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2017年1月26日木曜日

超越的法/超越論的法

以下、資料。

法の古典的イメージがいかなる影響でくつがえされ、崩れさったのかを問いただしてみるとき、それが法律の相対性、可変性の発見によるものでないことは確かである。というのは、この可変性というものが、古典的なイメージのうちで十二分に認識され、理解されているからである。必然的に、その一部をなしていたのだ。真の理由は、別のところにある。カントの『実践理性批判』に、この上なく厳密なその表現がみいだしうると思う。カント自身、その方法の斬新さは、いまや法が〈善〉に依存するのではなく、逆に〈善〉が法に依存するのだという点にあるのだと口にしている。それが意味するところは、もはや法には、その権利の源流となる上位の原理を基礎にしてみずからを築く必要性もなければ、またその可能性もないということである。法は、それ自身として有効でなければならないし、みずからを基礎として築かねばならず、したがってそれ自身の形態をおいてはいかなる手段も持たないのだということを意味している。以来はじめて人は《法》を、それ以外の特性によってでもなく、また対象を指示することもなく語ることが可能となり、またそうせざるをえなくなったのである。

法の古典的イメージは、〈善〉の領域と〈最良〉の状況にしたがってしかるべく規定されていた複数の法律しか知らなかった。逆にカントが道徳的な「いわゆる」法というものに言及するとき、道徳的という言葉は、絶対的に限定されずにいるものの明確な規定のみを指し示している。すなわち、道徳的な法とは、《法》なるものを意味する。法を基礎づけうる高次の原理のいっさいを排除するものとしての、法の形態を意味しているのだ。そうした意味で、カントは法の古典的なイメージと縁を切った最初の人間のひとりであり、現代に特有のイメージをわれわれに提示している。『純粋理性批判』におけるカントのコペルニクス的革新は、知識の対象となるものを主体を中心として転回させてみた点に存していた。だが、〈法〉を中心として〈善〉を展開せしめる点に存する『実践理性批判』の革新は、おそらくはるかに重要だろう。おそらくそれは、世界における幾つかの重要な変化を表現していたのだ。またおそらくは、キリスト教的世界を越えてのユダヤ的信仰への回帰の、最後の帰結をも表現していたのだろう。たぶん、プラトン的世界を越えて、法の前ソクラテス的(エディプス的)概念への回帰を予告してさえいたのだろう。《法》を至上の基礎とすることで、カントが現代的思考にその主要な幅を装填させていたという事実が残される。その主要な幅とは、法の対象が、本質的に身を隠すものだということである(ドゥルーズ註:ラカン『カントとサド』参照)。

ーーードゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳、pp.104-106

…………

表題の「超越的法/超越論的法」とは、ラカン的には「大他者の大他者はある/大他者の大他者はない」ということ。それは上のドゥルーズ=カントが示している内容でもある。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa、PDF)
我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりもまずなによりも、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことである。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の次元を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の蜃気楼)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(S.23 Le sinthome,)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしのfake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。モノ自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。(S.17)(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

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◆ジャック=アラン・ミレール2013、JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,PDFより抜粋訳

【大他者の大他者】
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥ で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)


【五つの法(五つの大他者)】
なぜラカンは、その教えの出発点で、法への情熱をもったのか。そして《大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、言説等の)を我々に教え、この表明に到った。私はこれらの法の分類を試みよう。…

第一に、言語学の法 les lois linguistiques がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィアンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法もまたある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズムとして語った。

第二に、弁証法的法 la loi dialectique がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法が告げるのは、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ彼の存在を想定しうるということである。ラカンはこれを承認の弁証法的法と呼ぶ。

第三に、我々はラカンのなかに数学的法 les lois mathématiques を見出す(これはある時期とてもよく用いられたが、もはや我々のものではない)。例えばラカンがその最初の図式とともに、「盗まれた手紙la lettre volée」についてのセミネールにおいて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識的記憶にとってのモデルを提供した。

第四に、社会学的法 lois sociologiques がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用した同盟と親族の法である。

第五に、想定されたフロイトの法 la loi ou la supposée loi freudienne、エディプス Œdipe がある。最初のラカンはそれを法へと作り上げた。すなわち「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件のみにおいて、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる、と。…

