我々の言説(社会的つながり lien social) はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)
※参照: 「防衛の一種としての抑圧」
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◆De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, 2018
人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。
Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)
一般化排除の穴 trou de la forclusion généraliséeとは何か。《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴である。
◆ LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert (2018)
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。
forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose.
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人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant(ラカン、1978)
ーー「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 ーー「人はみな外傷神経症である」)
…我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。
…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )
倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme (ラカン、 S23, 11 Mai 1976 )
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
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…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、いわゆる象徴秩序が望むような場には決して収まらないという意味で。
そしてこの理由で、後期ラカンは「父性隠喩 la métaphore paternelle」(父の名の隠喩)について皮肉を言い得た。彼は父性隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動きmouvement vers le père》の版という意味である。(ジャック=アラン・ミレール 2013、L'Autre sans Autre)
ミレールに「一般化排除 forclusion généralisée」、コレット・ソレールに「一般化倒錯 perversion généralisée」という概念があるが、上の文を読むかぎりでは、紆余曲折の議論はあったにしろ、ここにきて両者は近似的なことを言うようになっているように思える(「ふつうの精神病 La psychose ordinaire」と「ふつうの倒錯 La perversion ordinaire」も「構造論的には」、つまりどちらも穴埋めに関わる点からいえば相同的である)。
「一般化排除 La forclusion généralisée」とは「一般化妄想 le délire généralisé 」(Catherine Bonningue、2009)に帰結する。妄想とは、一般化排除=穴Ⱥの補填suppléance することなのだから。
「一般化倒錯 perversion généralisée」も結局、穴埋めである。
倒錯者は、大他者のなかの穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)
ーー大他者とは身体でもあり、身体の穴埋め(「身体の享楽」の飼い馴らし)をするのも(上の定義上)倒錯である。 《大他者は身体である! L'Autre、c'est le corps ! 》(ラカン、S14, 1967)
少し前、「母の法と父の法(父の諸名)」にて、次の図を示したが、S(Ⱥ)/Ⱥの段階(第一次原抑圧とでも呼びうる原抑圧)での「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除が人にはかならずある。S1/S(Ⱥ)(父性隠喩にかかわる第二次原抑圧)で父の名S1の排除があろうとなかろうと。
※参照:二種類の原抑圧
ジジェクなら「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除について、次のように記している。
象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳ーー喪われている「女性の主人のシニフィアン」)
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最も重要なのは、フロイトの固着(原抑圧S(Ⱥ)ーー穴のシニフィアン)である(参照:「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」)。
固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯
フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un)
・精神分析的治療は抑圧を取り除き、裸の「欲動の固着」を露わにする。この諸固着はもはやそれ自体としては変更しえない。
・固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)
※付記
抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。
Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、Brief an Fliess、 1 Januar 1896)
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
我々の見解では、境界シニフィアンの手段による「原防衛」は、フロイトが後年、「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野外に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。
原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。
この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(ポール・バーハウPAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)
◆フロイト、1940年
生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の 対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着 Fixierung der Libido an bestimmte Objekte と対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。 (⋯⋯)
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)
◆フロイト、1916-1917年
・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、より初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。
・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22 講、私訳)
人類の歴史の初期にはしばしば起こったことだが、全住民が居住地を立ち去って新しい場 所を探し求めるとき、我々が確かめうるのは、彼らのすべてが新しい土地に到着しなかったことである。他の喪失はさておき、小さな集団あるいは移住民の一群は、途中で立ち止まり、 その場所に定住する。一方で本体の集団は新しい土地に向かってさらに前に進んで行く。 (『精神分析入門』第22 講、私訳)
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。
・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)
◆フロイト、1939年
第一に、神経症の起源は、必ず幼児期における最初期の印象に戻る。第二に、これはトラウマ的なものとして識別される。なぜなら、ひとつあるいはそれ以上の強烈な印象に間違いなく戻るために、通常の仕方では取り扱えない影響をもつから。…
このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939、私訳)
トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。…
ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すな わち忘れられた経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。…
(このトラウマを扱う)ポジ面の試みは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma、反復 強迫 Wiederholungszwang の名のもとに要約しうる。…これは動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge と呼びうる。…
ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。 我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、制止 Hemmungen と恐怖症Phobien に収斂しうる。(フ ロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939)