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2017年10月15日日曜日

薬物中毒と「他の享楽 autre jouissance」

日本において、戦前から戦後一時期までの作家とは、覚醒剤などの使用の影響によって「他の享楽 autre jouissance」の領野での叙述をした書き手が多い、とわたくしは思う。わたくしにとって比較的親しい作家、折口信夫、坂口安吾、川端康成等を読んでそう思う(あまり多くを読んでいないが、芥川龍之介も当然そうだろう)。

ロマン・ガリー Romain Gary の『La vie devant soi(これからの一生)』にて探究された美しいテーマ…。一人の子供が麻薬常習者の環境のなかで娼婦によって育てられる。そして彼は選択しなければならない。娼婦について彼は言う、「彼女たちは尻で自己防衛している Elles se défendent avec leur cui」。麻薬常習者については、「彼らは幸福に賭けている。ぼくはこっちの生のほうがいいな Eux, ils sont pour le bonheur, moi je préfère la vie」。子供の選択は後者である。ここに私は見出す、ファルス享楽と(ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽とのあいだの対立を。私の意見では、他の享楽は、薬物中毒の原形態において中心的な享楽である。(ポール・バーハウ、2001、BEYOND GENDER. From subject to drive, Paul Verhaeghe)

ファルス享楽と他の享楽とのあいだの対立とは、ラカンにおいては次のような形で表わされている。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps …ファルスの彼岸の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)
ファルス享楽とは身体外のものである。 (ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。

qu'autant la jouissance phallique [JΦ] est hors corps [(a)], – autant la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ようするにファルス享楽に対立する他の享楽とは、身体の享楽、女性の享楽と等価である(女性とは解剖学的性差ではないことに注意しなければならない)。


ーー欠如と穴については、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を参照のこと。


フロイト語彙で言い直せば、ファルス享楽はシニフィアン(語表象 Wortvorstellung)につながった「快原理の此岸」の享楽であり、他の享楽とは、「快原理の彼岸」の享楽である(参照)。

ふたたびラカン語彙に戻れば、ファルス享楽/他の享楽とは、「象徴界内部の享楽」とそれを超えた「現実界の享楽」である。

意味作用 signification の彼岸、あらゆるシニフィアンの彼岸、…非意味の、もはや還元されえぬ、トラウマ的なもの…これがトラウマの意味である。

au-delà de cette signification - à quel signifiant… non-sens, irréductible, traumatique, c'est là le sens du traumatisme (ラカン、S11、17 Juin 1964)  
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

ここでのトラウマ≒レミニサンスとは、中井久夫のトラウマの定義とともにわたくしは読む。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

以下、中井久夫の覚醒剤をめぐる記述をも引用しておこう、《覚醒剤使用者には断薬後二〇年以上経っても、少量の覚醒剤あるいはストレスによって大量服薬時の幻覚が発生する》。

「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。では「心の間歇」は「解離」の一種なのか。(……)

現在の精神医学は、解離と呼ばれているものを病的解離と正常解離とにわけている。

病的解離とは多重人格障害 personnalité multiple、遁走 fugue(外からは意識的・合目的に見え、実際、遠方まで車を運転していったりするが当人は記憶していないもの)、種々の健忘 amnésie、夢遊病 somnambulisme、フラッシュバック(白昼に外傷的体験が意図せずして意識に侵入し一時これを占拠するもの)retour en arrière,flash-back、離人 dépersonalisation(自己、下界、身体あるいはそおすべての自己所属感が喪失する)などであり、催眠 hypnotisme はその人工的誘導である。覚醒剤使用者には断薬後二〇年以上経っても、少量の覚醒剤あるいはストレスによって大量服薬時の幻覚が発生する。元来、フラッシュバックという用語はこちらのほうを指していた。なお、実名で『失われた時を求めて』に登場する精神科医コタールの名を冠するコタール症候群 syndrome de Cotard とは自己、自己身体、外界のすべての存在を否定し、「ない」というもので、解離の極端例とも考えられる。(……)

病的解離の代表的なものとは、「心の間歇」は、言葉でいい表せば同じになることでも内実は大いに異なる。たとえば、同じ誘発因子を以て突然始まるといっても、臨床的に問題になる解離は、石段の凹みを踏んだ“深部感覚”、マドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ口腔感覚といったものではない。引き金になるのは、性的被害を受けた現場に似ている場所や、戦場を思わせる火災である。さらに、現れる状態は誘発因子との関連が深く、「再体験」といわれる。また、同じく例外的状態といっても、侵入される苦痛の程度が格段に違う。それに、自己意識が消失したり、合目的的ではあるが自動運動に置換されたり、私が私であるという基本的条件が震撼させられる点もちがう。意識内容の一時的支配といっても程度の差は著しい。過去との記憶の関連があるといっても、病的解離においては不動静止画像が多く、時間が停止する。運動は混乱の極みに達し、しばしばパニックを起こす。「心の間歇」では動きがあり、感覚的に楽しささえある(精神医学的には「自我親和的」といってよかろう)。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)