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第一に、神経症の起源は、必ず幼児期における最初期の印象に戻る。第二に、これはトラウマ的なものとして識別される。なぜなら、ひとつあるいはそれ以上の強烈な印象に間違いなく戻るために、通常の仕方では取り扱えない影響をもつから。…
このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1937-39、私訳)
まずこの文は、「「人はみな妄想する」の彼岸」で引用した次の文とともに読んでみたい。
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 )
そしてフロイトが「神経症」と書くとき、現勢神経症と精神神経症の両方を想起しなければならない。一般に語られる神経症とは、精神神経症であるが、神経症の起源は現勢神経症であり、ラカンの症状の核(サントーム)、身体の享楽(女性の享楽)に近似した概念である(参照:女性の享楽と現勢神経症)。
さて『モーセと一神教』に戻る。
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」とは、ラカン用語で言えば、前回見たように穴への固着である。すなわち、穴 trou → 穴ウマ troumatisme =トラウマへの固着。
穴とはȺとも書かれ、その穴の名(シニフィアン)が、S(Ⱥ)であり、これはまた原抑圧のシニフィアン、サントームである。サントーム sinthome とは原症状であり、まさにフロイトが言っているように「動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge」である。
誰もが母へのエロス的固着の残余がーーその多寡はあれーー残っているはずであり、このため、人は女への従属の人生を送るのである。それは男女ともにそうであるだろう。
たとえば、ニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(『ツァラトゥストラ』)。
人はこの文を次のように変奏してみるべきである。
ーー男は、女の穴に引きつけられる。女は、自らの穴で男を引きつける。
究極の母とは原穴の名である。そして「すべての女に母の影は落ちている」(バーハウ、1998)
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さてここで固着とサントームのかかわりについてみてみよう。
ジャック=アラン・ミレールによる2011年のセミネールからである(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller、IX. Direction de la cure // de l’en-deçà du refoulé à un au-delà de la passe- 30 mars 2011)。
ミレールはほぼフロイトの原抑圧ー固着の記述に則って語っている。フロイト自身の文は、 「原抑圧 Urverdrängung とはサントーム sinthome のことである」に引用がある。
そしてこの発言の少し前に語られた次の文を並べてみる。
こうして後期ラカンの核心的概念「サントーム」は、ラカン主流派の解釈においては、フロイトの「固着」と等価であることが判然とする。
ここで前回、1999年という早い段階でなされた核心的な解釈とした文を再掲しよう。
最後にやや飛躍して言ってしまえば、このようにしてすべては、「アリアドネのたたり」に収斂するのである。
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※付記
ニーチェの「女主人」のたたりだけではなく、「薬物中毒と「他の享楽 autre jouissance」」で記したが、安吾のように薬物によって原固着へと退行してしまえば、オッカサマのたたりは覿面である(ニーチェも安吾もファルス秩序の鎧を取り払おうとした作家である)。
前回引用した文をふくめてもう少し詳しく引用すれば、薬物によって(ファルスの彼岸にある)「他の享楽(女性の享楽)」との遭遇とは、欲動の固着点との遭遇ということである。
ーーこれはフロイトが「固着」を説明するなかで比喩を使って語った文である。
第23講には次のようにある。
ーー独語にはまったく疎いのだが、英訳では次のようになっている語をすべて「置き残す」と訳した。
zurückgeblieben stay behind 居残る
Verbleiben lag behind 遅れをとる
hinterlassen leave behind 置き去りにする
…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
さて『モーセと一神教』に戻る。
トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。…
ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘れられた経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erlebenことである。…
(このトラウマを扱う)ポジ面の試みは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma、反復強迫 Wiederholungszwang の名のもとに要約しうる。…これは動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzügeと呼びうる。…
ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、制止 Hemmungenと恐怖症Phobienに収斂しうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1937-39)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」とは、ラカン用語で言えば、前回見たように穴への固着である。すなわち、穴 trou → 穴ウマ troumatisme =トラウマへの固着。
穴とはȺとも書かれ、その穴の名(シニフィアン)が、S(Ⱥ)であり、これはまた原抑圧のシニフィアン、サントームである。サントーム sinthome とは原症状であり、まさにフロイトが言っているように「動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge」である。
「動かしえない個性の徴」とは、『夢判断』(1900年)でフロイトが記した「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」「夢の臍 Nabel des Traums」「菌糸体 mycelium」のことでもあり、『終りある分析と終りなき分析』(1937年)」で記した「欲動の根Triebwurzel」のことでもある(中期フロイトは別に、「真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle」とも呼んでいる)。
さらに死の枕元にあったとされる草稿からも引用してみよう。
生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着 Fixierung der Libido an bestimmte Objekte と対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。…
