初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち大他者の大他者は存在しない、と。
父を信じることは、典型的な神経症の症状である。それはボロメオ構造の四番目の輪である。ラカンはそこから離れた。そして三つの輪を一緒にするために機能する新しいシニフィアンを探し求め始めた。この文脈において、重要なのは父とその機能を区別することである。すなわち、母と子の分離にかかわる機能、子どもが母なる大他者の享楽から解放されることを伴う機能である。もしこの分離が、二番目の大他者である父への疎外に終わってしまったなら、それは構造的には、以前の疎外(母との同一化)と何の変わりもない。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002)
このポール・バーハウ他の文に《父を信じることは、典型的な神経症の症状である》とあるが、これをより一般的に言うなら、神経症の特徴は大他者を信じること、となる。神経症者は大他者と同一化する。それは想像的同一化(イメージとしての大他者との同一化)の場合もあれば、象徴的同一化の場合もある。後者は主に「単一の特徴」(一の徴)との同一化である。
同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴 einzigen Zug」)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921ーー「一の徴」日記③)
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
ラカンによるフロイトの「一の徴」( einzigen Zug、 trait unaire)概念の援用は、フロイトの考え方を拡張したもので必ずしも同じ意味合いではない。
フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの Le trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)
ジジェクの言い方はけっして大袈裟ではない。クッションの綴じ目 point de capiton 、対象a、主人のシニフィアンS1、Y'a d'l'Un、最晩年の文字 lettre 理論等々、すべて「一の徴」にかかわる。
(もっともここでのわたくしの記述は Y'a d'l'Un、lettre との現実界的同一化とでもいうべきものの議論は敢えて除外している。というのはラカン派内でもいまだその捉え方が曖昧なままだから)。
さて元の話に戻れば、ようするに〈大他者l'Autre〉とは人物ではなくてもよい。たとえば「正義」「寛容」という一つのシニフィアン(単一の徴)に同一化する人々がある。これも大他者との同一化である。
また国民とは基本的にはおそらく想像的同一化集団だろう。すなわち「米人」「仏人」「日本人」等々のイメージに同一化した集団だ。
この神経症者たちをバカにする人々がある。たとえばイデオロギー的な同一化集団を集団神経症と嘲笑する。たしかに集団ヒステリー的な集団は傍目からみた場合、滑稽である。
この現象はいたるところにある。たとえばシャルリー・エブド襲撃事件で、「私はシャルリーだ」と名乗って一致団結した集団は、 感情に流されて理性を失った集団ヒステリーとしてよいだろう。ツイッターである種の学者共同体、あるいは研究者クラスタの連中が互いに湿った瞳を交わし合い頷き合っている。あれも小粒の集団神経症の一種である。
つまりはイデオロギー的父の名は取り外したほうがいいが、なんらかの「父の機能」に類似したものが必要である、と。
梯子を外してしまえば、裸の身体の享楽のなすがままになってしまう。その奔馬を飼い馴らすために鞍を置かねばならない。これが escabeau(脚立)のおそらく最も基本的な意味合いだろう。
…………
最後のラカン概念として21世紀前後から「サントーム」が語られることが多かったが、そのサントーム(原症状)ではなく、脚立が、2014年以降の主流ラカン派の議題となっている。
1975年にラカンが初めて使用した概念「脚立 escabeau」をめぐって、ジャック=アラン・ミレールは、2016年の大きな会議のために、2014年にこのようなプレゼンをしているのだがーーラカンが提示してから40年もかかっていることになるーー、臨床的専門性を除外して言ってしまえば、結局、人間には身体の享楽の「昇華」だことではないだろうか。
ーーまたラカン派ジャーゴンかい? とおそらくうんざりするする人が多いだろうが、昇華や父の機能などというよりはまだ「脚立」のほうがいいんじゃないか。
この図は、右の項を取っ払ってしまえば、左の項が現われる。それでは人は距離のない狂宴のなすがままになってしまう(その代表的なものは攻撃欲動)。そのオルギアを飼い馴らすために中間項の支えが必要だということを示そうとしている。
従来のラカン解釈では、脚立のポジションの意味合いもサントーム概念にはあった(そこで一部混乱が生まれている)。それを脚立概念を前面に押し出すことによって区別しようとする試みではないか、とも考えられる。
実はミレールは次のようにも言っており、わたくしには《「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beau》という表現に抵抗があり(?)、上に掲げることはしなかったのだが、ーー鼻を抓みながらーーやっぱり掲げておこう。
《症状とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, 》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
※参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」
さて元の話に戻れば、ようするに〈大他者l'Autre〉とは人物ではなくてもよい。たとえば「正義」「寛容」という一つのシニフィアン(単一の徴)に同一化する人々がある。これも大他者との同一化である。
また国民とは基本的にはおそらく想像的同一化集団だろう。すなわち「米人」「仏人」「日本人」等々のイメージに同一化した集団だ。
この神経症者たちをバカにする人々がある。たとえばイデオロギー的な同一化集団を集団神経症と嘲笑する。たしかに集団ヒステリー的な集団は傍目からみた場合、滑稽である。
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)
この現象はいたるところにある。たとえばシャルリー・エブド襲撃事件で、「私はシャルリーだ」と名乗って一致団結した集団は、 感情に流されて理性を失った集団ヒステリーとしてよいだろう。ツイッターである種の学者共同体、あるいは研究者クラスタの連中が互いに湿った瞳を交わし合い頷き合っている。あれも小粒の集団神経症の一種である。
ところで柄谷行人は『探求Ⅱ』で次のように記している。
《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(スピノザ『エチカ』)。
これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が、彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。(『探求Ⅱ』)
この論理でいくと、イデオロギー的集団神経症を嘲笑するいわゆる「反社会的な」人々も、なんらかの集団神経症集団なのではなかろうか。たとえば「芸術家集団」。
― ーシュルレアリスム。 私にとってそれは、 青春の絶頂のもっとも美しい夢を体現して いた。(デュシャン、 ブルトンを語る アンドレ ・ パリノー)
Les poisson, les nageurs, les bateau
Transforment l'eau.