さて、私は面倒を厭わず、法の5つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社会学的・フロイト的法である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐって教え始めたとき、この法の5つの領域は、彼にとって、象徴界 le symbolique と呼ばれるものを構成した。…


【象徴秩序】
なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとって法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも《法がある場にのみ科学はある il n'y a de science que là où il y a loi》という格言に駆り立てられていたかのようだ。

…しかしながら、はっきりさせておかねばならない。ラカンの教えにおいて、この法概念は、最初に駆り立てられていた後、消滅したことを。ラカンはそれを発明し導入した。それは彼の概念化にとっての基礎として現れた。象徴界・想像界・現実界のあいだの三幅対的分割の基本としてだ。だが彼はそれを保持し続けなかった。

注意しておかねばならない。この秩序の概念、法の5つの領域は混じり合わさられていることを。言い換えれば、秩序という視点からは、それらは、事実上、同じものとして現れる。数学的法、弁証法的法等であれなんであれ。…

法がある場には秩序がある。初期ラカンのシステムにおいて、唯一の秩序とは象徴界である。象徴界的秩序 l'ordre symbolique はーーもし人がこのように言うのを好むならーー想像界的無秩序 le désordre imaginaireと対立しうる。

象徴界において、各々のもの・各々の要素はその場のなかにある。正確に言えば、象徴界のなかにおいてのみ場がある。

反対に想像界においては、要素は場を入れ替える。したがって、事実上、場は区別できない。いや、要素自体が区別されうるかさえ確かでない。想像界においては、別々の、分離した要素はない。象徴界において分離した要素があるようにはない。これらの用語にて、ラカンは、自我と他者ーー外部にある自身のイメージであるだけの他者ーーとのあいだの関係を叙述した。そこには、自我と他者の相互侵入があり、競争相手となり、戦いがあり、互いの間に不安定な平等 équilibres instables を見出すのみである。その意味で、想像界は、本質的非一貫性 inconsistance essentielle によって特徴づけられて現れる。ラカンはかつて想像界を《影と反映 ombres et reflets》のみの存在とさえ言った。

現実界に関しては、この秩序と不秩序との間の裂目の外部にあるものだ il est en dehors du clivage entre ordre et désordre。それは純粋で単純である。

今年、我々は見た(そして、ある意味で、我々はその逆を説明しなければなかった)、象徴秩序の概念が評判高いものになったことを。それは、確立された秩序の保護しようとする者たちすべてに広まった。

保守主義者たちのあいだでの評判である。象徴界によって支配される世界とは何か。それは、すべてがその場のなかにある世界、父le père・家父長 le patriarcat がすべてを閉じ込める世界だ。不秩序のすべての証拠は、すぐさま想像界的なものとして貶される。言い換えれば、非一貫的 inconsistant で寄生的 parasitaire なものとして。

これが象徴秩序というラカンの概念の使われ方だった…。調和ある秩序を推進すること、不変の諸法ーー「父の名 Nom-du-Père」に錨をおろした法ーーによって統制された秩序…。

そして、人ははっきり言わなければならない。ラカンはこの考え方に自らなすがままになっていた、と。彼は、その教えの出発点で、この意味での開始を残した。

たとえば、ラカンは言うことができた、私は引用しよう、彼はその出発点でこう言った、ローマ講演にてだ。すなわち、《父の名は…象徴機能の基礎である le Nom-du-Père était le support de la fonction symbolique》(E278)と。象徴秩序のすべては父の名を持つ。その支えとして、法を具現化する形象の父として。

しかしこれは出発点だ。この後、ラカンの教えの全体は別の方向にむかう。もし、ラカンの教えにサンス(sens 意味=方向)があるなら、絶え間ない・方法論的な・休みない解体である。そう、象徴秩序の欺瞞的調和の解体 acharné de la pseudo-harmonie de l'ordre symbolique だ。ラカンは、父の名の機能 la fonction du Nom-du-Père を讃え、それに十全の輝きを与えたまさにこの理由で、彼はその後、ひどくラディカルに、父の名を問題視した。


