2017年2月1日水曜日

だれもが自閉症的資質をもっている

まず今では悪評高い「冷蔵庫マザー refrigerator mother」ーー「母親非難 mother-blaming」モデルの主要な起源のひとつーーの考え方の創始者の文を掲げる。

ほとんどの患者は、親の冷酷さ・執拗さ・物質的欲求のみへの機械仕掛式配慮に最初から晒されていた。彼らは、偽りのない思いやりと悦びをもってではなく、断片的パフォーマンスの視線をもって扱われる観察と実験の対象だった。彼らは、解凍しないように手際よく「冷蔵庫」のなかに置き残されていた。(レオ・カナー、In a public talk quoted in Time magazine in 1948)

カナーはもちろん(ほぼ現在に使われる意味での)「自閉症」概念(1943年)の創始者の一人である(アスペルガーがやや先行して1938年にこの語を使用している)。

そこでの自閉症とは「他人とコミュニケーションができない症状」という意味。

さらに言えば、autismの語源はドイツ語のAutismusであり、ギリシャ語のautos-(αὐτός 自己)と-ismos(状態)を組み合わせた造語で、フロイトと一緒に仕事をしたスイスの精神科医オイゲン・ブロイラーが「統合失調症患者が他人とコミュニケーションができない症状」を記述するために、1910年に用いたそうだ(参照)。アスペルガーによる「自閉症」概念の使用もブロイラーの記述をもとにしているという。いずれにせよ、autismとは、本来は「自己状態」ということであり、「閉じる」の意味は元からない。

ーーというおそらく「常識的」なことを今頃知った。autismが自己状態であるならば、いままで異和のあった表現もなんの問題もなくなる。たとえば「自閉症スペクトラム」とは、自己状態スペクトラムである。これであったら何の異和もない。自己状態から他者状態ーーたとえば言語という他者状態ーーに移行するのは、言語という道具がなければ生きていけない人間として已む得ないにしろ、その他者に囚われていることに気づかないままのほうがむしろ「病気」かもしれない。

ラカンは言語という他者に囚われることを疎外といったり象徴的去勢といったりする。

去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante(Lacan,S17, 18 Mars 1970)
…主体の最も深刻な疎外は、主体が己自身について話し始めたときに、起こる。 (ラカン、ローマ講演 ,Ecrits, 281、1953)

数多くのヴァリエーションがあるが、そのなかからいくらかを掲げておこう。

先ず、語 symbole は物の殺害 meurtre de la chose として顕れる。そしてこの死は、主体の欲望の終わりなき永続化 l'éterrusation de son désir をもたらす。(ラカン、ローマ講演、1953年)
フロイトの観点からは、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)
幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧のようなものがある il y ait du refoulement、と私は理解している。(Lacan,S.20, 13 Février 1973)

さて話を元に戻せば、「冷蔵庫マザー」概念を言い出したのは、べッテルハイムではあるが、上のカナーの文を読めばわかるように、実際の起源はカナーである。

ベッテルハイムは、ホロコーストの生存者だった(1939年のヒトラーの誕生日、強制収容所から逃げ出し米国に移住した)。彼曰く、自閉症の子供たちはホロコーストに置かれるのと同様な「極限状況」に苦しむ。そしてそれは母の情緒遮断・愛情欠如によって引き起こされると(参照:PDF)。

※ここでの文脈と異なるので敢えて引用しないが、「ホロコースト生存者の子供たちのPTSD」について、意想外の研究結果を以前メモしたことがある(参照)。


ところで《現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷》としているらしい。これは現在のポリティカル・コレクトネス規範などの観点からは、母親非難、ましてや「冷蔵庫マザー」などとは(ヨイコは)口が裂けても言ってはいけない、言えないという文脈のなかで捉えられる。

ラカン派臨床家の向井雅明氏は『自閉症について』 2016年にて、この経緯を次のように説明している。

自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイムなどの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。

生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子どもが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになるでしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養育法にたいする非難もなくなります。

ただしこうもある。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)

これも当然そうあるべきだろう。そして主体的選択とは原初の母子関係における主体的選択にかかわる。いずれにせよ、たんに「遺伝」が原因と言ってしまっては何も始まらない。いや次のようなことは始まるかもしれない。

前回引用したが、仏ラカン(ミレール)派のAgnes Aflaloはの文を再掲しよう。

自閉症の領野の拡大は、市場のひどく好都合な拡大をもたらす。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Report on autism,2012

もうすこし一般的には、次のような言い方もされる(この文はそのうちもう少し長く引用することにするが、今回ではない)。

(自閉症・メンタルディスオーダーの類の)精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)

…………

ところで現在ラカン派ではファルスの彼方にはーーフロイトの「快原理の彼方」にはーー自閉症的享楽 jouissance autiste がある、とされる。

まずはラカンのファルスの彼方をめぐる文を引用する。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…

ファルスの彼方 Au-delà du phallus……ファルスの彼方の享楽である!(Lacan20、20 Février 1973)

