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2018年5月29日火曜日

身体は穴である

人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)

ラカンは上の発言とほぼ同時期に次のように言っている。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence ]
象徴界 [ le symbolique ] は穴 [ trou ]
想像界[ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ]

(ラカン、S22、18 Février 1975) 

象徴界は、穴とは別に「非一貫性(非全体 pastout)」であるとも示されている。 そしてその非一貫的象徴界の裂け目に外立(外に出る)のが、現実界だと。

とすれば、「身体は穴」と言ったとき、「身体は象徴界だ」と言っているのだろうか。 事実、ラカンはセミネール14の段階では、大他者は身体であると言っている。《l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! 》(S14)

だが1974年の段階では、身体のイマージュに対しての穴と言っているのだから、セミネール23に出現するボロメオ結びの図における、想像界と現実界の重なり箇所の「真の穴 VRAI TROU」を言いたいのだろうか。




結論を先に言ってしまえば、わたくしの読解では、身体は穴と言ったときの穴は、「真の穴」が相応しい。

たとえば、それは Florencia Farìas の以下の文が暗に示している。

私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。
ヒステリーの女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

ラカンのボロメオ結びの基本的な読み方は次の通りである。

①緑の環(象徴界)は赤の環(想像界)を覆っている(支配しようとする)。
②赤の環(想像界)は青の環(現実界)を覆っている。
③青の環(現実界)は緑の環(象徴界)を覆っている。


ここでの文脈では、つまり Florencia Farìasの云う《身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である》という前提のもとで言えば、

①「形式・機能としての身体」(象徴的身体)は、「身体のイマージュ」(想像的身体)を支配している。

②想像界としての「身体のイマージュ」は、現実界としての「身体の実体」(自ら享楽する身体)を支配する。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972ーー「女性の究極的パートナーは孤独である」 )

この「自ら享楽する身体」とは、「話す身体」のことである。

現実界、それは「話す身体 corps parlant」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient (Lacan, S20. 15 Mai 1973ーー「ラカンの性別化の式のデフレーション」)

③現実界としての「自ら享楽する身体」は、「象徴的身体」に穴を開ける。

とはいえ、《身体のイマージュの構成は象徴界から来る》のだから、象徴界+想像界としての「身体のイマージュ」と「自ら享楽する身体」の重なり箇所が、「真の穴」ということになる。

この「真の穴」の箇所を、ラカンは上に掲げた図が示される同じセミネール23で、JȺとも図示している。


JȺのȺとは、穴 trou ことである。

Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, 2001ーー欠如と穴(簡略版)

ラカン自身による発言も掲げよう。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
リビドーは、その名が示唆しているように、穴に関与せざるをいられない。身体と現実界が現れる他の様相と同じように。 La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou, tout autant que des autres modes sous lesquels se présentent le corps et le Réel (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

したがって、JȺとは、穴の享楽、身体の穴の享楽、原抑圧の享楽と読むことができる。

原抑圧=固着(原固着)であり、ラカンのサントームとは固着(欲動の固着)のことなのだから(参照)、サントームの享楽でもある。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を意味する。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)

Pierre-Gilles Guéguenの云う《自閉症的享楽 jouissance autiste》が《自ら享楽する身体》にかかわる。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)

これらはすべて「原抑圧の享楽」とすることができる。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ラカンはこのザルツブルクで、「臍の緒 cordon ombilical 」という言葉まで口に出しているが(参照)、それは遡ってセミネール11の「胎盤の喪失」という言明とともに読むことができる。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11、20 Mai 1964)

これらから考えると、わたくしの理解では、究極的な原抑圧とは、「原母との融合(と分離)」にかかわる。

これは原マゾヒズムにおおいに関係する(参照)。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (ラカン、S23, 10 Février 1976)

1919年までのフロイト(『子供が叩かれる』までにフロイト)とは異なり、1920年以降のフロイトにとっては、《マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus 》(フロイト 1933、『新精神分析入門』)

ーーすなわち自己破壊欲動は、他者攻撃欲動よりも先にある。そして、

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 」)

ところでフロイトは、原抑圧をめぐって「引力」という語を口にしている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そして最晩年の草稿では、この引力は、エロスと結びつけられて語られている。

長いあいだの躊躇いと揺れ動きの後、われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定する決心をした。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。(⋯⋯)

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに結び合わせる Bindung ことである。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を分離 aufzulösen(解体)すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。(⋯⋯)

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。(⋯⋯)性行為 Sexualakt は、最も親密な結合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

原抑圧とは、ラカン派的にはブラックホールでもある(参照)。まさに引力としての原抑圧。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir , Écrits, 1966)

結局、「原抑圧の享楽」、あるいは「サントームの享楽」とは、大他者(その代表的なものは母なる大他者)との融合欲動にかかわるとわたくしは考える。それは母なる大地との融合(つまり死)欲動と捉えてもよい。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

だが真に融合してしまえば死が訪れる。ゆえに引力にたいする斥力が生まれる。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

したがって、人は穴のまわりの循環運動の生を送るのである。

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

無を食べる女たち」で記した女たちは、(象徴界には存在しないが機能する)「無」というブラックホールの引力・エロス欲動の引力に最も過剰に誘引された女たちである(斥力があまり機能しないままの)。


2018年5月26日土曜日

暗闇に蔓延る異者としての女

晩年のラカンは、《ひとりの女 une femme》について、次のように言っている。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

これらのラカンの言明は、長いあいだ何のことだかさっぱりわからなかったのだが、「女性の究極的パートナーは孤独である」で引用した、アルゼンチンの女流ラカン分析家Florencia Farìas、2010の小論は、この点にかんしてとても明瞭である。

ヒステリーの女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。

彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である。ゆえに自らの身体によって、「他の女の神秘 le mystère de l'Autre femme」を崇敬する。「他の女の神秘」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、彼女は「他の女autre femme」を通して・「現実界の他者 autre réel」の介入を通して、自分は何なのかの神秘へと身体を供与しようとする。

ヒステリーから女性性への道のりには、置き残されているものがある。症状、不平不満、苦痛、侵入的母あるいは不在の母 mères harcelantes ou absentes、理想化された父あるいは不能の父 pères idéalisés ou impuissants、そして場合によっては、子供をファルスの場に置く享楽。……
ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。ひとりの女は、他の性 l'Autre sexe
 がその支えを見出す症状のなかにある。ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。

女は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに従う。すなわち「他の身体の享楽 la jouissance d'un autre corps」へと彼女の身体を貸し与える。他方、ヒステリーの女性は、彼女の身体を貸し与えない。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

ラカン主流派の頭領ジャック=アラン・ミレールでさえ2014年になってようやくーーわたくしの知りうる限りでだがーー、次のように曖昧な形で言うようになったのだから、一年半ほどまえ出会った、ほとんど名のしれていない分析家 Florencia Farìas の2010年時点の記述はきわめて役立った。

「言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ミレール 2014、L'inconscient et le corps parlant ーー「愛のテュケーと愛のオートマン」)

Farìasが記している《彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である》とは、わたくしの読解では、ラカンによる《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger》に相当し、これが「ひとりの女」ということになる。

