私は私の身体で話してるの。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言うの。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973 )
--「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」
三十五年ほど昔、「さびしくて」というつぶやきに触れた時、私はとっさに、聞く耳を持った。「たとえば人が亡くなって」と聞いた時にも、当時私の肉親は健在で、身近の不幸も知らなかったのに、夜更けに駆けつける気持を思ったものだ。(古井由吉『楽天の日々』越す)
この五年ぐらいが勝負だよ、いくら「あなたはいつまでも大人にならないから、いいわねえ。おととしも、去年も、今年も、ちつとも変りがないんですもの。」(坂口安吾「木々の精、谷の精」)だって。
なにはともあれ、《わたしの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて》なんてことにならないように。通俗的なことを記すけれど。怒るだろうけど。それはわたしの感じ方しだいって言うのだろうけど。
宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があった筈だが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。…
…女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との怖るべき距りに就て、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。(坂口安吾「青春論」)