きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」ーー「アリアドネのたたり」)
それは、原リアルの名、原穴の名(原トラウマの名)でもある。
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネールーー「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)
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以下、ジジェクの華麗な説明である。こういった説明は、いくら現在の臨床的ラカン派の見解とのあいだにいくらかの齟齬があろうと捨て難く、ジジェクの真骨頂としてよいだろう。
想い起こそう。ラカンが「Vorstellungs‐Repräsentanz 表象-代理」を、失われている二項シニフィアンとして定義したことを。この喪われている二項シニフィアン binary signifier とは、「ファルスの主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier」の対応物でありうる「女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier」であり、二つの性の相補性を支え、どちらの性もそれ自身の場ーー陰陽、等のように--置くものである。
ここで、ラカンはラディカルなヘーゲリアンである(疑いもなく、彼自身は気づいていないが)。すなわち、「一」がそれ自身と一致しないから、「多」multiplicity がある。
今われわれは、「原初に抑圧されたもの」(原抑圧)は二項シニフィアン binary signifier (表象代理 Vorstellungs‐Repräsentanz のシニフィアン)であるというラカンの命題の正確な意味が分かる。
象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。
(…)この理由で、標準的な脱構築主義者の批判ーーそれによれば、ラカンの性別化の理論は「二項論理」binary logic と擦り合うーーとは、完全に要点を取り逃している。ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas 」が目指すのは、まさに「二項」の軸、Masculine と Feminine のカップルを掘り崩すことである。原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである(これが我々がカフカの有名な言明、「メシアは、ある日、あまりにも遅れてやって来る」を読むべき方法だ)。
これはまた、「一」に固有の分裂/多様性の暴発とのあいだの繋がりを、人はいかに捉えるべきかについての方法である。「多」multiple は、原初の存在論的事実ではない。「多」の超越論的起源は、二項シニフィアンの欠如にある。すなわち、「多」は、失われている二項シニフィアンの裂け目を埋め合わせる一連の試みとして、出現する。したがって、S1 と S2 とのあいだの差異は、同じ領野内部の二つの対立する軸の差異ではない。そうではなく、この同じ領野内部での切れ目であり(その水準での切れ目において、変化をふくむ作用 process が発生する)、「一」の用語固有のものである。すなわち、原初のカップルは、二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなく、シニフィアンとそのレディプリカティオ reduplicatio、シニフィアンとその刻印 inscription の場、「一」と「ゼロ」とのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)
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ここでラカン派「臨床家」ポール・バーハウの1999年に出版された書ーージジェクは奇跡の書と書評したーーから、初期フロイトの次の文をめぐる叙述の一部を抜き出しておこう。
本源的に抑圧されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト、Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
ーー「本源的に抑圧されているもの」とはもちろん、フロイトの後年の概念「原抑圧」のことである。
トラウマ的現実界ーーその現実界にとって象徴界のなかにシニフィアンはないーー、これは、女性性に相当する。フロイトは象徴秩序のなかの欠如を見出した。すなわち女というもののシニフィアンはない。半世紀後、ラカンはこれをȺ(象徴界のなかの穴)と書いた。これは、シニフィアンの全体は完全では決してないという意味である。すなわち大他者にはひとつの欠如がある。
我々の見解では、境界シニフィアンの手段による「原防衛」は、フロイトが後年、「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。
原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。
この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)
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※附記
冒頭に引用したジジェクには、次の文があった。
原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである。
この文とともに読める、柄谷行人による、言語は《それ自身に対して差異的であるところの、差異体系》をも付記しておこう。
言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)
もちろんこれらの文の背後には、たとえば、
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)