古く l'Unerkannt(知りえないもの)としての無意識 l'inconscient は、まさに我々の身体 corps のなかで何が起こっているかの無知 ignorance によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次 の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 」と「円環を為す fait cercle 何か、あるいは真っ直ぐな無限 droite infinieと言ってもよい(それ は同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。 (ラカン、セミネール 23、11 Mai 1976)

女とは「異者としての身体」のこと」でも記したが、この《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger》とは、フロイトの「異物」のこと。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


そして冒頭に引用した《ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome 》(ラカン、1976)におけるサントームとは、フロイトの「固着」のこと。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(結びつき connexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール L'être et l'un IX, 2011))
固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)
固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)

したがって「ひとりの女は固着のこと」となる。そして固着の核心は、最初の大他者(母なる大他者)の刻印(母による徴付け)と捉えうる。

その徴は、裂目 clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。⋯⋯⋯刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(S17、10 Juin 1970)

この徴が、享楽回帰=反復強迫をもたらす刻印である。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

そして、ラカンにとっての神は女である。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女  La femme 》 だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、S23、16 Mars 1976)

この女とは、究極的には原母のことだろうと、わたくしはバーハウの記述にもとづいて考えている。

フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教 』(1938)にて暗示的な形式化がなされている(「偉大な母なる神 große Muttergotthei」)。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウ1999, Paul Verhaeghe, Does the Woman exist?)

人間最初の「身体の出来事」とは、母なる大他者に関係しているのは、まず間違いない。

身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)

ーーたとえば後期ラカンの核心概念のひとつララングとは「母の言葉 la dire maternelle」のことである(参照:ララング定義集)。

コレット・ソレールの言い方では、母なる大他者とは、原リアルの名・原穴の名(原トラウマの穴)である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ちなみに最晩年のフロイトは「固着」用語を次のように使っている。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーーこの「母へのエロス的固着の残余」とは、巷間で揶揄的にいわれる「マザコン」ーーつまり母のイマージュに囚われることーーではないことに注意しなければならない(参照:母の三界

ここでさらにミレールを引用しておこう。

純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corp (ミレール, L'être et l'un Ⅴ, 2011
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI 2011
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation(ミレール 、Progrès en psychanalyse assez lents、2011

ミレールの言明からも、女が固着にかかわるのは明らかだろう。

ラカン曰くの《ひとりの女はサントーム(原症状)である》とは、まずこの文脈のなかでとらえることができる。

母(原母)と女との関係とは、仏典にある《一切女人、是れ我が母なり》であり、つまり《すべての女には母の影が落ちている》(バーハウ、1998)である。

ところで、中期フロイトは、固着≒原抑圧をめぐって次のように記している。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

ここには「異物」という語は直接には出現しないが、《患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかす》と記されているものが、「異物」に相当する筈。

以上から、わたくしの現在の読解では、「暗闇に蔓延る異者としての女」という当面の結論になる。

※いくらか異なった側面からの「女」については、ーー、《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴(原抑圧による穴)にかかわる「女」についてはーー「人はみな穴埋めする」を参照のこと(とはいえ究極的には上に記した考え方に帰着する)。



2018年5月25日金曜日

女性の究極的パートナーは孤独である

《男は〈すべて〉、ああ、すべての男は、ファルス享楽なのである。l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ]》(ラカン「三人目の女 La troisième」1974)

⋯⋯⋯⋯

以下、アルゼンチンの女流ラカン派分析家 Florencia Farìas 2010 の文を主に抄訳引用するが、そこには「ヒステリーの女性」という言葉が出現する。このヒステリーとは、巷間に流通するヒステリーとは異なり、「言語によって分割された主体$」という意味であり、ひとは言語を使用するかぎり、本来的にはヒステリーである。《思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものである。》(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」)

晩年のラカン自身、《私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme》(Lacan, S24, 14 Décembre 1976)と言い放っている。そして主に男性的特徴とされる強迫神経症とは、「ヒステリーの方言」(フロイト)である。


さて、Florencia Farìas 2010の引用であるが、途中にラカン自身の言明を挿入して補足してゆく。

女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた、つまり去勢(ファルスの欠如)に結びつけられた享楽である。この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。…彼女たちはこの享楽のみを手に入れる。他方、別の女たちは、他の享楽 l'Autre jouissance 、女性の享楽jouissance féminineへのアクセスを手に入れる。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

《ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽[参照]) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。》(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ファルスとしての女は、他者の欲望 désir de l'Autre へと彼女の仮装 mascarade を提供する。女は欲望の対象の見せかけを装い fait semblant、そしてその場からファルスとして自らを差し出す。女は、自らが輝くために、このファルスという欲望の対象を体現化することを受け入れる。しかし彼女は、完全にはその場にいるわけでない。冷静な女なら、それをしっかりと確信している。すなわち、彼女は対象でないのを知っている elle sait qu'elle n'est pas l'objet。もっとも、彼女は自分が持っていないもの(ファルス)を与えることに戯れるかもしれない elle puisse jouer à donner ce qu'elle n'a pas。もし愛が介入するなら、いっそうそうである。というのは、彼女はそこで、罠にはまることを恐れずに、他者の欲望を惹き起こす存在であることを享楽しうる jouissant d'être la cause du désir de l'autre から。彼女の享楽が使い果たされないという条件のもとでだが。(Florencia Farìas、2010)

《女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! 》(Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

《見せかけ、それはシニフィアン(表象)自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même !》 (Lacan, S18, 13 Janvier 1971)

《男を女へと結びつける魅力について想像してみると、「擬装した人 travesti」として現れる方が好ましいのは広く認められている。仮面 masques の介入をとおしてこそ、男と女はもっとも激しく、もっとも燃え上がって la plus aiguë, la plus brûlante 出会うことができる。》(ラカンS11、11 mars 1964 )

彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、対象a(欲望の対象–原因)の化身ではありえないから。彼女が「a」のまま reste là comme a・対象のままcomme objet なら、ある種のマゾヒスティックポジションに縛りつけられたままだelle reste enchainée dans une sorte de position masochiste と言うのは、誇張ではない。(Florencia Farìas、2010)

《女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminineに位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。》(ラカン、S5、23 Avril 1958)

反対に、女性の享楽 jouissance féminine は、人が「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」、あるいは「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」へのアクセスを手に入れうる場である。

対象aと女性の享楽は、性関係の不在を補填 suppléance する二つの様式である。この二つは、性関係の不可能な出会いを証明づけることをやめない。

したがって、女性の身体 Le corps féminin は、「愛と享楽 l'amour et la jouissance 」とのあいだに自らを提供する。私たちは言いうる、ひとりの女 une femme は、「享楽することと愛されること le faire jouir et l'être aimée 」とのあいだに自らを位置づけると。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

⋯⋯⋯⋯


《身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。》(ラカン、S20、19  Décembre 1972 )

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)


以下、自閉症をめぐるラカン派の記述をかかげるが、ラカン派における自閉症とは、その原義の「自己状態 αὐτός-ismos」という意味であり、巷間に流通する「自閉症」とは異なる。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007、pdf
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
自閉症的享楽としての身体固有の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