【父の隠喩の脱構築】
歴史の皮肉の刻印を残した何ものかがある。公衆にとって忘れ難いのは、ラカンがフロイトのエディプスに与えた言語学的形式だ。すなわち「父の名 le Nom-du-Père」によって統治された「父の隠喩 la métaphore paternelle」。これは、次の事実にもかかわらず忘れ難い。つまり、セミネールVI において導入された亀裂(「大他者の大他者はない」)以降のラカンの教え全体の展開は、父の隠喩の解体・脱構築の方向に向かうという事実にもかかわらず。

数ある要点がこれを明瞭化しうる。

一番目の取り掛かりとして、人は指摘できる。ラカンが「父の名 」と「父の隠喩」を提唱したのは、精神病にてそれが機能していないことを示すためにのみだった。

二番目に、父の隠喩からのサンスを引き出せないものとしての享楽の不変性、対象a としての恒久不変性を示した。

三番目に、ラカンが IPA によって破門されて「父の諸名 Des Noms-du-Père」をめぐるセミネールを放棄し、「精神分析の四基本概念」のセミネールを実施したとき、彼はとても明瞭に、「父の形象 la figure du père」の奉仕としてあるフロイトの欲望を攻撃している。

四番目にエディプス理論に関して、ラカンはエディプスを去勢を剥き出しにしつつ同時に隠蔽する神話としての地位を付与する。そして彼はその法を作り上げるのをやめた。ラカンはエディプス理論を神話とした。言い換えれば、想像的物語、組織されてはいるが、想像界的なものとした。

五番目に、父の隠喩はある一定の仕方で、性関係を女性-母性的ポジション la position féminine maternelle への男性的支配の形態のなかに書き込む。それを彼は「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 」という定式をもって拒絶した。そしてこの定式は、象徴秩序の概念を掘り崩す。

六番目に、最終的に「父の名 le Nom-du-Père」は、一つのサントーム un sinthome として定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの「一つの享楽様式 un mode de jouir 」として。

七番目で私は終えよう。私は事実上、主要な要点・転回点と考えるもの、その点から「大他者の大他者」としての「父の名」の脱構築が生まれた点である。

「精神病」のセミネールIII にて、ラカンは隠喩と換喩の発見を伝授した。ヤコブソンによれば、全レトリックの責を負うスタイルの二つの形式である。ラカンは隠喩形式を使用することにより始めた。彼はフロイトのエディプスを形式化するのに隠喩を使った。これは、対象関係のセミネールIV にてなされた。

その時にのみ二番目の形式、換喩を使用した。それは欲望を形式化するためだ。私は言おう、この二つの用語は互いに応答し合う、と。すなわち、父の隠喩と欲望の換喩。

ラカンはまず父の隠喩を導入し、その後、より遠慮がちな響きの効果をもって、欲望の換喩を導入した。

【父の道、あるいは欲望の道】
これは、私にヘラクレスの神話を想い起こさせる。ヘラクレスは与えられた二つの道の前に立っていた。同様にラカンにも、二つの道が眼前に開かれていた。一方で、父の隠喩の道、他方で、欲望の換喩の道。どちらの道を彼はとったのか? 明らかに、彼は最初は父の隠喩のほうに向かった。だが、ラカンがその教えで従った道、それは疑いなく、欲望の道であり、父の道ではない。

セミネールIV にて、彼は父の隠喩を定式化した。セミネールV とセミネールVI にて、二つの水準をもった大きなグラフを構築した。そして人は問うことができる。なぜラカンは、欲望を本質的機能としたのか、と。グラフには欲望という名が与えられているのだ…。

私はあなたがたに言おう、私の読解において、この命名が持っている私にとっての価値を。すなわち、欲望はその価値を獲得した。その名前からの差異を通して、その名前への対抗を通して。ラカンがそれを放棄することはありえた。欲望のグラフのかわりに、父の名のグラフでありえた。


