め!』 鈴木晶訳p99~)

瓶ビールを抱いているカエル、これがわれわれの性関係のあり方である。じつは誰もが知っていることだ。

とはいえ奇跡的に雌雄カエルのカップルが生まれ得ないわけではなかろう、たとえそれが「カエル」同士であろうとも。

なにが雌雄カエルカップルを「奇跡的に」生むのか。ここではセミネール10「不安」のラカンの言明を「格調高く」訳しておくのみにする。

愛だけである、享楽が欲望に恵みを与えてくれることを許したもうのは。
« Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir ».(Lacan,S10, l3 Mars l963)

もちろんよく知られているように、《愛ゆえにわが救い主は死に給う Aus Liebe will mein Heiland sterben》

ここではカエル顔の美女Dorothee Mields 歌唱によるマタイ「愛ゆえに」を聴くことにする。

◆J. S. Bach - Aus Liebe will mein Heiland sterben - Herreweghe 




ーー人生の目的は、バッハを愛することである。もっとも武満徹のようにーーいや武満もちがっただろうーーマタイだけを特別視する必要はない。

昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……(武満徹 1996年2月19日)

翌日、武満は亡くなる(1930年10月8日 - 1996年2月20日)。

(ネット上では、バッハを愛することというのはもちろん隠喩である、と付け加えておかないとヒステリー的反応が生まれる怖れがある・・・)

だが愛とは究極的に何なのか? 完璧な美女を愛することなのか? 完璧な芸術を愛することなのか? バッハなど当時の音楽に潮流のなかでは田舎音楽ではなかっただろうか?

真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

究極の愛とは、去勢の愛である。弱さへの愛である。だれかを、あるいは何かを愛したなら、その欠陥を見出さなければならない。それが究極の愛である・・・

(くり返すが、わたくしはテキトウに書いている。この記事自体を笑ってやりすごしてもらわなければならない、そういうメッセージをところどころで挿しはさんでいるつもりである。実は最晩年のラカンの究極の愛とはさらにリルケ的愛ーー神への愛、見返りのない愛(リルケの『ドゥイノの悲歌』的な愛)があるのだが(Lacan in Italia, Milan: La Salamandra 1978)、それは割愛)。

ここではその見返りのない愛が謳われる「第七の悲歌」ではなく、わたくしがさらに愛する「第九の悲歌」の断片を掲げる。

幸福とはまぢかに迫りつつある損失の性急な先触れにすぎないのだ
……
たとえば閾。愛しあう二人は、昔からある扉口の閾を
かれら以前の多くの人、またかれらの後にくる未来の人々と同様に
すこしばかり踏みくぼめるが、それは二人にとって 通常の閾だろうか……、いな、かろやかに越える閾なのだ、(リルケ、『ドゥイノの悲歌』「第九の悲歌」手塚富雄訳)

ーーいやあすばらしい、いつ読んでも。



《人は、山頂で生活することに、……おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない》だけではなく、人は谷間で生活することにも熟達していなければならぬ。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」)