⋯⋯⋯⋯

ここまでは、Florencia Farìasの『Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010、PDF』の記述を主に引用して、ラカン自身やラカン臨床派の記述によって裏付けたが、彼女の言っている内容を、一般向けによりわかりやすく言えば、次のジジェク文がふさわしい。

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

そしてこの「孤独」を、よりラカン臨床派的にいえば、女性の享楽としての「自閉症的享楽」あるいは「自ら享楽する身体 corps qui se jouit」のこととなる。

※原症状(サントーム・固着・欲動の根)という観点からの女性の享楽については、
女性の享楽と身体の出来事」を参照のこと。





2017年2月1日水曜日

だれもが自閉症的資質をもっている

まず今では悪評高い「冷蔵庫マザー refrigerator mother」ーー「母親非難 mother-blaming」モデルの主要な起源のひとつーーの考え方の創始者の文を掲げる。

ほとんどの患者は、親の冷酷さ・執拗さ・物質的欲求のみへの機械仕掛式配慮に最初から晒されていた。彼らは、偽りのない思いやりと悦びをもってではなく、断片的パフォーマンスの視線をもって扱われる観察と実験の対象だった。彼らは、解凍しないように手際よく「冷蔵庫」のなかに置き残されていた。(レオ・カナー、In a public talk quoted in Time magazine in 1948)

カナーはもちろん(ほぼ現在に使われる意味での)「自閉症」概念(1943年)の創始者の一人である(アスペルガーがやや先行して1938年にこの語を使用している)。

そこでの自閉症とは「他人とコミュニケーションができない症状」という意味。

さらに言えば、autismの語源はドイツ語のAutismusであり、ギリシャ語のautos-(αὐτός 自己)と-ismos(状態)を組み合わせた造語で、フロイトと一緒に仕事をしたスイスの精神科医オイゲン・ブロイラーが「統合失調症患者が他人とコミュニケーションができない症状」を記述するために、1910年に用いたそうだ(参照)。アスペルガーによる「自閉症」概念の使用もブロイラーの記述をもとにしているという。いずれにせよ、autismとは、本来は「自己状態」ということであり、「閉じる」の意味は元からない。

ーーというおそらく「常識的」なことを今頃知った。autismが自己状態であるならば、いままで異和のあった表現もなんの問題もなくなる。たとえば「自閉症スペクトラム」とは、自己状態スペクトラムである。これであったら何の異和もない。自己状態から他者状態ーーたとえば言語という他者状態ーーに移行するのは、言語という道具がなければ生きていけない人間として已む得ないにしろ、その他者に囚われていることに気づかないままのほうがむしろ「病気」かもしれない。

ラカンは言語という他者に囚われることを疎外といったり象徴的去勢といったりする。

去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante(Lacan,S17, 18 Mars 1970)
…主体の最も深刻な疎外は、主体が己自身について話し始めたときに、起こる。 (ラカン、ローマ講演 ,Ecrits, 281、1953)

数多くのヴァリエーションがあるが、そのなかからいくらかを掲げておこう。

先ず、語 symbole は物の殺害 meurtre de la chose として顕れる。そしてこの死は、主体の欲望の終わりなき永続化 l'éterrusation de son désir をもたらす。(ラカン、ローマ講演、1953年)
フロイトの観点からは、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)
幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧のようなものがある il y ait du refoulement、と私は理解している。(Lacan,S.20, 13 Février 1973)

さて話を元に戻せば、「冷蔵庫マザー」概念を言い出したのは、べッテルハイムではあるが、上のカナーの文を読めばわかるように、実際の起源はカナーである。

ベッテルハイムは、ホロコーストの生存者だった(1939年のヒトラーの誕生日、強制収容所から逃げ出し米国に移住した)。彼曰く、自閉症の子供たちはホロコーストに置かれるのと同様な「極限状況」に苦しむ。そしてそれは母の情緒遮断・愛情欠如によって引き起こされると(参照:PDF)。

※ここでの文脈と異なるので敢えて引用しないが、「ホロコースト生存者の子供たちのPTSD」について、意想外の研究結果を以前メモしたことがある(参照)。


ところで《現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷》としているらしい。これは現在のポリティカル・コレクトネス規範などの観点からは、母親非難、ましてや「冷蔵庫マザー」などとは(ヨイコは)口が裂けても言ってはいけない、言えないという文脈のなかで捉えられる。

ラカン派臨床家の向井雅明氏は『自閉症について』 2016年にて、この経緯を次のように説明している。

自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイムなどの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。

生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子どもが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになるでしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養育法にたいする非難もなくなります。

ただしこうもある。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)

これも当然そうあるべきだろう。そして主体的選択とは原初の母子関係における主体的選択にかかわる。いずれにせよ、たんに「遺伝」が原因と言ってしまっては何も始まらない。いや次のようなことは始まるかもしれない。

前回引用したが、仏ラカン(ミレール)派のAgnes Aflaloはの文を再掲しよう。

自閉症の領野の拡大は、市場のひどく好都合な拡大をもたらす。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Report on autism,2012

もうすこし一般的には、次のような言い方もされる(この文はそのうちもう少し長く引用することにするが、今回ではない)。

(自閉症・メンタルディスオーダーの類の)精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)

…………

ところで現在ラカン派ではファルスの彼方にはーーフロイトの「快原理の彼方」にはーー自閉症的享楽 jouissance autiste がある、とされる。

まずはラカンのファルスの彼方をめぐる文を引用する。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…

ファルスの彼方 Au-delà du phallus……ファルスの彼方の享楽である!(Lacan20、20 Février 1973)

たとえば Jean-Luc Monnier 2015によれば、話す身体は、身体の享楽、自閉症的享楽とされている。

言存在の身体 Le corps du parlêtre は、主体の死んだ身体ではない。生きている身体、《自ら享楽する身体 se jouit 》である。この観点からは、身体の享楽 jouissance du corps は、自閉症的享楽 jouissance autiste である。(L’HISTOIRE, C’EST LE CORPS

Jean-Luc Monnier 2015の文は、Florencia Farìas、2010の文とともに読むことができる(参照:歌う身体の神秘)。

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、,PDF

「言説に囚われた身体」とは、ほぼ「ファルスに囚われた身体」と等しい。わたくしはこれらから、だれにでも原初には自閉症的享楽がある、あるいはファルスの鎧を取り払ったら自閉症的享楽が現われる--、そのように読む。

自閉症的享楽については、ミレール派の主要論客であるPierre-Gilles Guéguen2016も同様の考え方である。

肉の身体 le corps de chair は生の最初期に、ララング Lalangue によって穴が開けられている troué 。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴ウマ troumatism の反響を見出す。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

ほかにも次のような記述がある。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

これらは最晩年のラカンの次の言葉がヒントのひとつになっているようだ。

精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家の諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないだろうか?(ラカン、S.24、1977)

《Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?

