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2018年1月12日金曜日

シニフィアンの発明

臨床のことはまったく知らないので、イイカゲンなことは言いたくないけど、敢えて記せば晩年のラカンは次のように言っているぐらいでね。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体 analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez. (ラカン “Conférences aux USA,” 1976)

ようするに原症状(原抑圧・原固着・欲動の根)は治癒不能なのだから、 分析を突き詰めるわけにはそもそもいかない。

だから一般的には次のように言われる。

エディプス・コンプレックス自体、症状である(あるいは「フロイトの夢」 « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD、ラカンS17)。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)


とはいえ症状との同一化とは何か?

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)

同一化しつつも距離をとることが肝腎だと言っている。

そして距離をとる方法のひとつとしてシニフィアンの発明ということが言われる。

何はともあれ私が言っていることは、シニフィアンの発明は、記憶とは異なった何ものかであることだ。子供はシニフィアンを発明しない。受け取るだけである。…なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente ce signifiant … Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? Nos signifiants sont toujours reçus. Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)

たとえば原症状としての身体の享楽(女性の享楽)に悩まされているとしよう。

ーー身体の享楽=女性の享楽であるのは、「ヨイコのための「享楽」」を見よ。

そして、「女性の享楽」とは、

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011ーー女性の享楽と身体の出来事

この身体の享楽・女性の享楽を飼い馴らさなければならない。それがシニフィアンの発明である。

シニフィアンとは倶利伽羅紋々でもいい。

刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。(⋯⋯)

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。 (Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis)

人は無意識的にこのシニフィアンの発明をしている場合があるのではないか。たとえばジャン・ジュネの「泥棒」、中上健次の「路地」。どちらも原症状に近いものから距離をおくためのシニフィアンとして捉えうる。

このシニフィアンの発明とは次のことでもある。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)

これは、イデオロギー的「父の名」を迂回しつつも、やはり「父の名」と似たような何らかの支え(単独 singularity 的な支え)が必要であるということであり、その支えの一つがサントームと呼ばれる。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2009)

あるいは、

最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF

これ以外にもラカン最後の臨床で「脚立 escabeau」ということが言われている。こっちのほうは非意味なシニフィアンとしてのサントームではなく、意味のあるシニフィアンにかかわる(参照)。

だがいずれも原症状という《享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置すること》(ポール・バーハウ、2009)であるのには変わりはない。

原症状に近い、トラウマ的で不気味なーー最も親密でありかつ外部にあるもの(外密)--その反復強迫に悩まされているのなら、なんらかのシニフィアンを発明してみることだという風にわたくしは理解しているね。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)
(欲動の)蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute。(ラカン、S10、14 Novembre l962)