ああ、何度か繰り返しているけど、「女性の享楽」としていままで流通してきている説明ーーラカンのセミネール20「アンコール」における女性の享楽が神と関連付けられている説明ーーは現在の主流ラカン派観点からは、ひどく問題がある(たとえば、日本ではラカン派プロパーではない佐々木中が示している内容)。
たとえば2018年のラカン派ーー主にミレール派を中心としたーーの会議 Les Psychoses Ordinaires et les Autres, sous transfert の主題が提示されているけれど、《アンコールで展開された「女性の享楽」の行き詰り les impasses de la jouissance féminine développées dans Encore》という表現がなされている。
ようするにセミネール20以降、ラカンは大きく変貌したというのが、現在主流ラカン派の考え方。核心は「サントームのセミネール23」。もっとも主流ラカン派が正しい道を歩んでいるのかどうかは判断保留をしおくけど。
たとえば、ジジェクは2016年の段階で、ミレールの最近の考え方は「何かが途轍もなく間違っている」と言っている。とすれば、ジジェクが途轍もなく間違っている可能性を疑わなければならない。
最近、わたくしがジャック=アラン・ミレールやコレット・ソレール(ラカン臨床派の二大代表者)を(彷徨いつつ)いくらか引用しているのは、そのため。
基本的には、新しい「女性の享楽」の捉え方は次の文にある(参照:二つの現実界)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard
…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation
…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf)
ボクもはっきりしたことはわかんないよ、ずっとジジェク注釈を信奉してきた身だからな、
とはいえ、アンコールの女性の享楽が誤謬だろうことは、若手ラカン派のリーダー、ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesaがすでに2007年に指摘している(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007)
The passage from the notion of Other-jouissance JA to that of the jouissance of the barred Other J (A barred) epitomizes the distance that separates Saint Teresa's holy ecstasy , as referred to by Lacan in Seminar XX, from the “naming” of lack carried out by Joyce-le-saint-homme, as analyzed in detail in Seminar XXIII.
In this seminar, JA (of Woman; of God) becomes impossible; however, feminine jouissance could be redefined in terms of J (A barred).275
J (A barred) is therefore a (form of ) jouissance of the impossibility of JA.
Most importantly , I must emphasize that the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being “beyond” the phallus.
275. In this way , it would be easy to think of Joy-cean jouissance as a thorough reelaboration of the jouissance of the mystic which Seminar XX had already paired up with feminine jouis-sance. It then also becomes clear why Lacan's recurrent parallelism between Joyce and a saint is far from being gratuitous (“Joyce-the-sinthome is homophonous with sanc-tity”; J. Lacan, “Joyce le symptôme,” in Le séminaire livre XXIII, p. 162).
とはいえ、ミレールやコレット・ソレールの考え方はこれとはちょっと違うんだな。
なにはともあれ、日本で語られているラカン注釈、とくに頭のかたそうな古いおっちゃんたちの注釈は、ぜんぶ疑ったほうがいいよ、だいたい、二種類の原抑圧があるということさえいまだ分かっていない連中がほとんど。
(たとえば、これはラカン派ではなくフロイト派の村井翔ーー彼はときにすぐれたことも記しているのだがーーこの村井サンのラカン注釈に依拠したシュレーバー症例を読んでみたけど、ボロボロだな)
で、ボクももちろんボロボロかもしれないからな、ま、だれも信用すべからず、だよ。
蓮實重彦が一年前の東大新聞インタビューでいってるけどさ、これが基本だな
若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。