ミレールはこの文に次のようなコメントをしている。

もし、「〈二者〉の自閉症」でないならーーそう確信させてもらいたいがーー、言語 (la langue) があるおかげだ。ラカンが言うように、言語は共有の事柄のためだ。(ミレール、「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan,2002)

ただしPierre-Gilles Guéguen 2016は、別に「器官なき身体 les corps sans organes」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」ということも言っている(参照:話す身体と分裂病的享楽)。


自閉症と分裂病はどちらが先行するものだろうか。

たまたま次のような記述を拾った(WIKI:冷蔵庫マザーの項)。

自閉症は統合失調症的気質の基本的な性質である。それは合併して明らかな統合失調症にもなりうる。自閉症児は、もしその子が適切な治療を受け、家族からもフォローが得られるのであれば(しばしば家族はこの症候群の原因でもある。特に家族が子供に度の過ぎたことをしたり、過剰に完璧主義的な育て方をした場合にはそうである)多かれ少なかれ完全に治療可能である。だが、たとえその問題が解消されようとも、その子供はそれでもなお普通に落ち着いた人間関係を構築することが困難である。(Rizzoli-Larousse Encyclopedia 2001年版)

ここで現在DSM5では、自閉症スペクトラムと分裂病スペクトラム(統合失調症スペクトラム)という区分がなされていることを示しておくが、実際はこの二つは容易には区別できないという議論が多いようだ。





…………

以下、中井久夫の叙述から「自閉症」にかかわる文をいくらか抜粋する。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 ーー「ある臨界線以上の強度のトラウマ」)

次の文は、冒頭近くに記述した自閉症概念の創始者ブロイラーの名が出て来る。わたくしはようやくここで中井久夫がブロイラーの名を出している意味合いが分かった気がする。

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。

ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』、2002)
私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性coenaesthesiaと原始感覚性protopathyとを挙げた。

もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。(……)

私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。(……)

私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。

絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。

私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。

ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。(……)音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。

視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P59-60)

この最後の文は、Pierre-Gilles Guéguen 2016、PDF による、「器官なき身体 les corps sans organes」、「語の物質性 la matérialité des mots」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」 の関連づけにかかわるだろう。

中井久夫もかねてより、「語の物質的側面」、分裂的症状の発生期の「言語の例外状態」を語っている(参照:「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」)。

…この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。(……)

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」1994年初出『家族の深淵』所収ーー中井久夫とラカン

おそらく自閉症者や統合失調者は、ときにモノとしての言語の感受性がすこぶる高い状態にあるということだろう。それは言語とは限らない。肝腎なのは「物質性」である。それがミュンシュや絶対音感を事例に掲げた文に現れた「絶対性」・「非文脈性」・「共通感覚性」・「原始感覚性」という語彙群が示す内容である。

最後に中井久夫の記述、《言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けら》る、《言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができる》ーーこれをラカン派ではおおむね「ファルス化」と呼ぶーーに反応して、ニーチェの次の文を掲げておくことにする。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(ニーチェ「哲学者の本」(『哲学者に関する著作のための準備草案』1872∼1873)ーー言語自体がフェティッシュである

上に引用した諸家の文から鑑みるに、遺伝などといわずにもファルスの鎧を取り払ってしまえば、だれもが自閉症的資質をもっているということが言えるのではないか?

もしそうであるならーー向井雅明氏の記述を再掲するがーー、次の態度が臨床的には最も肝腎である。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)

2016年12月19日月曜日

フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム

【身体器官/意識作用】
われわれが心的なもの(心の生活)と呼ぶもののうち、われわれに知られているのは、二種類である。ひとつは、その身体器官と舞台、すなわち脳(神経系)であり、もうひとつは、われわれの意識作用である。……(フロイト『精神分析概説』1940,死後出版、岩波新訳)

Von dem, was wir unsere Psyche (Seelenleben) nennen, ist uns zweierlei bekannt, erstens das körperliche Organ und Schauplatz desselben, das Gehirn (Nervensystem), andererseits unsere Bewusstseinsakte, ……(Freud, Abriß der Psychoanalyse,1940)

【精神病/神経症】
私は最近神経症と精神病とを区別する特徴の一つを次のように規定した。すなわち、神経症においては、自我が現実にしたがってエス(欲動生活)の一部を抑圧するのにたいして、精神病では同じ自我がエスに奉仕して、現実の一部からしりぞくということである。したがって、神経症では現実の影響が優勢であろうし、精神病ではエスの優勢が決定的であろう。精神病においては現実の喪失は最初から現れるのだろうが、神経症においては、それはさけられているのであろうと考えるべきであろう。(フロイト『神経症および精神病における現実の喪失』1924)

Ich habe kürzlich [Fußnote] einen der unterscheidenden Züge zwischen Neurose und Psychose dahin bestimmt, daß bei ersterer das Ich in Abhängigkeit von der Realität ein Stück des Es (Trieblebens) unterdrückt, während sich dasselbe Ich bei der Psychose im Dienste des Es von einem Stück der Realität zurückzieht. Für die Neurose wäre also die Übermacht des Realeinflusses, für die Psychose die des Es maßgebend. Der Realitätsverlust wäre für die Psychose von vorneherein gegeben; für die Neurose, sollte man meinen, wäre er vermieden. ( Freud, Der Realitätsverlust bei Neurose und Psychose, 1924)

…………

【現勢神経症/精神神経症】
…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「精神的に選択され、精神的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)

Ich sehe es noch immer so, wie es mir zuerst vor mehr als fünfzehn Jahren erschienen ist, daß die beiden Aktual-neurosen — Neurasthenie und Angstneurose — (vielleicht ist die eigentliche Hypochondrie als dritte Aktualneurose anzureihen) das sornatische Entgegenkommen für die Psychoneurosen leisten, das Erregungsmaterial liefern, welches dann psychisch ausgewählt und umkleidet wird, so daß, allgemein gesprochen, der Kern des psychoneurotischen Symptoms — das Sandkorn im Zentrum der Perle — von einer somatischen Sexualäußerung gebildet wird.(Freud, Zur Onanie-Diskussion、1912)

【砂粒/真珠】
さてここで、咳や嗄れ声の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。最下部には器質的に条件づけられた真実の咳の刺激があることが推定され、それはあたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなものである。

この刺激は固着しうるが、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、その身体領域がこの少女の場合ある性感帯としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドーを表現するのに適しており、おそらくは最初の精神的変装 psychische Umkleidung、すなわち病気の父親に対するイミテーションの同情、そして「カタル」のために惹き起こされた自己叱責によって固着させられるのである。(フロイト、症例ドラ、p.335、旧訳)

Wir können nun den Versuch machen, die verschiedenen Determinierungen, die wir für die Anfälle von Husten und Heiserkeit gefunden haben, zusammenzustellen. Zuunterst in der Schichtung ist ein realer, organisch bedingter Hustenreiz anzunehmen, das Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet.

