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2018年2月21日水曜日

自閉症とは「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)のことである

以下、「三種類の原抑圧」と「S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴」を記すことによって生じた派生物としての備忘。

わたくし自身は十分には納得はできていないので、当面のメモの範囲を出ない。

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精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »と呼ばれうるものじゃないかい? 

…… la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S24、19 Avril 1977)

この「精神分析は二者の自閉症ではないか」という発言は、精神分析は結局、分析家という自閉症的主体と、分析主体(患者)という自閉症的主体のぶつかりあいではないか、という問いである。

ラカンにとって自閉症的主体とは、まずなによりも言語外・象徴界外にある「身体の享楽」の主体ーー厳密には「主体」とはいえないーーのことであろう。

(身体外 hors corpsのファルス享楽の彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre [JA](参照) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーー《私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. 》(ラカン、S20. 15 Mai 1973 )

もし、「〈二者〉の自閉症」でないならーーそう確信させてもらいたいがーー、言語 (la langue) があるおかげだ。ラカンが言うように、言語は共有の事柄のためだ。(ミレール、「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan, 2000)

自閉症 autism の語源は、 ドイツ語の Autismus にあるが、さらに遡って、ギリシャ語のautos-(αὐτός 自己)と-ismos(状態)を組み合わせた造語である。すなわち、autism とは、本来は「自己状態」ということであり、「閉じる」の意味はない。

ここでは現在の自閉症スペクトラム などの語彙として流通する「流行病としての」自閉症(参照:現代の流行病「自閉症」)についてではなく、主流ラカン派がどのように「自閉症」という語を捉えているのかをいくらか記す(もっともラカン派内でも「一般化自閉症 autisme généralisé」と口にする人がいないではない)。

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自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007、pdf)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001, pdf

ここでミレールの言っている「一者の享楽」(一の享楽 la jouissance de l'Un)とは、「一のシニフィアン le signifiant « Un »」「一のようなものがある Yad'lun」(「ひとつきりのシニフィアン le signifiant tout seul」、「ひとつきりの一  l’Un-tout-seul」」)の享楽である。

(ラカンの「一」とは、パルメニデスの「一」起源(そしてパルメニデスを論じた主にプラトン、ハイデガーに依拠がある。)

これらを代表する表現「一のシニフィアン le signifiant « Un »」(一者のシニフィアン)とは、「S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴」で見たように、サントーム(原症状)でもあるし、フロイトの自体性愛にもかかわるとジャック=アラン・ミレールは言っている(後述)。

フロイトの自体性愛とは、ナルシシズムーー通念の心的ナルシシズムではなく、身体的ナルシシズムである。

愛Liebeは欲動興奮(欲動の蠢きTriebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。(フロイト『欲動とその運命』1915)

「一」の享楽とは、ようするに「自ら享楽する身体」、他とはかかわりなく独りで享楽する身体である。

「サントーム le Sinthome」……それは 「一のようなものがある Yadlun」と同一である(ジャッ ク=アラン・ミレール2011, XIV. le point de capiton de Montpellier / tripartition de consistances cliniques)
・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。

・身体の自動的享楽 auto-jouissance du corps(は、「一のようなものがある Yad'lun」と「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel 」の両方に関連づけられる。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

 ひとは誰もが自ら享楽する身体をその根にもっているという観点である、《自閉的享楽としてのそれ自身の身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste》(ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN、2000)を。

「一のようなものがある Yad'lun 」とは「非二 pas deux」であり、それは即座に「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 」と解釈されうる。 (ラカン、S19、17 Mai 1972)

「二」なしの「一」(自己状態 αὐτός-ismos)であれば、性関係がないどころか、他人との関係はない(非関係)。

穴(トラウマ)、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)

ここでさらにミレール、もしくはミレール派を中心とした注釈をいくらか並べる。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を意味する。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)

「一のシニフィアン le signifiant Un」あるいはサントームとは、フロイトの固着のことである。

固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)
「一」と「享楽」との接合としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯⋯

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un)

