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2018年1月14日日曜日

女性の享楽とトラウマ神経症

女性の享楽と現勢神経症」にて、ラカンの「女性の享楽」とフロイトの「現勢神経症」がとても近しい概念であることを示した。



ここでは「女性の享楽」と「外傷神経症」とのあいだの関係を示す。

ーー何度か繰り返しているが、ラカンの「女性」というシニフィアンは、生物学女性とは「基本的には」関係がない。むしろ「異物としての身体」という意味である(参照:「ひとりの女とは何か?」)

そして享楽の最も基礎的な意味は、「苦痛のなかの快 Schmerzlust」(原マゾヒズム)である(参照)。

不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel(ラカン、S23, 10 Février 1976)
享楽と満足はとても異なった概念です。前者の享楽は身体を想定しています。後者の満足は、この身体をもった主体の現象です。一般的に、享楽は満足しません。それは苦痛と関係さえします。不調和・不満足なのです。 (コレット・ソレール2013, Interview de Colette Soler)

フロイト用語でいえば、享楽とはなによりも先ず、快原理の彼岸にある、不快でありながら反復強迫してしまう「不気味な」症状・病理にかかわる。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919年)

…………

さて以下が本題である。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動(身体的なもの)、他方はプシュケー(心的なもの)である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。…

享楽の現実界は症状の地階あるいは根であり、象徴界は上部構造である。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)

現実界の症状とは、ラカン的にはファルス享楽の彼岸にある「他の享楽」(=「身体の享楽」「女性の享楽」)にかかわり、象徴界の症状とは、ファルス享楽にかかわる。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーいま通常は「大他者の享楽」と訳される"jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

そして上の文は、ファルス享楽は、言語内の享楽・象徴界内の享楽、(ファルス秩序の彼岸にある)他の享楽は、現実界にかかわる身体の享楽であり、女性の享楽とも呼ばれる。

ファルス享楽/女性の享楽(他の享楽・身体の享楽)は、フロイト用語では、精神神経症/現勢神経症にとても近似していることは「女性の享楽と現勢神経症」にて見た通り。

したがって(厳密さを期さずに記せば)次のように図示できる。



ところで現実界とはトラウマにかかわる用語である。

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる。

…le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma (ラカン、S11、12 Février 1964 )
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

女性の享楽もトラウマにかかわる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011)

現勢神経症はどうか?

フロイトは、外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenのなかには現勢神経症 Aktualneuroseの性質がある、としている。

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenと いう名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurose の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

現勢神経症 Aktualneuroseとは「現実神経症」とも訳される語である。

日本におけるトラウマ研究の、おそらく第一人者であろう中井久夫は、現実神経症と外傷神経症は区別しがたい、という含意をもつことを書いている。

現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷原因となった事件の重大性と症状の重大性とによって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか。そこに真の飛躍があるのだろうか。

目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないということがあるのだろう。心的外傷も身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

実際のところ、ラカン派内のすぐれたトラウマ臨床家であるポール・バーハウによれば、現勢神経症とPTSD (心的外傷後ストレス障害)とは類似点がとても多いのである。

「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である。(ポール・バーハウ2008、Paul Verhaeghe,Lecture in Dublin, A combination that has to fail: new patients, old therapists)
人が、現勢神経症についてのフロイトの叙述と DSM–IV における PTSD (心的外傷後ストレス障害)の叙述を比較するとき、すぐさま数多くの類似性が現れる。まず、現勢神経症と PTSD の両方とって、中心的な臨床現象は不安である。この理由で、DSM–IVにおいて、PTSD は不安障害の見出しのもとに分類されている。この不安の特性はまったく典型的なものだ。すなわち、この不安の精神的加工がない。PTSD の DSM–IV 評価基準に叙述されている恐怖・無力・戦慄は、フロイトにおける不安神経症とパニックアタックの不安とそっくりである。(バーハウ他、2005、ACTUAL NEUROSIS AND PTSD(Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule)

中井久夫に戻れば、上に引用した同じエッセイには、戦争神経症について次の叙述がある。

外傷神経症の歴史においては、フロイトとその弟子とカーディナーとの絡み合いが重要である。

1918年夏といえば、第一次大戦最後の年であるが、ドイツ=オーストリア軍の戦争神経症患者のあまりの多さに、軍の指導的将軍たちがブタペストで行われた精神分析学会に出席するという異例な事態が起こった。フロイトは戦争神経症患者を一人も診ていないが、その弟子たちは軍医として前線に出ていた。この学会は精神分析家たちによる戦争神経症報告の会となった。