Dieser Reiz ist fixierbar, weil er eine Körperregion betrifft, welche die Bedeutung einer erogenen Zone bei dem Mädchen in hohem Grade bewahrt hat. Er ist also geeignet dazu, der erregten Libido Ausdruck zu geben. Er wird fixiert durch die wahrscheinlich erste psychische Umkleidung, die Mitleidsimitation für den kranken Vater und dann durch die Selbstvorwürfe wegen des »Katarrhs«.(Freud, Bruchstück einer Hysterie-Analyse,1905)

◆psychische Umkleidung(精神的外被・精神的変奏・心的被覆)
性愛的マゾヒズムはリビドーとその一切の発展段階をともにし、それらの発展段階から変化に富んだ心的被覆 psychischen Umkleidungen を借用する。トーテム動物(父)によって食われるという不安は、原始的な口唇的体制に由来し、父に撲たれたいという願望は、それにつづくサディズム-肛門期から生じ、去勢は、男根的段階または体制の名残りとして、のちに否定されるにせよ、マゾヒズム的空想の内容となり、また交接され、子供を生むという女性固有の諸状況は、究極的な性器的体制から由来するのである。マゾヒズムにおけるお尻の役割もまた、明白な現実的根拠を別としても、容易に理解される。乳房が口唇段階でとくに重要な役割を演ずる身体部位であり、同じくペニスが性器段階でのそれであるように、お尻はサディズム-肛門期で性愛的にいってとくに関心の持たれている身体部位である。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924、旧訳)

Der erogene Masochismus macht alle Entwicklungsphasen der Libido mit und entnimmt ihnen seine wechselnden psychischen Umkleidungen. Die Angst, vom Totemtier (Vater) gefressen zu werden, stammt aus der primiti­ven, oralen Organisation, der Wunsch, vom Vater geschlagen zu werden, aus der darauffolgenden sadistisch-analen Phase; als Niederschlag der phalli­schen Organisationsstufe 2) tritt die Kastration, obwohl später verleugnet, in den Inhalt der masochistischen Phantasien ein, von der endgültigen Genital­organisation leiten sich natürlich die für die Weiblichkeit charakteristischen Situationen des Koitiertwerdens und des Gebarens ab. Auch die Rolle der Nates im Masochismus ist, abgesehen von der offenkundigen Realbegrün­dung, leicht zu verstehen. Die Nates sind die erogen bevorzugte Körperpartie der sadistisch-analen Phase wie die Mamma der oralen, der Penis der genitalen.(Freud,Das ökonomische Problem des Masochismus,1924)

ーーpsychische Umkleidung(精神的外被・精神的変奏・心的被覆)とは、《症状の形式的封筒》のことであろう。

l'enveloppe formelle du symptôme 症状の形式的封筒 (Lacan, De nos antécédents, E.66、1966)

《l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste( l'essaim(=S1) 全てのシニフィアンの鎖が存続するものとしての封筒(エスアン=S1[分封するミツバチの密集した一群])》(ラカンS20、アンコール)


【原抑圧/抑圧】
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(……)

Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden. Dies geschieht infolge der später zu besprechenden Eigenschaften unbewußter Vorgänge.
抑圧の第二階段、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。

Die zweite Stufe der Verdrängung, die eigentliche Verdrängung, betrifft psychische Abkömmlinge der verdrängten Repräsentanz oder solche Gedankenzüge, die, anderswoher stammend, in assoziative Beziehung zu ihr geraten sind.
こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、意識から抑圧されたものに作用する反撥だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと関連する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。(フロイト『抑圧』1915)

Wegen dieser Beziehung erfahren diese Vorstellungen dasselbe Schicksal wie das Urverdrängte. Die eigentliche Verdrängung ist also ein Nachdrängen. Man tut übrigens unrecht, wenn man nur die Abstoßung hervorhebt, die vom Bewußten her auf das zu Verdrängende wirkt. Es kommt ebensosehr die Anziehung in Betracht, welche das Urverdrängte auf alles ausübt, womit es sich in Verbindung setzen kann. Wahrscheinlich würde die Verdrängungstendenz ihre Absicht nicht erreichen, wenn diese Kräfte nicht zusammenwirkten, wenn es nicht ein vorher Verdrängtes gäbe, welches das vom Bewußten Abgestoßene aufzunehmen bereit wäre. (Sigmund Freud, Die Verdrängung, 1915)


【原抑圧=現勢神経症/抑圧=精神神経症】
……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

…in der Tat sind die wahrscheinlich frühesten Verdrängungen, wie die Mehrzahl aller späteren, durch solche Angst des Ichs vor einzelnen Vorgängen im Es motiviert. Wir unterscheiden hier wiederum mit gutem Grund die beiden Fälle, daß sich im Es etwas ereignet, was eine der Gefahrsituationen fürs Ich aktiviert und es somit bewegt, zur Inhibition das Angstsignal zu geben, und den anderen Fall, daß sich im Es die dem Geburtstrauma analoge Situation herstellt, in der es automatisch zur Angstreaktion kommt. Man bringt die beiden Fälle einander näher, wenn man hervorhebt, daß der zweite der ersten und ursprünglichen Gefahrsituation entspricht, der erste aber einer der später aus ihr abgeleiteten Angstbedingungen. Oder auf die wirklich vorkommenden Affektionen bezogen: daß der zweite Fall in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, der erste für die der Psychoneurosen charakteristisch bleibt.

Wahrscheinlich würde die Analyse der traumatischen Kriegsneurosen, welcher Name allerdings sehr verschiedenartige Affektionen umfaßt, ergeben haben, daß eine Anzahl von ihnen an den Charakteren der Aktualneurosen Anteil hat. (Freud, Hemmung, Symptom und Angst, 1926)

※《他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって……》(1926)

→出産外傷の否定(1937)

…ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。この仕事のためには、わずかに二、三ヵ月しか要しないはずである。ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった。(……)

このランクの意図を実際の症例に実施してみてどんな成果があげられたか、それについてわれわれは多くを耳にしていない。おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳pp.377-378)

Einen besonders energischen Versuch in dieser Richtung hat O. Rank gemacht im Anschluß an sein Buch »Das Trauma der Geburt« (1924). Er nahm an, daß der Geburtsakt die eigentliche Quelle der Neurose sei, indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung« an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung« fortbesteht. Durch die nachträgliche analytische Erledigung dieses Urtraumas hoffte Rank die ganze Neurose zu beseitigen, so daß das eine Stückchen Analyse alle übrige analytische Arbeit ersparte. Einige wenige Monate sollten für diese Leistung genügen. Man wird nicht bestreiten, daß der Ranksche Gedankengang kühn und geistreich war; aber er hielt einer kritischen Prüfung nicht stand. (…)

Man hat nicht viel davon gehört, was die Ausführung des Rankschen Planes für Krankheitsfälle geleistet hat. Wahrscheinlich nicht mehr, als die Feuerwehr leisten würde, wenn sie im Falle eines Hausbrandes durch eine umgestürzte Petroleumlampe sich damit begnügte, die Lampe aus dem Zimmer zu entfernen, in dem der Brand entstanden war. Eine erhebliche Abkürzung der Löschaktion wäre allerdings auf diese Weise zu erreichen. (Freud Die endliche und die unendliche Analyse, 1937)

ラカンのラメラ神話とは、「出産外傷」に近似的である。

このラメラ lamelle、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。

それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.(ラカン、S.11ーー基本版:二つの欠如

…………


【原抑圧 Urverdrängung ≒サントーム sinthome】
四番目の用語(サントーム)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