【分析の終りとは何か?】
想定してみようではないか。ラカンが「大他者の大他者はある il y a un Autre de l'Autre」、かつ「父の名 le Nom-du-Père は大他者の大他者のシニフィアン le signifiant de cet Autre de l'Autre である」という見解を維持した、と。もし彼が精神病のセミネールⅢ の最後で書いたことを保持していたら、分析において光をもたらされる根本要素、分析の終りにとっての決定因であるだろう要素は「あなたの父の名 votre Nom-du-Père」だろう。それはシニフィアン、シニフィアンの単独性 particularités だろう。つまりあなたの身体が苦しんでいる享楽へ意味を付与するシニフィアンである。

そう、グラフの頂上の左手に、分析から期待される究極の応答が記されている。そこで分析が頂上に達するときの顕現、それは S(A) と書かれえた。その意味は、分析の終わりは、父の名の出現ということだ。主体としてのあなたの存在の法を示すシニフィアンとしての父の名。しかし、この場には、何が書かれているのか。それは逆に、S(Ⱥ) である。このシニフィアン、分析において、主体によってもたらされた問いにラカンが付与した応答は、父の名にかかわる水準に位置しない。解決法は、父の隠喩の水準には位置しない。

というのは、このレヴェルにおいて、主体が遭遇するすべては、シニフィアンの欠如だから。主体の存在を示すシニフィアンの欠如、主体の存在の法を提示するなかでのシニフィアンの欠如。

したがって仮説として、私はあなたがたに提示している。分析の終りとは、主体の存在の法としての父の名の出現ではないか、と。

二番目の仮説をも示そう。この仮説は充分に基礎付られていると言える。精神病をめぐるラカンのテキストのまさに要所において基礎付られている。同じテキストに別の一節とおいてと同様。

それは次の通り。人は考えうる、シニフィアンの欠如が解決法だと。分析の終りとは欠如の顕現だと。私の意見では、ラカンは分析の終りのこのヴァージョンを考えたことを認めなければならない。

ラカンは 「治療の方針とその力の諸原則」(1958年)において結論づけている。それはセミネールⅥ( Le désir et son interprétation)の直前に現れた論だ。あなたがたがセミネールⅥ を読むとき、「治療の方針」を参照するようアドバイスしておく。このセミネールは、「治療の方針」の第5 セクションから引き続いているのが分かるだろう。第5 セクションにて、ラカンは分析家に勧告している、《欲望は文字通りとらなければならない Il faut prendre le désir à la lettre 》と。

ここでには最も明示的な形で、欲望は換喩の用語にて定義されている。言い換えれば、シニフィアンの継起の効果として、欲望は定義されている。シニフィアンの効果とは、非実体的効果・実体のないことを純粋に意味する。これを示すために、明瞭な定義を引用するだけでよいだろう。「治療の方針」の最後でラカンは提示している定義だ、《欲望は存在欠如の換喩である le désir est la métonymie du manque-à-être 》と。

ここで、欲望は欠如と同じものだされていると言うより他によい方法はない。すなわち、実体のないもの。事実上、欲望は S(Ⱥ) と等価である。エディプスの決定的意味作用の出現をなす隠喩の不在。

その上、まさにこの点にかんして、ラカンはテクストの最後で、欲望の解釈とは何かの定義をしている。これはまさに、彼がセミネールⅥ「欲望とその解釈」にて検討し始めた欲望の解釈の問いだ。しかし人は観察しうる。セミネールの進行中、それが漸次弱められてゆくのを。

彼の書かれたテキストにて提供された定義は、欲望を解釈することは欠如を指摘すること、欠如を目指すことだ。それは言われていないながら、暗示されている。彼が呼んだこと、詩的な言い方でなくもない形の文のなかで、見出される表現は、《存在の見捨てられた地平 retrouver l'horizon déshabité de l'être 》である。

これはとても厳密な何かを意味する。分析の終りを、自身が無であるという主体の想定として、明確に心に描いている。無意識のレヴェルにおいては、主体は無であろう、と。人は知るだろう、主体が数多くの要素と同一化する夢から、自身は分散されて多様的であることを。そしてこの多様性は、まさに彼の存在を十全に徴示するシニフィアンの欠如を翻訳するものだということを。

