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2018年1月26日金曜日

人はみな外傷神経症である

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

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さて原固着(原抑圧)をめぐる第三弾である。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ2001, BEYOND GENDER From subject to drive by Paul Verhaeghe) 

ーー「置き残す」をめぐっては、「聖多姆と固着」に比較的詳しく記述した。

このポール・バーハウによる、ラカンの現実界=フロイトの原抑圧を受け入れるなら、原抑圧概念がほとんど蔑ろにされている現在(参照)、ラカンの現実界はなんのことだか分からない、ということになる。

だがもちろんそれは、バーハウの命題が正しいならば、ということである。

まずラカンの現実界の定義をふたつ掲げる。

現実界は、同化不能 inassimilable(表象不能)の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964 )
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


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冒頭に引用したように、フロイトの欲動は「身体的なもの」と「心的なもの」とのあいだの境界概念である。そして《欲動における境界、それは決して全的には越境されない。何かが境界の背後に置き残され、その境界の背後からしつこく作用する 》(同バーハウ 2001)

ラカン用語で言えば、「全的には越境不能」とは、現実界の何ものかを覆うことの象徴界の失敗である。これを、初期フロイトは「翻訳の失敗 Versagung der Übersetzung」と呼んでいる。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧(放逐)と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (Brief an Fliess). (フリース書簡、1896)

フロイト理論においては、快原理は「言語表象 Wortvorstellungen」内部ーーラカンの「シニフィアン」内部・象徴界内部--で作用する。

言語表象内部とは、フロイトが「自由に運動するエネルギー」(一次過程)に対する「拘束されたエネルギー」(二次過程)という形で表現していることでもある。

欲動の蠢きTriebregungenは一次過程に従う…。一次過程 Primärvorgang をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程 Sekundärvorgang を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価としうる。…

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

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ここで最近のジャック=アラン・ミレールの命題を掲げる。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010
妄想は象徴的なものであるである。⋯⋯私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

――《妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。》(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)

「一」と「享楽」との接合としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, (L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller

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最後に、ジジェクなどの哲学的ラカン派組のあいだでは評判高い、リチャード・ブースビーの『哲学者としてのフロイト、ラカン後のメタ心理学』から引用する。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当て」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分離」 である。

つねに残余・回収不能の残余がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の骨組みへ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


ーー「代理表象されない過剰」という表現があるのでバディウの現実界の定義を掲げておこう。

彷徨える過剰は存在の現実界である。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ])

さらにドゥルーズの「原抑圧」を。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

ドゥルーズは次のように記すことによって、原抑圧は抑圧ではないことに気付いていた(原抑圧とは原固着である)。

……そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉un refoulement dit « primaire » と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)


いずれにせよ、現実界(あるいは享楽の現実界)を考える上でのなによりも核心は、「原抑圧」概念である。

原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識 System Bewußt (Bw)・システム前意識System Vorbewußt (Vbw)」 と「システム無意識System Unbewußt (Ubw)」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が「全てではない pastout 」ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(同ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

上にあるようにジジェクは原抑圧の形式的側面を記しているが、中井久夫が「幼児型記憶のシステム」の残存を語るとき、意図してか否かは別にして、原抑圧(原固着)の形式的側面を指摘しているのである。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P.53)

ーーおそらく意図してであろう、すくなくとも「異物」とはフロイトのトラウマにかかわる用語である(参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))。


さて、ミレールの「人はみなトラウマ化されている」とは、フロイト用語で言ってしまえば、人はみな外傷神経症である、といいうる(参照:女性の享楽とトラウマ神経症)。

もちろんここでの「外傷」とは、バーハウ表現を使えば、「構造的トラウマ」のことである。

我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、構造的トラウマ(性的ー欲動的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(ポール・バーハウ、1998, Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN)

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※付記

記しているうちに、ついうっかりと「人はみな外傷神経症である」などと口走ってしまったので、フロイトのトラウマあるいは外傷神経症の定義を掲げておかねばならない。

外傷神経症は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式のアタック hysteriforme Anfälle がおこる。このアタックによって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事を我々は見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年、私訳)
経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit をトラウマ的 traumatische 状況と呼ぶ。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


そして後に「事故的トラウマ」の寄る辺なさに遭遇すれば、原初の「構造的トラウマ」が蘇る傾向がある。

現在の(寄る辺なき)状況がむかしに経験した外傷的状況を思い出させる die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

災害発生時(地震や津波など)にエロス的心情(「絆」等)が生れるのは、原トラウマにかかわる「愛されたいという要求」のせいである(表層的に先ず現れるのは愛することかもしれない。だが《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)

このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)

とはいえ日本においてエロス的心情が生まれるのは一時的な現象であり、全般としてはーー平和が続いているわけでーー、タナトスの国であるだろう。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性(タナトス)は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯(エロス)ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境である。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014)

ーー《 エロスの力は取り戻さなければまずいんです。社会の存亡にかかわるんです。少なくとも、 エロスがなくなれば小説はなくなり、文学がなくなる。》(古井由吉『人生の色気』)

そろそろ関東大震災か、経済破綻があるにきまってるから、エロスはきっと復活スルハズデス、ご安心を!

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※追記

なおフロイトが「神経症」と言うとき、二種類あることに注意しなくてはならない。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)

ーー精神神経症/現勢神経症とは、ラカン的には象徴界の症状/現実界の症状である。そして外傷神経症とは、現実界の症状の範疇にある。

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)
一般的に言えば、精神神経症の症状 psychoneurotischen Symptomsの核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露 somatischen Sexualäußerung から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)

 ※詳細は、「女性の享楽と現勢神経症」を参照