この報告書は遅れて刊行されるが、それにフロイトは序文を書いて Reizschutz(刺激防護壁とでも訳すべきか)概念をつくり出して、人間はある程度以上の刺激が心理に侵入するのを防いでいるが、この壁を突破した刺激が入り込んだ場合を外傷神経症とした。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

統合失調症(分裂病)と外傷(トラウマ)との関係の叙述もある。

ーー「女性の享楽と身体の出来事」において示したように、現代ラカン派では、女性の享楽は、分裂病的享楽、自閉症的享楽とも呼ばれることを想起して以下の文を読もう。

統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。そもそもPTSD概念はヴェトナム復員兵症候群の発見から始まり、カーディナーの研究をもとにして作られ、そして統合失調症と診断されていた多くの復員兵が20年以上たってからPTSDと再診断された。後追い的にレイプ後症候群との同一性がとりあげられたにすぎない。われわれは長期間虐待一般の受傷者に対する治療についてはなお手さぐりの状態である。複雑性PTSDの概念が保留になっているのは現状を端的に示す。いちおう2012年に予定されているDSM-Ⅴのためのアジェンダでも、PTSDについての論述は短く、主に文化的相違に触れているにすぎない。

しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。

たとえばいじめにおける出口のない孤立無援感は子どもにとって生死にかかわると観念されても不思議ではない。大人でも、たとえば日本軍の兵営生活のいじめはどうだったであろうか。

一般に、外傷性障害が慢性化すると心気状態あるいは抑うつ状態となることが多い。融通の効かない、あるいは、〝偏屈な“人とみられることもある。

しかし、カーディナーの慢性症例でも、よく読むと、夢内容には年単位のゆるやかさではあるが、象徴化と置換という健康化に向かうメカニズムが働いている。改善はまったくないわけではないのである。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

これを読むとーーここで個人的なことを敢えて記すがーー、わたくしの母は、わたくしが六歳前後のとき分裂病と診断されたが、いま振り返るとあきらかに戦争神経症の症状があり誤診だろうと考えているにせよ、1960年代のことであり当時の診断への文句は言い難くなる。

いずれにせよ、ラカンの原症状(女性の享楽、すなわち自閉症的享楽あるいは分裂病的享楽)と類似した症状(たとえばPTSD)に悩まされている場合、治癒のために肝腎なのは象徴化である。

ラカンが「シニフィアンの発明」と言っているのはそのことである。

何はともあれ私が言っていることは、シニフィアンの発明は、記憶とは異なった何ものかであることだ。子供はシニフィアンを発明しない。受け取るだけである。…なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente ce signifiant … Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? Nos signifiants sont toujours reçus. Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)

⋯⋯⋯⋯

※付記

なお次のようなことも言われているのを示しておこう。

多くの調査研究が示しているのは、トラウマ経験は心的外傷後ストレス障害の展開にとって必要不可欠だが十分条件ではないことである。(Paris.J, 2000, Predispositions, personality traits, and posttraumatic stress disorder. Harvard Review of Psychiatry)
予想されるように、ホロコースト生存者の子どもは、他の両親の子どもよりも、PTSD になる傾向が高い。しかしながら、奇妙なことに、これらの子どもたちのほうが親たちよりも心的外傷後ストレス障害をよりいっそう経験することが示されている(Yehuda, Schmeidler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998)。

これらの親たち--犠牲者自身--が機能している可能性があるのだろうか、その子どもたちにトラウマ経験を飼い馴らす必要不可欠なツールを提供し得ないようなものとして? この問いには容易には答え難い。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD The Impact of the Other Paul Verhaeghe, and Stijn Vanheule、2005)

ーー《我々の見解では、これらの患者は底に横たわる現勢神経症に基づいて、PTSDを患う。すなわち身体的な不安等価物をともなった不安神経症を基盤にして。》(同上)

とはいえ中井久夫の定義では「外傷性記憶」のレミニサンスはかならずしも苦痛だけではないのである。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

上に引用したようにラカンは、 《私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって》と言っている。

プルーストの「見出された時」の表現を使えば、レミニサンス的な現実界の症状の回帰は、《あのような幸福の身ぶるい》を与えてくれる《きらりとひらめく一瞬の持続 、純粋状態にあるわずかな時間》でもあるのである。

とはいえ長引けばやはり人格が崩壊しかかる。わたくしは昨年末「樟のざわめき」症状におそわれかなり危なかった(参照:「樟がざわめく古い屋敷」)

無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)