言い換えれば、Ⱥ がまた意味するのは、無が、あなたにとってのどんな徴示連鎖のどんなシニフィアンの真理を支えるということだ。この意味で、どんな隠喩もない。

こうして、ラカンは分析の終りの秩序のなかに何かを喚起した。父の隠喩によって、父の隠喩の構成によって、十全な父の隠喩へのアクセスを。だが、それは放棄された。

彼は「父の名」による分析の終りを放棄した。あなたの存在の法を示すものとしての、あなたの父の名の顕現であろう分析の終りを。

彼はまた想い描いている。分析の終りは無の想定でありうることを。Ⱥ によって示される欠如の想定でありうることを。

言い換えれば、そこで判然とする分析の終りは、最終的には、欠如を想定しうるのみであり、何ものも保証しないということだ、大他者の良き信念という真理の主体を。

言わなければならない。これが分析の可能な終りのひとつだと。ラカンは後に、分析の終りを主体が非盲従者(騙されない者 non-dupe)になることだとした。斜線を引かれた大他者Ⱥ に満足する非盲従者。大他者の非一貫性に満足する非盲従者である。

欲望のセミネールにて、ラカンは三番目の分析の終りを提案する。分析の終りにかんしてラカンにとって決定的であろう場、彼の教え全体がそれに従う場が、ここで初めてスケッチされた。

分析の最終ゲームがなされる決定的な場は、父の名ではない。そうではなく、幻想である。このセミネール以降から、人は流れを感知する。幻想を把握する場へと設定される流れ。分析の終わりの問いが位置づけられる場としての幻想。

そしてこの問いは、これ以降のラカンの教えに繰り返される。セミネールVI は、「欲望とその解釈 Le désir et son interprétation」と呼ばれる。というのは、その出発点は、「治療の方針」の結論によって開かれた流れに従っているから。

しかしセミネールVI は、本当のところは、ラカンによって書かれたテクストの結論への挑戦に当てられている。それは旅立ちの点を示している。セミネールVI は挑戦なのだ、分析の終りは、存在欠如の換喩としての欲望の定義に依拠するという見解への。

そして、目立っているひとつのものがあるーー、ここで我々は、セミネールVI の最初の数頁から言わなければならないーー、このセミネールにて、ラカンが叙述している欲望は、もはや全く存在欠如の換喩ではない。言い換えれば、シニフィアンの純粋な効果として定義された欲望ではない。

このセミネールの核心は解釈ではない。核心は、幻想という欲望する経験のなかの対象にかかわる主体の無意識である。


【欲望と幻想】
このように、無意識の欲望における主体-対象の関係をラカンは幻想と名付けた。セミネールVI の本当の題名は、むしろ「欲望と幻想 Le désir et le fantasme」である。少なくとも、これが私の読解と編集から結論したものだ。

ここで、幻想は単独性 singulier のなかにある。それは、主体の空想 rêveries の問題ではない。主体が己れに独語する話や分析家に語る話の問題ではない。無意識のままである関係性の問題である。幻想の無意識的経験を把握しようとするラカンの非凡な試みは、詳細にわたって追わなければならない。

このセミネールのなかで、我々はただ一度だけ「根本幻想 le fantasme fondamental 」という表現に出合う(第 XX 章のタイトルを私はそう名付けた)。そして、もう一度だけ、10年後に再び現れる。それはラカンがパス理論 théorie de la passe を展開するようになった時だ。幻想の横断 traversée du fantasme としてのパス理論である。

当時、私は自問したことを思い出す。根本幻想とは正確にはなんだろう、と。そう、このセミネール「欲望と解釈」にて、幻想は、単独性のなかで、かつ根本的なものとして、特定的にアプローチされている。ある意味で「意識的知との関係 rapport de la connaissance」とは完全に異なった仕方で、「対象との主体の関係 rapport du sujet à l'objet」としてアプローチされている。

意識的な知、現実のレヴェルに維持されている知において、対象と主体には、調和・適合・順応がある。意識的な知は、主体の対象との和合において、観照に達する。主体と対象の混淆・融合にさえ到りうる。