このミレール文は、サントームの定義と等価である。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

しかしこの「一」自体、それ自身と一致しないシニフィアンである。もし一致していれば、人は反復などしないだろう。これについては、Hélène Bonnaudの注釈がとてもすぐれている、とわたくしは思う。

ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF

「一」の反復的享楽とは、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps》ためである。

すこしまえに戻って記述を続ける。

固着、すなわち欲動の固着とは、フロイトの原抑圧のことである。 《原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野外に置かれるということである。》(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure
・精神分析的治療は抑圧を取り除き、裸の「欲動の固着」を露わにする。この諸固着はもはやそれ自体としては変更しえない。

・固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

固着(原抑圧)とは穴にかかわる概念である(参照)。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

そしてこの原症状という「一般化排除 la forclusion généralisée」の穴に対応するために、種々の症状を人は作るのである。それが「一般化妄想 le délire généralisé 」、「一般化倒錯 la perversion généralisée」と呼ばれるものである(参照)。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。

Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)

そして神経症自体、父の版の症状、父の版の倒錯である。

・エディプスコンプレクス自体、症状である Le complexe d'Œdipe, comme tel, est un symptôme.

・倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この「父の版 père-version」についてのコレット・ソレールの注釈は次の通り。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

このように人はみな穴埋めをする。あるいはこの穴の補填をする。自閉症的身体の享楽、自ら享楽する身体を飼い馴らす。それに対する防衛をする。これがわれわれ人間の在り方というのが主流ラカン派の考え方である(参照:人はみな穴埋めする)。

かつまたこの自ら享楽する身体とは、ラカンの定義上、トラウマにかかわる。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )

ゆえにミレールは次のように言っているのである(参照:「人はみな妄想する」の彼岸)。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 https://viedelacan.wordpress.com/

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で、享楽という原マゾヒズムはどこにいってしまったのだろう、この「一」の享楽をあるにはあるに決まっているだろうが。

この「一」の享楽のさらに背後に、原マゾヒズムがあるのではないか、という問いがわたくしにはある。そこがわからない。

フロイトは1919年までは、マゾヒズムは二次的なものとしていた。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行によって、対象から自我へと方向転換したのである。(フロイト『子供が打たれる』1919年)

ところが翌年、次の叙述がみられる。

自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)における記述が核心的なもののひとつだが、それは長い引用となるので、「享楽という原マゾヒズム」を見よ。

ラカン自身、こう言っている。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

最終的に、1933年(77歳)のフロイトは次のように言うようになる。

マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus (フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)


ーーすなわち自己破壊欲動は、他者攻撃欲動よりも先にある。そして、

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)

ようするに自閉症的享楽(自ら享楽する身体)のさらに井戸の底には、この原マゾヒズムがあるのではないだろうか。それが現在のラカン主流派ではほとんど強調されていない。


S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴」での図を再掲すれば、自閉症的享楽とは、母性固着(一次原抑圧)にかかわる。



実際、この自ら享楽する身体をめぐってミレール2011は、S(Ⱥ)/Ⱥを語っている。《S (Ⱥ)とは、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》、《享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は固着の対象である elle est l'objet d'une fixation》等々。

だがそれ以前に、論理的には、原エロスに吸引される原マゾヒズムがあるのではないだろうか。それともその引力としての原エロスのまわりを循環運動することを反復的享楽と呼んでいるのだろうか。たぶんそうなのだろうが、そこがわたくしにはラカン主流派の現在の議論では鮮明には語られていないようにみえる。

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)


そもそもあらゆる「反復」は、エロスとタナトスの「欲動混淆 Triebvermischung」(1924)に由来するというのが晩年のフロイトの思考であり、ラカンはこれを否定しているようには見えない。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている…フロイトが主張したように、同一の反復には dans la répétition même、享楽の喪失がある il y a déperdition de jouissance…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S17、14 Janvier 1970)

とすれば自閉症的享楽の常同的反復も同じである筈(わたくしは自閉症について臨床的には全く知らない者として今、記している)。

生物学的機能において、二つの基本欲動(エロスとタナトス)は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。…

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)