L'eau est douce et ne bouge
Que pour ce qui touche
Le poisson avance
comme un doigt dans un gant,
やあ実に美しい詩だ・・・
なぜだかわたくしの頭のなかで次の文とセットになっている詩なのだが。
…………
ラカンは同一化の三種類の様相を、セミネール24で次のように提示している。
現代ラカン理論においては、われわれには何らかの同一化、あるいは穴埋めが必要である、ということが言われる。
たとえばフェティッシュも穴埋めの一種であり、それぞれのフェティッシュ趣味において小粒のフェティッシュ同一化集団が生まれる場合があるだろう・・・
ここで晩年のラカンがジョイスを語るなかで、案出した「脚立l’escabeau」概念を見てみよう。彼はこの概念を、l’S.K.beauとも記している。すなわち「美 beau」にかかわる概念である。
ある日、フロールの二階でサルトルがクノーにシュレルリアリズムの何が残っているのかと訊ねた。
《青春をもったことがあるという感じだ》
と彼は私たちにいった。私たちは彼の答えに打たれ、彼を羨んだ。(ボーヴォワール『女ざかり』下 P193 朝吹登水子・二宮フサ訳)
― ーシュルレアリスム。 私にとってそれは、 青春の絶頂のもっとも美しい夢を体現して いた。(デュシャン、 ブルトンを語る アンドレ ・ パリノー)
シュルレアリズム! よせやい! ブルトンのオカルト的な謹厳ぶり …アラゴンの思わせぶりなペテン …アルトーのアンチ-セクシャルな興奮 …バタイユひとりだけが、あの抑圧的ながらくた置場のなかで少しばかりの品位を保っている …とりわけサルトルと比べて …『嘔吐』… まさに打ってつけの言葉だよ …ジュネ… 要するに、性的に見れば何もない …惨憺たるもんだ…<ヌーヴォー・ロマン>? ご冗談を …ない、ない、何も、納得できる女なんてこれっぽっちもない …つまり、無だ… 一冊の本もない …エロティックな意味で、手ごたえのある条りさえひとつもない …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)
シュルレアリズム集団とは(構造的には)、イデオロギー的大他者への同一化による陳腐な集団神経症集団を嘲弄する別の集団神経症集団だったように一見は思える。もちろんボーヴォワールが書いているように、今から見ても限りない羨望をもたらす「青春」の集団だったには相違ない。
魚たちも 泳ぎ手たちも 船も
(左からアンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、ルネ・クルヴェル、ポール・エリュアール(1930年)) |
魚たちも 泳ぎ手たちも 船も
水のかたちを変える。
水はやさしくて 動かない
触れてくるもののためにしか。
魚は進む
手袋の中の指のように。
~
ーーポール・エリュアール『魚』安藤元雄訳
Les poisson, les nageurs, les bateau
Transforment l'eau.