《Lacan affirme dans Le sinthome qu'il n'y a aucune « réduction radicale » du symptôme à attendre d'une cure, à cause de l'Urverdrängung, refoulement originaire jamais annulable (Lacan 1, 9 décembre 75)》.(Geneviève Morel.2000)

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事」とフロイトが「固着」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

サントームとは、Yad'lun のこと、「一」のことである。

Si je veux inscrire le Sinthome comme un point d'arrivée de la clinique de Lacan, je l'ai déjà identifié à ce titre, une fois que Lacan a émis son Yadlun, une fois qu'il a réduit le symbolique à l'Un, une fois qu'il a renié décidément l'ontologie pour la logique, et à cause de la logique, (il a fait ça, ça a lieu dans son séminaire Ou pire, ça se poursuit dans son célèbre Séminaire Encore, Séminaire XX, c'est avec le Séminaire XXIII que nous avons la formulation du terme autour duquel tourne sa dernière clinique.(同ミレール、2011)


Yad'lun(一のようなものがある) = sinthome=原固着Urfixierung ということになる。

《後期抑圧 Nachdrängung 》の彼方には、無意識の別の形式に属する《原抑圧 Urverdrängung》が潜んでいる。したがって、知の別の形式も同様にある。原抑圧は過程として、まず何よりも《原固着 Urfixierung》である。すなわち或る素材がその原初の刻印のなかに取り残される。それは決して《言語表象Wortvorstellung》に翻訳されえない。この素材は《興奮の過剰強度 übergroße Stärke der Erregung》(フロイト、1926)に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは《欲動、それは享楽の漂流 Trieb, la dérive de la jouissance》と解釈した。(ポール・バーハウ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive.


《サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, 》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
ラカンがサントームを「Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーーシニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返しréel essentiel l'itération」を解き放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération においてそれ自体を反復するのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの彼方には、身体と享楽がある。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaudーー「一の徴」日記⑤

…………

【身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen】
……ヒステリーの症状は精神的なもの psychischen から発するものなのか、それとも身体的なもの somatischen から起こるのか、さらにまた、前者だとしたら、症状はすべて精神的なもののみで規定されるのだろうか、というすでに何回となく提出されてきた疑問が思い起こされる。しかしこの疑問は(……)その設問そのものが適当でない。

実際の事態は、そのような二者択一の形には包含しえない。私の見るかぎり、ヒステリー症状には、どれも心身両面の関与が必要なのである。それはある身体器官Organe des Körpersの、正常ないし病的現象によってなされる「身体側からの対応 somatisches Entgegenkommen」がなければ、成立しない。そして、もしそれが精神的意義をもたないなら、(……)何回も起こることはないのであり、しかもヒステリー症状の特徴の一つは、この再現能力にあるのである。(……)

ヒステリー症状を解消するには、その症状の精神的意味を探求せねばならない。こうして、精神分析で除去できるものを清掃し終わると、症状の身体的なーー通例、体質的、器質的なーー基底について、種々のおそらくは適切な推量を試みることができる。ドラの症例の咳と失声の発作についても、われわれはその精神分析的解釈をあたえるだけで満足せず、症状の背後にひそむ器質的契機 organische Moment をもしめさねばならぬ。この器質的契機から、ときどき不在となる彼女の恋人に対しる思慕の表現への、「身体側からの対応 somatische Entgegenkommen」が生まれたのである。(……)

この点に関し、私はつぎのようにいわれる覚悟をしている。すなわち、精神分析によって、ヒステリーの謎を、もはや「神経分子の特殊な過敏性 besonderen Labilität der Nervenmoleküle」のなかや、類催眠状態の可能性のなかなどに探し求める必要はなくなり、「身体側からの対応 somatischen Entgegenkommen」のなかに探せるようになったとしても、それはたいして得にもならない、と。

この抗議に対し、私は、その謎はこうして一歩ずつ後退させられてゆくばかりではなく、またすこしずつ縮小されてゆくことを強調したい。もはや謎全体を問題とするのではなく、ヒステリー Hysterie を他の精神神経症 Psychoneurosen から区別する特別な性格をふくんでいる部分だけが問題なのである。精神神経症のすべてのタイプを通じ、その精神過程は、無意識の精神現象に身体的な出口を用意する「身体側からの対応 somatische Entgegenkommen」が問題になるまでは、皆同一なのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』フロイト著作集5、PP.301-303、Bruchstück einer Hysterie-Analyse, 1905)


【身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen=欲動の固着 fixierten Trieben、Fixierung der Libido】
フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(心的なもの)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初の事例であるドラの症例においてはっきりと現れている。(……)

この事例の核心は、二重の構造にあると言いうる。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが《身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen》と呼んだものーーである。のちに『性欲論三篇』にて、《欲動の固着fixierten Trieben、Fixierung der Libido》と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因的な表象の抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動である。
この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、《症状の形式的な外被l'enveloppe formelle du symptôme》に帰着する。すなわち、それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)である。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、《あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの》(『あるヒステリー患者の分析の断片』)である。享楽の現実界は、症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2003)

【補足】

《独語表現「Somatisches Entgegenkommen」は、英語の「somatic compliance」に比べてより強く・より能動的である。フロイトはこの概念にて、いずれの症状も、器官あるいは身体の部分のなかで、如何に正常な過程あるいは病理的過程に煮詰まってゆく boils down to かを示している。》(ポール・バーハウ、2004)

フロイトのよく知られた隠喩、砂粒のまわりに真珠を造る真珠貝…。砂粒とは現実界とテュケーの審級であり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒へのオートマン-反応であり、封筒あるいは容器、すなわち症状の可視的な外側である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。フロイトはヒステリーの事例にて、「somatic compliance(Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体側からの対応 omatisches Entgegenkommen」とは、いわゆる欲動の「根」、あるいは「固着」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。症状形成の回路図を示せば次の通り。(ポール・バーハウ2004,On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,Paul Verhaeghe)


対象aを最初のポジションに置くことにたいして異和のあるラカン派もいるだろう。だが晩年のラカンは次のように言っている。

《文字 lettre は対象a、かつ「一つの徴 trait unaire》(S.23)ーーただし« osbjet »という奇妙な言い方もしている、骨象?)。

La seule introduction de ces nœuds bo, de l'idée qu'ils supportent un os en somme, un os qui suggère, si je puis dire, suffisamment quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet », qui est bien ce qui caractérise la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet », la lettre petit a.(S.23)

ポール・バーハウの言う《元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている》については、《他の享楽は、異物として機能しつつ、ファルス享楽内部に外立する》(バーハウ、2001)とともに読む必要がある。

《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S.23)= 異物 Fremdkörper (フロイト、1893ーー基本的なトラウマの定義)

・autre jouissance(他の享楽)、
・jouissance du corps(身体の享楽)
・jouissance féminine(女性の享楽)

は等価であり、ラカンは、jouissance phallique(ファルス享楽)と対比している。


非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
男性は、まったく、ああ、ファルス享楽 jouissance phallique そのものなのである。l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ](Lacan,La troisième,1974)