しかし、このセミネールにおいて問われている欲望は、現実と同次元のものではない。問題となっている欲望は、無意識の欲望である。欲望の対象は、ラカンは以前に考えたようには、現実の要素ではない。それは人物 personne でもなく、熱望 ambitionでもない。

ラカンがここで petit a と呼ぶ対象、幻想のなかに記銘する対象は、父の名と父の隠喩の支配から逃れる限りでの対象である。

この対象は、ラカンが幻想のなかにそれを再置したとき、精神分析において、知られていないものではなかった。それは、前性器的対象 l'objet prégénital と呼ばれ、口唇的・肛門的な形式 la forme orale, anale にて現れた。幻想はときにそこに記銘された。

しかし、これらの対象のなかに取り入れられた関わり l'intérêt、享楽の関わり l'intérêt は、いわゆるファルス期のなかに吸収されると想定された。これが、言語学的形式のなかで、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」と呼ばれるものが現れることによって変換される「父の隠喩 la métaphore paternelle」である。

これが意味するのは、いったん欲望が十分に成熟 maturité したとき、すべての享楽はファルスの意味作用を持つことということだ。欲望が十分に成熟するとは、言い換えれば、欲望が、父の名のシニフィアン le signifiant du Nom-du-Père のもとに置かれるということだ。

この理由で、人は言いうる。父の名の方法による分析の終りは、欲望の成熟 la maturation du désir を信じるすべての分析家の熱望だった、と。

そして、フロイトは既に見出している、そんなものはないことを。父の名は、その徴のもとに、すべての享楽を吸収しえないことをフロイトは見出している。これらのまさに残滓 restes、それが、フロイトによれば、分析を終わりのないものにする。避け難く、間をおいて、残滓へと回帰してしまう。

そう、セミネールVI にて、ラカンは自らを方向性づけた。彼の以降の教えにとって、ある意味で決定的なこのポイントにかかわる方向づけ。私はこの方向づけを、否定的な形式で言ってみよう。精神分析のラカニアンとして方向づけられた実践の実に根本的な言明である。すなわち、どんな成熟もない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望の成熟はない ni de maturité du désir comme inconscient。

フロイトにとって残滓であったものは、幻想のなかで無意識の欲望が付着したままの半永久的要素である。それは要素の問い、いやむしろ享楽を生み出す実体の問いだ。それはファルスの意味作用の外部にあるもの、例えば、去勢に対する違反 infraction である。

これらは享楽である、補充の享楽実体 substances jouissances supplémentaires,、ラカンははるか後に剰余享楽 plus-de-jouir として言及したものだ。この剰余享楽は、準備されて、すでにここにある。セミネールの最後においては、さらにもっとそうだ。そこでは「昇華 sublimation」に向けて進んでいく。

我々を支配するこれらの新しい付属物 gadgets とその装置すべては、事実上、正統的ラカニアンの意味で、昇華の対象 objets de la sublimation だ。

それらは、付け加えられた対象である。そしてこれは、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽用語の価値である。

言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、身体から来る対象 objets qui viennent du corps をもつというだけではない。そして身体にとって喪われた perdus pour le corps 対象ーー自然な対象、あるいは象徴界の影響を通しての喪失対象ーーをもつというだけではない。それだけではなく、種々の形式で、これらの最初の対象を反映した対象 objets qui répercutent les premiers objets をもつのだ。

問いとしてあるものは、これらの対象は完全に新しいものなのか、それとも原初の対象a [objets a primordiaux]のたんに再構築された形式なのかということである。


【欲望と「父のヴァージョン=倒錯( Père-version) 」】
セミネールVI から既に引き出しえた結論、そして否定的形式で再び言うなら、欲望の規範性normalité du désir はない。無意識の欲望は、幻想のなかで、享楽に付着した attaché ままだ。欲望は、(巷の)精神分析家によって理想化された規範に反して、本源として倒錯的 intrinsèquement perverses なままなのである。

倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。享楽がけっしてその場ーーいわゆる象徴秩序が欲望をそこに置きたい場のなかにないという意味で。

そしてこれが、ラカンが後に父の隠喩についてアイロニカルであった理由だ。彼は言う、父の隠喩もまた倒錯だ la métaphore paternelle est aussi une perversion、と。彼は、父の隠喩を père-version と書いた、一つのヴァージョンを徴示するため、「父へと向かう動き un mouvement vers le père」を徴示するために。

