この最初の抑圧つまり原抑圧が生じる契機について、フロイトは大変面白いことを言っているんです。つまり、外力だけでは原抑圧は起こらないと。(⋯⋯)
これいまだに謎です。この謎に答えられる人がいるのか疑問です。いずれにしても、フロイトの姿勢は「わからないことはわからないままに記述しておく」というもので、その答えは後になって判るだろうという考え方なんです。直感的に「引力のようなものが働いている」と考るところにフロイトの天才があると思います。(「第42回 藤田博史氏、新倉カウンセラー対談 <第2回>」)
藤田氏が言うように、フロイト自身は、原抑圧について最後まではっきりとは概念化できていない。ラカンも同じくである。最後まで「引力」をめぐって彷徨っているのである。
・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。
・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。
・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。
・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。
・臍とは聖痕である。l'ombilic est un stigmate
・臍とは身体の結び目 nœud corporelである。この結び目…注目すべき期間ーー九ヶ月のあいだーー生の伝達に奉仕し、その後(永遠に)閉じられる。
これが結び目と空洞とのあいだのアナロジー analogie entre ce nœud et l'orifice である。こうして洞は仕上げられる。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
ーーフロイトの死の枕元にあったとされる草稿『精神分析概説』においては、《引力と斥力 Anziehung und Abstossung 》とは、エロスとタナトスである(参照:エロスとタナトスをめぐる基本文献)
上に引用したように、ラカンはこの「引力」に相当するものを穴 trou、《穴ウマ troumatisme =トラウマ》(S21、19 Février 1974)とも呼んだ。トラウマとは言語で表象不能の現実界のことである。
上に引用したように、ラカンはこの「引力」に相当するものを穴 trou、《穴ウマ troumatisme =トラウマ》(S21、19 Février 1974)とも呼んだ。トラウマとは言語で表象不能の現実界のことである。
現実界は、同化不能 inassimilable(表象不能)の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964 )
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
最近のジャック=アラン・ミレールが「人はみなトラウマ化されている」というとき、「人にはみな原抑圧がある」という風に捉えうる(参照)。
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この原抑圧をめぐって、精神医学研究者は、ほとんど関知しなくなっている、という指摘がかつてあった。フロイトが 「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」 と呼んだもの、後期ラカン概念のサントーム(原症状)であるにもかかわらず(参照:サントームと固着)
ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHEの “DOES THE WOMAN EXIST? ”(1999)ーー
ジジェクがかつて《女性のセクシャリティにおけるフロイト・ラカン理論を取り巻く混乱状態への奇跡的な応答》であり必読の書だと書評した(参照)ーーには、「忘れられたフロイト」という章があり、フロイトの「原抑圧」概念忘却の惨状についてこう記されている。
このように当時はほとんど誰もが触れないままにやりすごそうとした概念が原抑圧であり、現在ならおそらくいっそうそうだろう。
とはいえ先ずなによりも「引力」でよいのである。そして「引力」とはアレに起源があるに決まっている。 これはだれもが知っているではないか?
あるいはプラトン=ティマイオスのコーラ(chora)χώρα
藤田氏は当然ご存じでありながら、なんらかの理由で秘匿サレタノデアロウ、彼がこの引力という謎の起源を知らないわけがない・・・
あの「おそそ」--ハイデガーのそまみち(杣径 Holzwege)とは老子の「玄牝之門」を彼が独語翻訳した直後の概念であるーーが、原抑圧の「引力」の起源であるとは、男なら誰もが知っていることである (たぶん藤田氏は学者風に厳密さを期したかっただけであろう)。
引力とは、あの黒い穴、ブラックホールに起源があるに決まっている。
そもそもラカンの性別化の図のS(Ⱥ)ーー穴Ⱥのシニフィアン・原抑圧のシニフィアン・サントーム(原症状)のシニフィアンーーとは引力のシニフィアンである。
《女がサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)》とは、 「斜線を引かれた女 Lⱥ femme」 はS(Ⱥ)であるということであり、原抑圧のシニフィアンであるということである(やや異なるが、いまは厳密さを期さない)。
原抑圧のシニフィアン、すなわち欲動の固着のシニフィアンである。
こうして、《原抑圧とは、先ずなによ原固着である、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。》(ポール・バーハウ1999,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)なのである、これは比較的はやい段階で言われた決定的な見解である。
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 https://viedelacan.wordpress.com/