たとえば Jean-Luc Monnier 2015によれば、話す身体は、身体の享楽、自閉症的享楽とされている。

言存在の身体 Le corps du parlêtre は、主体の死んだ身体ではない。生きている身体、《自ら享楽する身体 se jouit 》である。この観点からは、身体の享楽 jouissance du corps は、自閉症的享楽 jouissance autiste である。(L’HISTOIRE, C’EST LE CORPS

Jean-Luc Monnier 2015の文は、Florencia Farìas、2010の文とともに読むことができる(参照:歌う身体の神秘)。

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、,PDF

「言説に囚われた身体」とは、ほぼ「ファルスに囚われた身体」と等しい。わたくしはこれらから、だれにでも原初には自閉症的享楽がある、あるいはファルスの鎧を取り払ったら自閉症的享楽が現われる--、そのように読む。

自閉症的享楽については、ミレール派の主要論客であるPierre-Gilles Guéguen2016も同様の考え方である。

肉の身体 le corps de chair は生の最初期に、ララング Lalangue によって穴が開けられている troué 。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴ウマ troumatism の反響を見出す。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

ほかにも次のような記述がある。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

これらは最晩年のラカンの次の言葉がヒントのひとつになっているようだ。

精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家の諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないだろうか?(ラカン、S.24、1977)

《Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?

ミレールはこの文に次のようなコメントをしている。

もし、「〈二者〉の自閉症」でないならーーそう確信させてもらいたいがーー、言語 (la langue) があるおかげだ。ラカンが言うように、言語は共有の事柄のためだ。(ミレール、「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan,2002)

ただしPierre-Gilles Guéguen 2016は、別に「器官なき身体 les corps sans organes」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」ということも言っている(参照:話す身体と分裂病的享楽)。


自閉症と分裂病はどちらが先行するものだろうか。

たまたま次のような記述を拾った(WIKI:冷蔵庫マザーの項)。

自閉症は統合失調症的気質の基本的な性質である。それは合併して明らかな統合失調症にもなりうる。自閉症児は、もしその子が適切な治療を受け、家族からもフォローが得られるのであれば(しばしば家族はこの症候群の原因でもある。特に家族が子供に度の過ぎたことをしたり、過剰に完璧主義的な育て方をした場合にはそうである)多かれ少なかれ完全に治療可能である。だが、たとえその問題が解消されようとも、その子供はそれでもなお普通に落ち着いた人間関係を構築することが困難である。(Rizzoli-Larousse Encyclopedia 2001年版)

ここで現在DSM5では、自閉症スペクトラムと分裂病スペクトラム(統合失調症スペクトラム)という区分がなされていることを示しておくが、実際はこの二つは容易には区別できないという議論が多いようだ。





…………

以下、中井久夫の叙述から「自閉症」にかかわる文をいくらか抜粋する。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 ーー「ある臨界線以上の強度のトラウマ」)

次の文は、冒頭近くに記述した自閉症概念の創始者ブロイラーの名が出て来る。わたくしはようやくここで中井久夫がブロイラーの名を出している意味合いが分かった気がする。

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。

ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』、2002)
私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性coenaesthesiaと原始感覚性protopathyとを挙げた。

もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。(……)

私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。(……)

私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。

絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。

私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。

ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。(……)音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。

視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P59-60)

この最後の文は、Pierre-Gilles Guéguen 2016、PDF による、「器官なき身体 les corps sans organes」、「語の物質性 la matérialité des mots」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」 の関連づけにかかわるだろう。

中井久夫もかねてより、「語の物質的側面」、分裂的症状の発生期の「言語の例外状態」を語っている(参照:「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」)。

…この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。(……)

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」1994年初出『家族の深淵』所収ーー中井久夫とラカン

おそらく自閉症者や統合失調者は、ときにモノとしての言語の感受性がすこぶる高い状態にあるということだろう。それは言語とは限らない。肝腎なのは「物質性」である。それがミュンシュや絶対音感を事例に掲げた文に現れた「絶対性」・「非文脈性」・「共通感覚性」・「原始感覚性」という語彙群が示す内容である。

最後に中井久夫の記述、《言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けら》る、《言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができる》ーーこれをラカン派ではおおむね「ファルス化」と呼ぶーーに反応して、ニーチェの次の文を掲げておくことにする。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(ニーチェ「哲学者の本」(『哲学者に関する著作のための準備草案』1872∼1873)ーー言語自体がフェティッシュである

上に引用した諸家の文から鑑みるに、遺伝などといわずにもファルスの鎧を取り払ってしまえば、だれもが自閉症的資質をもっているということが言えるのではないか?

もしそうであるならーー向井雅明氏の記述を再掲するがーー、次の態度が臨床的には最も肝腎である。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)