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2017年10月16日月曜日

荷風と安吾への同一化

まず、ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「同一化 Identifications」の項より。

いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似 analogies ではなく相同 homologies を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、双数構造 structure duelle のあるところならどこででもわたしを捕捉するのだ。さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気晴らしによって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人の内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうからだ。今や、この不幸の能動的主辞 agent actif はわたしである。わたしには自分が犠牲者であって同時に死刑執行人でもあると感じられる。

このバルトの「同一化」の項は、おそらくフロイトの次の記述を参照している筈である。

自我が同一化のさいに⋯⋯この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。(⋯⋯)そして、同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

フロイトは同一化するから同情する、と言っている。これは同一化するから愛する、と言い換えることもできる。人は、愛するから同一化するのはなく、同一化するから愛するのである。

ーー《フロイトが「一の徴 einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

われわれは、…次のように要約することができよう。第一 に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどっ て、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ーーフロイトにとって肝腎なのは「部分的な同一化 partielle Identifizieruitg 」である。

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わたくしは中年過ぎから(真に)愛するようになった(日本の)作家に永井荷風と坂口安吾がある。荷風は三十歳前後、安吾はつい最近(三年ほど前)である。

「好き」であるなら前からそうだったかもしれない。今言っているのは、ロラン・バルトのいう意味での「愛する」である。

ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ーー《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、オートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》( jacques-alain miller 2011,L'être et l'un

※参照:プンクトゥム=テュケー

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以下、わたくしに強い同一化が起こった永井荷風と坂口安吾の文を掲げる(安吾は荷風を嫌っているが、それはどうでもよいことである)。


◆荷風『断膓亭日記』

大正七戊午年 (荷風歳四十)

八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。
昭和十二年 (荷風歳五十九)

三月十八日。くもりにて風寒し。土州橋に往き木場より石場を歩み銀座に飯す。家に帰るに郁太郎より手紙にて、大久保の母上重病の由報ず。母上方には威三郎の家族同居なるを以て見舞にゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さざる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず、大正七年の暮余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既に夙く覚悟せしことなり。余は余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日と思ひなせしなり。郁太郎方への二十年むかしの事を書送りてもせんなきことなれば返書も出さず。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井晴次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死のほども定かならず。


◆坂口安吾「二十七歳」(1947年初出、安吾41歳)

英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。 

然し、決断がつかないうちに、手紙がきた。本のことにはふれてをらず、たゞ遊びに来てくれるやうにといふ文面であつたが、私達が突然親しくなるには家庭の事情もあり、新潟鉄工所の社長であつたSといふ家が矢田家と親戚であり、S家と私の新潟の生家は同じ町内で、親たちも親しく往来してをり、私も子供の頃は屡々遊びに行つたものだつた。私の母が矢田さんを親愛したのも、そのつながりがあるせゐであり、矢田さんの母が私を愛してくれたのも、第一には、そのせゐだつた。私は遊びに行つた始めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のやうな食卓で、酒を飲まされて寛いでゐた。 

その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まつたく、一睡もできなかつた。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のやうに映り、私の頭は割れ裂けさうで、そして夜明けが割れ裂けさうであつた。 

この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかつたが、私にとつてはすでに得恋の歓喜であつた)は、私の始めての経験だから、これは私の初恋であつたに相違ない。然し、この得恋の苦しみ、つまり恋を得たゝめに幾度かゞ眠り得なかつた苦しみは、その後も、別の女の幾人かに、経験し、先ほどの二人の女のいづれにも、その肉体を始めて得た日、そして幾夜か、睡り得ぬ狂気の夜々があつた。得恋は失恋と同じ苦痛と不安と狂気にみちてゐる。失恋と同じ嫉妬にすら満ちてゐる。すると、その翌日は手紙が来た。私はその嬉しさに、再び、ねむることができなかつた。 

そのころ「桜」といふ雑誌がでることになつた。大島といふインチキ千万な男がもくろんだ仕事で、井上友一郎、菱山修三、田村泰次郎、死んだ河田誠一、真杉静枝などが同人で、矢田津世子も加はり、矢田津世子から、私に加入をすゝめてきた。私は非常に不快で、加入するのが厭だつたが、矢田津世子に、あなたはなぜこんな不純な雑誌に加入したのですか、ときくと、あなたと会ふことができるから、と言ふ。私は夢の如くに、幸福だつた。私は二ツ返事で加入した。 

私たちは屡々会つた。三日に一度は手紙がつき、私も書いた。会つてゐるときだけが幸福だつた。顔を見てゐるだけで、みちたりてゐた。別れると、別れた瞬間から苦痛であつた。「桜」はインチキな雑誌であつたが、井上、田村、河田はいづれも善意にみちた人達で、(菱山は私がたのんで加入してもらつたのだ)私は特に河田には気質的にひどく親愛を感じてゐたが、彼は肺病で、才能の開花のきざしを見せたゞけで夭折したのは残念だつた。彼はすぐれた詩人であつた。 

インチキな雑誌であつたが、時事新報が大いに後援してくれたのは、編輯者の寅さんの好意と、これから述べる次の理由によるせゐだと思はれる。 

ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。 

私がウヰンザアで矢田津世子と始めて会つた日、矢田津世子の同伴した男といふのが、即ち、時事の最高幹部なるWであつた。加藤英倫が私に矢田津世子を紹介し、そのまゝ別れて私が自席で友人達と話してゐると、矢田津世子がきて、時事のW氏に紹介したいから、W氏は一目であなたが好きになり、あの席からあなたを眺めて、すばらしい青年だと激賞してゐられるのです、と言つた。そこで私はWの席へ行き、話を交したのであつた。

「桜」の結成の記念写真が時事に大きく掲載された。私は特に代表の意味で、新しさだか、新しいモラルだか、文学だか、とにかく新しいといふことの何かに就て、三回だかのエッセイを書かされてゐた。それは寅さんの「桜」に対する好意であり、寅さんは又、私に甚だ好意をよせてくれたのだが(寅さんの本名を今思ひだした。彼は後日、作家となつた笹本寅である)私は然し寅さんの一言に眼前一時に暗闇となり、私が時事に書かされたことも実はWの指金であり好意であるやうな邪推が、――私は邪推した。せずにゐられなかつた。Wの好意を受けたことの不潔さのために、わが身を憎み、咒つた。

寅さんの話は思ひ当ることのみ。矢田津世子は日曜毎に所用があり、「桜」の会はそのため日曜をさける例であり、私も亦、日曜には彼女を訪ねても不在であることを告げられてゐたのである。 

如何なる力がともかく私を支へ得て、私はわが家へ帰り得たのか、私は全く、病人であつた。

ーー《時事の最高幹部なるW》とあるのは、当時「時事新報」の社会部長だった和田日出吉氏らしい。Wikiの木暮実千代の項ーー後年の和田氏の妻、《1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚》ーーには次のような記述がある。

和田日出吉:時事新報入社後、中外商業新報の社会部長兼論説委員になる。二・二六事件の時首相官邸に乗り込み栗原安秀中尉と面会し、中央公論1936年8月号に手記を発表。その約2年後新聞記者をやめて満州に渡り、実千代と結婚し帰国する。

⋯⋯⋯⋯

同一化が起っている場合に最も注意すべきことは次のことである。

スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

分かっていても難しい、ということは言える。

真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (ラカン, S17, 14 Janvier 1970)

このラカン派的観点をとるなら、わたくしの場合、荷風や安吾の弱さを探さなくてはならない、ということになる。あるいはロラン・バルトの弱さを。