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この原抑圧をめぐって、精神医学研究者は、ほとんど関知しなくなっている、という指摘がかつてあった。フロイトが 「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」 と呼んだもの、後期ラカン概念のサントーム(原症状)であるにもかかわらず(参照:サントームと固着)
ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHEの “DOES THE WOMAN EXIST? ”(1999)ーー
ジジェクがかつて《女性のセクシャリティにおけるフロイト・ラカン理論を取り巻く混乱状態への奇跡的な応答》であり必読の書だと書評した(参照)ーーには、「忘れられたフロイト」という章があり、フロイトの「原抑圧」概念忘却の惨状についてこう記されている。
⋯⋯⋯証拠として、Grinsteinを見るだけで十分である。Grinstein、すなわちインターネット出現前の主要精神分析参考文献一覧である。96,000項目の内にわずか4項目しか、「原抑圧」への参照がない…この驚くべき過少さを説明するのは、とても簡単である。原抑圧概念は、ポストフロイト時代の理論にはまったく合致しないのである。彼らが参照しているのは、1910年前後以前のフロイトに過ぎない。(ポール・バーハウ、1999)
このように当時はほとんど誰もが触れないままにやりすごそうとした概念が原抑圧であり、現在ならおそらくいっそうそうだろう。
とはいえ先ずなによりも「引力」でよいのである。そして「引力」とはアレに起源があるに決まっている。 これはだれもが知っているではないか?
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝之門」)
あるいはプラトン=ティマイオスのコーラ(chora)χώρα
コーラ chola は「母」である(プラトン[『ティマイオス』)
藤田氏は当然ご存じでありながら、なんらかの理由で秘匿サレタノデアロウ、彼がこの引力という謎の起源を知らないわけがない・・・
あの「おそそ」--ハイデガーのそまみち(杣径 Holzwege)とは老子の「玄牝之門」を彼が独語翻訳した直後の概念であるーーが、原抑圧の「引力」の起源であるとは、男なら誰もが知っていることである (たぶん藤田氏は学者風に厳密さを期したかっただけであろう)。
引力とは、あの黒い穴、ブラックホールに起源があるに決まっている。
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
そもそもラカンの性別化の図のS(Ⱥ)ーー穴Ⱥのシニフィアン・原抑圧のシニフィアン・サントーム(原症状)のシニフィアンーーとは引力のシニフィアンである。
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?)
《女がサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)》とは、 「斜線を引かれた女 Lⱥ femme」 はS(Ⱥ)であるということであり、原抑圧のシニフィアンであるということである(やや異なるが、いまは厳密さを期さない)。
原抑圧のシニフィアン、すなわち欲動の固着のシニフィアンである。
・リビドーは、固着Fixierungによって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残すzurückgelassenのである。
・より初期の段階のある部分傾向の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着、欲動の固着と呼ばれるものである。daß ein solches Verbleiben einer Partialstrebung auf einer früheren Stufe eine Fixierung (des Triebes nämlich) heißen soll.(フロイト 『精神分析入門』第22章 1916-1917)
こうして、《原抑圧とは、先ずなによ原固着である、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。》(ポール・バーハウ1999,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)なのである、これは比較的はやい段階で言われた決定的な見解である。
とはいえフロイトは既に言っているのである、ネット上には独原文がみつからなくて残念だが、『夢判断』以前に記されたフリース書簡で。
このあたりのことについては半年ほどまえ、「「なんでもおまんこ」という悟り」にて記したが、あれは冗談ではないのである。賢明なる諸氏は、ハヤク悟ラナクテハナラナイ、これが「我々の存在の核」なのだから。
本源的に抑圧されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。
It is to be suspected that what is essentially repressed is always what is feminine (Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
このあたりのことについては半年ほどまえ、「「なんでもおまんこ」という悟り」にて記したが、あれは冗談ではないのである。賢明なる諸氏は、ハヤク悟ラナクテハナラナイ、これが「我々の存在の核」なのだから。
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※付記
抑圧という訳語には注意しなくてはならない。本来、圧するという意味はないのである。訳語「抑圧」の不幸はもはや修正できないだろうが。
フロイトは、抑圧 refoulement は禁圧 répression に由来するとは言っていない Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression (ラカン、テレヴィジョン、1973年、向井雅明訳)
「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)