《身体の享楽 jouissance du corps》や《異物 Fremdkörper, un corps qui nous est étranger》とは結局、《自由に活動する備給エネルギーrei bewegliche Besetzungsenergie》にかかわるのではないか。

われわれは、心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する衝動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程を二次過程に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給に変化させることなどのことを見出した。この転換の行なわれるあいだに、不快の発展を顧慮していることはできないが、だからといって快原理は放棄されるのではない。むしろ快原理に沿うように行なわれる。拘束は快原理の支配の端緒となり、それを確実なものとする一種の準備行動なのである。(フロイト『快原理の彼岸』1920)
Wir haben es als eine der frühesten und wichtigsten Funktionen des seelischen Apparates erkannt, die anlangenden Triebregungen zu »binden«, den in ihnen herrschenden Primärvorgang durch den Sekundärvorgang zu ersetzen, ihre frei bewegliche Besetzungsenergie in vorwiegend ruhende (tonische) Besetzung umzuwandeln. Während dieser Umsetzung kann auf die Entwicklung von Unlust nicht Rücksicht genommen werden, allein das Lustprinzip wird dadurch nicht aufgehoben. Die Umsetzung geschieht vielmehr im Dienste des Lustprinzips; die Bindung ist ein vorbereitender Akt, der die Herrschaft des Lustprinzips einleitet und sichert.(Jenseits des Lustprinzips、1920)

《侵入する衝動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」》


「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

《人は享楽の侵入(奔馬)を「一の徴」の鞍で以て飼い馴らそうと試みる》(ポール・バーハウ、2001)

……このような想定と、ブロイアーが、心理的体系の諸要素について、静止せる(拘束された)  備給エネルギーBesetzungsenerと自由に活動しうる備給エネルギーとを区別した見解とをむすびつけて考えることができる。Bwシステムの諸要素は、そのとき拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギーしかそなえていないだろう。(同、フロイト『快原理の彼岸』)

Man kann mit dieser Vorstellung die Breuersche Unterscheidung vonruhender (gebundener) und frei beweglicher Besetzungsenergie in den Elementen der psychischen Systeme zusammenbringen; die Elemente des Systems Bw würden dann keine gebundene und nur frei abfuhrfähige Energie führen.


最後にもう一度、フロイトの現勢神経症/精神神経症の区別に注目して図示すれば次のようになる。


フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)))

おそらく、ラカンの《刻印 inscription》という用語は、フロイトの《固着 Fixierung》の変奏であろう。

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、セミネール17)


…………

なおジャック=アラン・ミレールは、2005年のセミネールで次のような区分をしている(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)



21世紀における精神分析は変貌している。既に確立されているもの以外に、他の象徴秩序 autre ordre symbolique・他の現実界 autre réel を考慮しなければならない。…

「言存在 parlêtre」を分析することは、もはやフロイトの意味における無意識を分析することとは全く異なる。(以前のラカンの)「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる。…

例えば、我々が、サントーム sinthome としての症状について語る時。この言葉・概念は「言存在 parlêtre」の時代から来ている。それは、無意識の症状概念から「言存在 parlêtre」への移行を表している。……

ご存知のように、言語のように構造化された無意識の形成としての症状は、隠喩である。それは意味の効果、一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して代替されることによって引き起こされる症状である。

他方、「言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER 、2014)

ここまでの記述をーーとくにフロイトによる症例ドラの記述、《psychische Umkleidung(精神的外被・精神的変奏・心的被覆》、ラカンの《症状の形式的封筒》ーーを補足する意味で、Florencia Farìas、2010の叙述はとてもすぐれている、とわたくしは思う。

ヒステリー的女が、彼女の身体的症状を通して、私たちに教えてくれるのは何か? ヒステリーの身体は、主体としてのその単独性に加えて、その受難・その転換(症状)を通して、話す。身体の象形文字は、ヒステリーの症候学においての核心であるソマティック(流動する身体)の機制に私たちを導く。ソマティックな症状は、現実界と言語とのあいだの境界点に位置づけられる。全ての「ヒステリー的作用 opération hystérique」は、症状の身体を封筒(覆い enveloppe)のなかへ滑り込ませることによって構成されている。

私たちは言いうる、ヒステリーは身体のなかの身体を再発明する réinvente un corps dans le corps、あたかも肉体 anatomie が存在しないかのように進みつつ、と。しかしヒステリーは肉体といかに戯れるか、そして大胆な身体的地理学 audace géographie corporelle を設置する症状をいかに奨励するかを知っている故に、症状の欲求に応じるイマジネールな肉体がある。歴史(ヒストリー≒ヒステリー)は身体的症状のなかに刻印される。純粋なヒステリーの目的は、リアルな身体 corps réel を作ることである。この身体、「症状の出来事 événement du symptôme」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、Florencia Farìas、2010,PDF」ーー歌う身体の神秘

ジジェクによる旧来の症状とサントームとしての症状についての簡潔な表現も付記しておこう。

症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、「分割不能な残余」であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あ るいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は「症状との同一化」として再構成される。(ジジェク2012,LESS THAN NOTHING, 私訳)

…………

※以上、言うまでもないことだが、フロイト・ラカン引用以外のここに記されたことは、上のような解釈があるということだけであり、これらが必ずしも正当的なものだとは限らない。


※追記

サントームはすくなくとも三つの意味がある。ここでの記述はその一部に過ぎないことを断っておこう(以下の三番目のみ。ラカン自身の言葉の引用は、「一の徴」日記⑤の末尾近くを参照)。

i) the clinical necessity to knot the Imaginary and the Symbolic, and the Symbolic and the Real through splicing or suturing,

ii) Joyce's proper name or ego as a compensation for the lack of the paternal function and the imaginary relation,

iii) sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung).(Post-Fantasmatic Sinthome Youngjin, Park、PDF


「フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム」補遺


2016年12月16日金曜日

歌う身体の神秘

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (S20、Février 1973)

ファルスの彼方とは、もちろん快原理の彼方のことである。象徴界の彼方の現実界、言語の、シニフィアンの彼方、こには反復強迫・死の欲動があるとされるが、フロイトはそれを別の論で「不気味なもの Das Unheimliche」とも呼び(参照)、ラカンは外密と呼んだ。私の最も内にある《親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(S.7)

もっとも「彼方」「彼岸」という語彙群は注意して扱わなければならない。

現実界は、形式化の袋小路においてのみ記される。[…le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation](ラカン、セミネール20、20 Mars 1973)

すくなくともある時期のラカンは上のように語った。 ジジェクの明瞭な言い方なら次のようになる。

現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもない。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

とはいえ、たとえばこの三年後の叙述をどうとらえるかについて議論はある(ラカンの転回か否か)。

法のない現実界(le Réel sans loi)……本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre](セミネール23、13 Avril 1976)

…………

さて本題に入る。

現実界は話す身体の神秘、無意識の神秘である。Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S20、15 mai 1973)

話す身体の神秘が、最も典型的に現れるのは歌う身体においてではないだろうか。そしてそれは女性が歌わなくてはならない。 ラカンの「女性」は、解剖学的な女とは直接には関係ないにしろ、多くの場合やはり関係がありうる。

◆Raquel Andueza y la Galanía, con Monteverdi




◆「ヒステリー者の身体ー女性の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、Florencia Farìas、2010,PDF

ーー分析家も実は「女性」のほうがいいんじゃないか。Florencia Farìas はほとんど無名のアルゼンチンの女流分析家だが、とてもすばらしい。

話す身体の神秘 Le mystère du corps parlant…これは、ヒステリーの神秘 mystère de l'hystérie を表しもするし、女性の享楽 jouissance féminineの 神秘を表しもする。身体は両方を含んでいる。

ではどちらの身体? 精神分析家を関心づけるのはどちらの身体だろうか?