しかし、このアイロニーは、際立って重要な何かを言っている。父は、父の名と混同してはならない le père ne peut se confondre avec le Nom-du-Père。父は、全的かつ一貫的な象徴秩序を設置する純シニフィアン pur signifiant に還元されえない。というのは、そんなことがあったら、つまり、父が大他者の大他者であるという役割を演じたら si le père joue à être l'Autre de l'Autre、父が法の大他者である être l'Autre de la loi 役割を演じたら、そのとき父は、精神病の危険へと自らの子孫を曝さす expose sa descendance au risque de la psychose ことになるから。

ラカンのアイロニーは遠くまで進んでいく(…)。

ラカンの「父のヴァージョン=倒錯 père-version」についてのアイロニーは、事実上、古典的なままの精神病理論とは正反対の、ひとつの精神病理論 la psychose une théorie inverse de la théorie restée classiqueを提供してる。

すなわち精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。父は、法の大他者と自らを混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。逆に父は、幻想へと結びついた欲望をもつ必要がある。そして幻想ーーその幻想の対象は、構造的に喪われた享楽である幻想ーーによって統御された欲望をもつ必要があるのだ。…
(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,PDF

※参照:神と女をめぐる「思索」

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※付記

事実、法がそれに先立ってある高次の〈善〉に根拠をおくことがもはやなく、その内容をまったく非限定的なものとして放置するそれ固有の形態によって有効であるとするなら、最善をめざして正義が法に服するということは不可能になる。というよりむしろ、法に服するものは、然るが故に正義にかなっているわけではないし、またそう自覚することもないということだ。事態は逆であって、自分は罪を犯しているという自覚があり、彼は前もって有罪者なのである。しかも厳格に法に服すれば服するほど、ますます罪深いものとなるのである。純粋な法として法が顕在し、われわれを有罪なりと断ずることになるのは、同様の操作によるものだ。古典的イメージをつくりあげていた二つの命題は同時に崩壊する。それは原理をめぐる命題と影響のそれ、〈善〉による根拠の設定の命題と、正義による批准のそれとである。以下の如き道徳意識のおどろくべき逆説を解き明かしたのは、フロイトの功績だ。法の支配下に身をおくこおで、それだけ強く正義の自覚を持ちうるものであるどころか、法というものはかえって「苛酷きわまる振舞いをしめし、主体が潔白であればあるほど巨大化する不信を表明する……。最善にしてこの上なく従順な存在の道徳意識のこの並はずれた厳密性は……」

だがそうした点にとどまらず、以上の逆説に分析的な説明を加えたのもフロイトの功績である。すなわち、道徳意識から導きだされるのが衝動の放棄なのではなく、放棄することから生れるのが道徳意識だというのがその説明である。したがって、放棄が強力で厳密なものであればあるほど、諸々の衝動の後継者としての道徳意識の威力は強まり、厳密に行使されることになる。(「放棄することで意識がこうむる作用は驚くべきものであり、だからわれわれがその充足を差しひかえる攻撃的要素は超自我によって引きつがれ、自我に対する自己攻撃性が強調されることになるのだ」)。法の根底的に非限定的な性格に関するいま一つの逆説が、そのとき解消される。ラカンがいっているように、法とは抑圧された欲望と同じものである。法は、矛盾に陥ることなくその対象を定義することはできないし、その基礎としての抑圧を排除しないかぎり、内容によって定義されることもありえない。法の対象と欲望の対象とはまさに同一のものをかたちづくり、同時に姿を隠すものなのだ。対象の自己同一性が母親に帰着し、法と欲望の対象そのものが父親に帰着するとフロイトが示すとき、彼はたんに法の限定された内容を回復すべく目論んでいるのではなく、ほとんどそれと反対に、法が、そのエディプス的淵源の力によって、必然的にその内容を奪うことしかできず、その結果として、対象と主体(母と父)との二重の放棄から生ずる純粋形態として有効たらんとするということを示すことにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳、pp.107-108)