L'eau est douce et ne bouge
Que pour ce qui touche
Le poisson avance
comme un doigt dans un gant,
やあ実に美しい詩だ・・・
なぜだかわたくしの頭のなかで次の文とセットになっている詩なのだが。
男根が子宮口に当り、さらにその輪郭に沿って奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細い柔らかい触手のようなものが伸びてきて搦まりついてくる場合が、稀にある。小さな気泡が次々に弾ぜるような感覚がつたわってくる(吉行淳之介『暗室』)
…………
ところで人は神経症的同一化の機制から免れ得るのだろうか。この機制に囚われているのは神経症者たちだけではないように思えるのだ。
ラカンは同一化の三種類の様相を、セミネール24で次のように提示している。
l'identification « paternelle »
l'identification « hystérique »
l'identification « à un trait »
(Lacan,S24,16 Novembre 1976)
現代ラカン理論においては、われわれには何らかの同一化、あるいは穴埋めが必要である、ということが言われる。
「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。
精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいはそれぞれに仕方で、「みな妄想的である」(Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant )に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.、私訳,PDF)
たとえばフェティッシュも穴埋めの一種であり、それぞれのフェティッシュ趣味において小粒のフェティッシュ同一化集団が生まれる場合があるだろう・・・
フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)…………
ここで晩年のラカンがジョイスを語るなかで、案出した「脚立l’escabeau」概念を見てみよう。彼はこの概念を、l’S.K.beauとも記している。すなわち「美 beau」にかかわる概念である。
les escabeaux de la réserve où chacun puise. (Lacan,AE.568,1975)
梯子 échelle は要らないが脚立escabeau は必要である、というのが現在の主流ラカン派の議論である。
つまりはイデオロギー的父の名は取り外したほうがいいが、なんらかの「父の機能」に類似したものが必要である、と。
去勢が意味するのは、「欲望の法」の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。
La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827, 1960年]
梯子を外してしまえば、裸の身体の享楽のなすがままになってしまう。その奔馬を飼い馴らすために鞍を置かねばならない。これが escabeau(脚立)のおそらく最も基本的な意味合いだろう。
…………
最後のラカン概念として21世紀前後から「サントーム」が語られることが多かったが、そのサントーム(原症状)ではなく、脚立が、2014年以降の主流ラカン派の議題となっている。
脚立 escabeau は梯子 échelle ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある。escabeau とは何か。私が言っているのは、精神分析の脚立であり、図書館で本を取るために使う脚立ではない。…
脚立は横断的概念である。それはフロイトの昇華 sublimation の生き生きとした翻訳であるが、ナルシシズムと相交わっている。…
脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントーム特有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。…
ジョイスは症状(サントーム)自体を…彼の芸術の「脚立」へと移行させた…モノの尊厳の脚立 l'escabeau à la dignité de la Chose に高めた。…(JACQUES-ALAIN MILLER, 4/15/2014, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)
1975年にラカンが初めて使用した概念「脚立 escabeau」をめぐって、ジャック=アラン・ミレールは、2016年の大きな会議のために、2014年にこのようなプレゼンをしているのだがーーラカンが提示してから40年もかかっていることになるーー、臨床的専門性を除外して言ってしまえば、結局、人間には身体の享楽の「昇華」だことではないだろうか。
ーーまたラカン派ジャーゴンかい? とおそらくうんざりするする人が多いだろうが、昇華や父の機能などというよりはまだ「脚立」のほうがいいんじゃないか。
少し前に次のような図を示した(参照:多神教的「父なるレリギオ」のために)。
この図は、右の項を取っ払ってしまえば、左の項が現われる。それでは人は距離のない狂宴のなすがままになってしまう(その代表的なものは攻撃欲動)。そのオルギアを飼い馴らすために中間項の支えが必要だということを示そうとしている。
そこで引用したラカンの最も核心的な文をひとつだけ再掲すれば、次の通り。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,S23, 13 Avril 1976)
脚立というのは、たいしたことを示そうとしているわけではないのかもしれない、実際、「脚立 escabeau」と言ったのちに、ラカンは上にようにも言っているわけで、晩年のラカンの模索概念のひとつとして捉えたほうがいいのかもしれない。
厳密さを期さずに図示すれば(サントームという語の使用法は何種類もあるので、そのうちのひとつ、身体の出来事・原固着・享楽の原子という意味でのみでここでは使用する)、次の通り。
結局、身体の狂宴(オルギア)的享楽を飼い馴らすために、人は脚立が必要である(イデオロギー的梯子は遠慮願っても)、--という理解をわたくしは(今のところ)している。
上に掲げたミレールの文を再掲すれば、
上に掲げたミレールの文を再掲すれば、
脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントーム特有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。(ミレール、2014)
従来のラカン解釈では、脚立のポジションの意味合いもサントーム概念にはあった(そこで一部混乱が生まれている)。それを脚立概念を前面に押し出すことによって区別しようとする試みではないか、とも考えられる。
実はミレールは次のようにも言っており、わたくしには《「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beau》という表現に抵抗があり(?)、上に掲げることはしなかったのだが、ーー鼻を抓みながらーーやっぱり掲げておこう。
脚立を促進 fomente するのものは何か。それはパロール享楽 jouissance de la parole の見地からの言存在 parlêtre である。パロール享楽は「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beauをもたらす。
他方、サントーム sinthome は、言存在のサントームとして、言存在の身体に固着 tient au corps du parlêtre している。症状(サントーム)は、パロールがくり抜いた徴 marque que creuse la parole から起こる。…それは身体のなかの出来事 événement dans le corpsである。(JACQUES-ALAIN MILLER, 4/15/2014, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)
《症状とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, 》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
上の「症状」とはサントームの意味だが、ようするに原症状、フロイトの欲動の固着(リビドーの原固着)のことである。