フロイトはその仕事の最初から、無意識は身体に影響を与えると強調した。だから、私たちが身体について話すとき、生まれながらに授けられた有機体を指してはいない。私たちは生物学的有機体としての身体と主体としての身体を区別しなくてはならない。

私たちは知っている。言語の効果のひとつは、主体から身体の分離することなのを。この主体と身体とのあいだの切断・分離の効果は、唯一、言語の介入によって可能である。つまり身体は構築されなければならない。人は身体と一緒に生まれてこない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。身体は言葉の効果である。

鏡像段階の研究を通して、ラカンが明らかにしたことを心にとめておこう。主体は、全的な統合された身体としての自己自身を認知するために他者が必要である。唯一、他者のイメージとの同一化を通してのみ、幼児は自身の身体のイメージを獲得する。けれども、言語の構造へのアクセス--つまり象徴秩序へのアクセスーーがイマジネールな同一化の必要条件である。したがって身体イメージの構成は、象徴界からやって来る効果である。

◆"Gretchen am Spinnrade" Franz Schubert



ヒステリー的女は、身体のイメージによって、彼女自身を女性 femme と見なそうと企てる。彼女はそのイメージにて、女性性 féminité の問いを解決しようとする。これは、女性性の場にある「名付け得ないものを名付けようとする nommer l'innommable」やり方である。彼女の女性性は、彼女にとって異者 étrangère なので、自分の身体によって、彼女は何なのかの秘密を握っている「他者なる女 l'Autre femme」の神秘を崇める。つまり、彼女は、「他の女 une autre femme」・「リアルな他者 un autre réel 」を通して、彼女は何なのかの問いへ身体を供えようとする。

ヒステリーからの女性性への道のりには、いくつかの事が残されている。症状・不平不満・苦痛・過酷な或は不在の母・理想化された或は不能の父・享楽である。享楽はときに子供をファルスの場に置く。女性の全身体マイナス母は、他者が必要である。それは分析の間に起こる。現実界のなかの介入は、分析家の現前を通して、当享楽の減算 soustraction を作動する。もっとも時にヒステリーと女性性は、両方を巻き込んだ或る複合によって統合されて現れるが、分析の進路においてこの二つの相違が瞭然となる。

ヒステリー的女が、彼女の身体的症状を通して、私たちに教えてくれるのは何か? ヒステリーの身体は、主体としてのその単独性に加えて、その受難・その転換(症状)を通して、話す。身体の象形文字は、ヒステリーの症候学においての核心であるソマティック(流動する身体)の機制に私たちを導く。ソマティックな症状は、現実界と言語とのあいだの境界点に位置づけられる。全ての「ヒステリー的作用 opération hystérique」は、症状の身体を封筒(覆い enveloppe)のなかへ滑り込ませることによって構成されている。
私たちは言いうる、ヒステリーは身体のなかの身体を再発明する réinvente un corps dans le corps、あたかも肉体 anatomie が存在しないかのように進みつつ、と。しかしヒステリーは肉体といかに戯れるか、そして大胆な身体的地理学 audace géographie corporelle を設置する症状をいかに奨励するかを知っている故に、症状の欲求に応じるイマジネールな肉体がある。歴史(ヒストリー≒ヒステリー)は身体的症状のなかに刻印される。純粋なヒステリーの目的は、リアルな身体 corps réel を作ることである。この身体、「症状の出来事 événement du symptôme」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010)

すでによく知られているように(?)、《世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …》(ソレルス『女たち』)


「歌う身体の神秘」の「歌う」とは、たんに歌手によるものではない。たとえば弦楽奏者にももちろん歌う身体の神秘」がある。わたくしは映像を観賞するばあい、弦楽四重奏団には女性がすくなくとも一人は紛れ込んでいないと、どうもいけない。

◆Artemis plays Beethoven String Quartets op. 130 Presto - 2010





音楽は女たちのものである。音楽を男たち、あのあぶくども、似たり寄ったりの音楽家たちにまかせておくわけにはいかない。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)
まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっているのぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)

◆Jaqueline Du Pre & Daniel Barenboim - informal




まともな音楽家はかりにオチンチンがついていようとも、すべて女である。

歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹

晩年のミケランジェリはようやく女になった(脳溢血でステージで倒れた後だ)。

◆Arturo Benedetti Michelangeli: bis dopo concerto con Celibidache Debussy: Hommage a Rameau



→ミケランジェリが男だったころの同じ Hommage à Rameau(同じくらい名演かもしれないけれど)。

でもグールドはずっと女だったさ。武満? 彼はひょっとして一時的に男になったのかもしれない(名声を追い求めようとしたとき)。

グールドはロイス・マーシャルが好きだったんだな、とてもよくわかるよ

◆Lois Marshall & Glenn Gould perform "Ophelia Lieder"




彼女のシューマンやフォーレなんて絶品なんだけどな(ときにあらわれるヒステリー的荒々しさもふくめ)。

◆Lois Marshall sings "Dichterliebe" - LIVE!





ヒステリー、ヒステリーというが、言語を使う人間は基本的にヒステリー的である(強迫神経症とは、フロイト曰くの「ヒステリーの方言」である)。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」1982)

ーーってなわけでね。しかも、いささか精神病的気質をもっていそうなラカン自身、晩年はこういってんだから。

私は完全なヒステリーだよ、症状のないヒステリーだな…[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Le séminaire xxiv)

…………

ヒステリーと女性性との相違、その近似性の解釈のひとつとしてGeneviève Morel のある意味決定的な解釈を掲げておこう。


◆READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love, Knowledge, and Feminine Sexuality EDITED BY Suzanne Barnard, Bruce Fink、2002より

私は次のように主張する立場をとる。すなわち、ヒステリーと女性性は、ヒステリー的構造を持つとされる同じ女のなかに共存することが可能であり、したがって、ヒステリーとは常に部分的であり、女は彼女のヒステリーを超えてゆく、と。





私たちはこれを、開かれた集合としての非全体の女を表象することによって、シンプルに描写しうる。…ヒステリーは、それ自体の境界を含んだ閉ざされた「全体」として表象されうる。そして非全体の集合内部に位置づけられる。ヒステリーは「男の部分を演じる」ことによって構成される全体であり、それは「男である」こととは一致しない。(Geneviève Morel、FEMININE CONDITIONS OF JOUISSANCE)

※この文に現れる「男の部分を演じる」等、不明であるならば、「私は私の子宮で話している」を参照。