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2018年1月22日月曜日

「教養ある孤独な女」の時代

かなり以前に訳して投稿したものだけど、この「教養ある孤独な女」はまだまったく古くなっていないので再掲しておくよ。

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ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である!

Pour qui est encombré du phallus : « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
女はすべての男にとってサントーム sinthome である。男は女にとって…サントームよりさらに悪い…男は女にとって、墓場(荒廃場 ravage)だ。

une femme est un sinthome pour tout homme…l'homme est pour une femme …affliction pire qu'un sinthome… un ravage(ラカン、S23, 17 Février 1976)

ーー ここでは症状とサントームとの相違についての厳密な意味での差異には触れない。ラカン自身、1975年前後以降、症状というとき、実際はサントームのことだったりする。

ここでは(これもある時期の)ミレールのサントームの定義のみを掲げておく。

サントームは、症状と幻想の混淆である。

Le sinthome, un mixte entre symptôme et fantasme (ジャック=アラン・ミレール、Revue de la Cause Freudienne n°39, mai 1998)


今、上に記した前提で次の文を読もう。

◆ポール・バーハウ1998、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、by Paul Verhaegheより。

完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な言明がある、「男の症状は彼の女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage を意味する」と。この言明は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。

誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場(荒廃場)である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。

偶然の一致ではないのだ、解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先達たちとは違って、この墓場に服従することを拒絶するのだから。

現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は墓場である、と。このようにして、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ないのだ。

関係は逆転して、多くの男にとって、彼の妻は墓場でありうる、とあるが、これはたとえば日本においてのタガメ女たちに牛耳られるカエル男たちであろう・・・おそらくあまりにもスグレタ表現なので、放送禁止用語になったそうだが。

ひところ一部で流通していた「タガメ女」という語は放送禁止用語になったーーと『日本の男を喰いつくす「タガメ女」の正体』と『日本の社会を埋め尽くすカエル男の末路』の著者深尾葉子さんが自ら書かれている(2014)。

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※付記

愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)
男は女になんか興味ないよ、母がなかったら、な。

un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. (ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)
母に対してしなくちゃならない最も肝心なことは、切り離すことだよ…近親相姦だけは絶対にしないようにな

Quant à la mère … le mieux qu'on ait à en faire, c'est de se le couper … pour être sûr de ne pas commettre l'inceste.(ラカン、S24, 15 mars 1977).
男は女と寝てみることだよ、そうしたら分かる。それで充分だね。逆も一緒だ。

il suffirait qu'un homme couche avec une femme pour qu'il la connaisse voire inversement. ラカン、S24, 16 novembre 1976)

ーーいやあスイマセン、だんだんイイカゲンな訳になってしまいました・・・由緒正しくは次の二つの文です。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房 Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutter の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)
……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年、既存訳を一部変更)

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《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供との関係に求められるべきである。》( Paul Verhaeghe,1998)


【男の子と女の子の愛の対象】
男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。これは次の奇妙な事実を説明してくれる。つまり結婚後しばらくすれば、多くの男たちは母に対したのと同じように妻に対するということを。

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。これは同じように奇妙な次の事実を説明してくれる。多くの女たちは妻になり子供をもったら、女たち自身の母親のように振舞うということを。


【変換対象の相違による帰結】
この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面に囚われるのと対照的である。少女における、対象への或いはファリックな面への興味の欠如と、関係性への少女の強調は、後年男との関係を求める必要がない結果を生むかもしれない。結局のところ、彼女の最初の対象は同じジェンダーであり、思春期の最初の愛はほとんどいつも他の少女に向けられることになる。

【男性のペニス羨望】
この解釈の光のもとでは、フロイトが女性にとって重要だと信じたペニス羨望――つまり自身のファルスを持ちたいと推定された欲望――は、フロイト自身の男性的、あるいはその結果としての男根主義的な想像力の産物によるところが多いように見える。今までの経験で私が出会った有名なペニス羨望は男性のなかにしかない。その拠って来たるところは、己れのペニスの不十分さへのたえまない怖れと他の男のペニスに比してのたえまない想像的比較による。男の男根主義に対応する女性の主眼は、関係性にある。


【法への態度の相違】
それ以外の帰結は、女性たちの法に対する根本的に異なった態度である。法、すなわち、父の最初の権威に対する態度。少年たちは父をライヴァルとして怖れる理由がそこかしこにある。しかしこれは少女にはほとんどあてはまらない。反対に、父は少女へ愛を与える存在でもあり、少女が愛する存在でもある。それゆえ女たちは法と権威にたいして男たちに比べ、リラックスした関係をもつようになるのは当然であろう。これは、ポストフロイト世代の精神分析医に次のような疑問を生ませた。すなわち女にはほんとうに超自我があるのだろうか、と。それは中世の理論家たちが女たちはほんとうのところ魂をもっているのかどうかを疑わせたのと同じような問いである。

【男たちの徒党を組む傾向】
もっと実際の生活上の相違としては、家父長制の歴史のなか、男たちは階級の影響をひどく受けやすく、中央集権的組織を作りたがるということがある。教会や軍隊は男たちの集団だ。反対に、女たちは階級を好む性向はわずかしかなく、横へのつながりを望み集団を作ることは少ない。⋯⋯⋯⋯(ポール・バーハウ1998、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、by Paul Verhaeghe)