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weibとして存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
誰もが母へのエロス的固着の残余がーーその多寡はあれーー残っているはずであり、このため、人は女への従属の人生を送るのである。それは男女ともにそうであるだろう。
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
たとえば、ニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(『ツァラトゥストラ』)。
人はこの文を次のように変奏してみるべきである。
ーー男は、女の穴に引きつけられる。女は、自らの穴で男を引きつける。
究極の母とは原穴の名である。そして「すべての女に母の影は落ちている」(バーハウ、1998)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネールーー「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)
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さてここで固着とサントームのかかわりについてみてみよう。
ジャック=アラン・ミレールによる2011年のセミネールからである(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller、IX. Direction de la cure // de l’en-deçà du refoulé à un au-delà de la passe- 30 mars 2011)。
「一」と「享楽」との接合としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯⋯
「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯
フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un)
ミレールはほぼフロイトの原抑圧ー固着の記述に則って語っている。フロイト自身の文は、 「原抑圧 Urverdrängung とはサントーム sinthome のことである」に引用がある。
そしてこの発言の少し前に語られた次の文を並べてみる。
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
こうして後期ラカンの核心的概念「サントーム」は、ラカン主流派の解釈においては、フロイトの「固着」と等価であることが判然とする。
ラカンのサントーム Sinthomeは(ネット上で検索すると)中国語では「聖多姆」と訳されこともあるようだ(姆とは「女+母」で、母がわり、または母になぞらえて接する年上の女性のことである)。
おそらく「聖多姆」とは「母なるものへの固着」「女なるものへの固着」と言い換えてもよいだろう。『モーセと一神教』にある表現を使えば、「偉大な母なる神 große Muttergotthei」 への固着である(実は「母」が肝腎なのではない。乳幼児の誰もが遭遇する最初の「大他者」が肝腎である)。
ラカンの次の文は、フロイトの「偉大な母なる神 große Muttergotthei」 、その原穴の名への固着を念頭にして読むべきである。
おそらく「聖多姆」とは「母なるものへの固着」「女なるものへの固着」と言い換えてもよいだろう。『モーセと一神教』にある表現を使えば、「偉大な母なる神 große Muttergotthei」 への固着である(実は「母」が肝腎なのではない。乳幼児の誰もが遭遇する最初の「大他者」が肝腎である)。
ラカンの次の文は、フロイトの「偉大な母なる神 große Muttergotthei」 、その原穴の名への固着を念頭にして読むべきである。
⋯一般的に人が神と呼ぶもの。だが精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。
on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »(ラカン、S23、16 Mars 1976)
ここで前回、1999年という早い段階でなされた核心的な解釈とした文を再掲しよう。
原抑圧とは、先ずなによ原固着である、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部(身体的なもの)に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。(ポール・バーハウ1999,DOES THE WOMAN EXIST?,1999ーー「女の置き残し」)
最後にやや飛躍して言ってしまえば、このようにしてすべては、「アリアドネのたたり」に収斂するのである。
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※付記
ニーチェの「女主人」のたたりだけではなく、「薬物中毒と「他の享楽 autre jouissance」」で記したが、安吾のように薬物によって原固着へと退行してしまえば、オッカサマのたたりは覿面である(ニーチェも安吾もファルス秩序の鎧を取り払おうとした作家である)。
十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。
「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」
そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった(坂口三千代「クラクラ日記」)
前回引用した文をふくめてもう少し詳しく引用すれば、薬物によって(ファルスの彼岸にある)「他の享楽(女性の享楽)」との遭遇とは、欲動の固着点との遭遇ということである。
人類の歴史の初期にはしばしば起こったことだが、全住民が居住地を立ち去って新しい場所を探し求めるとき、我々が確かめうるのは、彼らのすべてが新しい土地に到着しなかったことである。他の喪失はさておき、小さな集団あるいは移住民の一群は、途中で立ち止まり、その場所に定住する。一方で本体の集団は新しい土地に向かってさらに前に進んで行く。(フロイト『精神分析入門』第22講、私訳)
ーーこれはフロイトが「固着」を説明するなかで比喩を使って語った文である。
・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、より初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。
・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着Fixierung、欲動の固着と呼ばれるものである。(同『精神分析入門』第22講、私訳)
第23講には次のようにある。
・リビドーは、固着Fixierungによって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残すzurückgelassenのである。
・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)
ーー独語にはまったく疎いのだが、英訳では次のようになっている語をすべて「置き残す」と訳した。
zurückgeblieben stay behind 居残る
Verbleiben lag behind 遅れをとる
hinterlassen leave behind 置き去りにする