2017年1月27日金曜日

夏服派と冬服派

超訳アドラーの流通という「犯罪行為」」にコメントを入れてくる人がいるが、そこでの話とやや外れるかもしれないが、トラウマとは結局無力の状況のこと。

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』1937年)

で、アドラーは精神分析界で最初に「攻撃欲動」概念をーーフロイトに先行してーー提出した人(参照)。おそらくニーチェに依拠しているだろうが。

アルフレッド・アドラーは最近、その示唆溢れる論文 (‘Der Aggressionsbetrieb im Leben und in der Neurose' , 1908)にて、不安はアドラーが呼ぶところの「攻撃欲動 Aggressionsbetrieb」の禁圧から生まれる……という見解を展開した。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症(少年ハンス)』1909年)

とはいえ、ある時期からのアドラーは、精神分析から心理学に移行した。

いずれにせよ、人間は無力の状況(トラウマ的状況)に置かれると、少なくともその反動で攻撃的になる(参照)。

で、ここですこし飛躍していうが、どっちの立場をとるかというのはあるよ。攻撃欲動が人間の根源なのか、ルソー的な憐みが人間の根源なのか、というふたつの立場のどっちをとるか?

フロイトは攻撃欲動派ということだな、初期アドラーに敬意を表して。

攻撃性向 Aggressionsneigung は人間生得に内在する欲動機能 Triebanlage である。…これは文化にとって最大の障害である…。文化は、最初は個々の人間を、のちには家族を、さらには部族・民族・国家などを、一つの大きな単位――すなわち人類――へ統合しようとするエロスのためのプロセスである。……

これらの人間集団は、リビドーの力によってたがいに結びつけられなければならない。……ところが、人間に生まれつき備わっている攻撃欲動 Aggressionstrieb…がこの文化のプログラムに反対する。この攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。……文化とは、人類を舞台にした、エロスと死のあいだの、生の欲動と死の欲動のあいだの戦いなのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年、旧訳p.477、一部変更)

もちろん次の人生指南派ーーわたしくはアランにかねてより敬意を払っているーーの言っているようなことは、心理学的には真実。これは後期アドラー的だろ?


【私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む】
人間の秩序のうちでは、信頼が事実の一部分を占めているから、そこではとくに、私が私自身の信頼をまるで考えにいれていないなら、私は大へんな見込みちがいにおちいる。倒れそうだ、とおもったとたんに、私は実際に倒れる。なにをする力もない、とおもったとたんに、私はなにをする力もなくなる。自分の期待にあざむかれそうだ、とおもったとき、私の期待が私をほんとうにあざむくことになる。そこによく注意しよう。

私がよい天気をつくる、暴風雨をつくるのだ。まず自己のうちに。そして自分のまわりにも、人間たちの世界のうちにも。けだし、絶望は、そして希望もだが、雲ゆきがかわるよりも早く人から人にと伝わってゆく。私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。

そして、つぎのこともまた十分に考えたまえ。期待というものは意欲によってのみ保持され、平和、正義と同様に、やりたいと思えばこそ実現をみるだろうもののうえに築き上げられる、ということを。しかるに、絶望のほうはどうかといえば、絶望というものは、今あることの力によって尻をすえ、ひとりでに強まるのである。さてこれで、宗教はすでにそれをうしなってしまったが、もともと宗教のうちにあって、救い出すに足りるところのものを救い出すには、いかなる考察の道すじによるべきかがはっきりした。私はあのうつくしき望みのことを指しているのだが。(アラン「オプチミスム」 『人生語録集』井沢義雄・杉本秀太訳) 

…………

で、最近のわたくしはフロイトのほうが面白い、ってだけだな

【冬服か夏服か】 
今日の教育に向けられなければならない非難は、性欲がその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

【原始時代のドラゴンは生きている】
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり以前の段階の現象が部分的に進歩から取り残されて存続するという事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残りが保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残りが存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)




【人間は人間にとって狼である】
人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でも あるのだ。「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃 本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは 阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する 種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人―― の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件まで を想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)




ま、フロイトほど言わなくても、「穏やかな」ジジェクを引用すればこういうこと。

我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、嫌悪をもたらす生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。 (ジジェク、2016,12)

(アメリカ最後の公開処刑、1936年)


より「穏やかに言えば」、次の通り。

過去には公開処刑と拷問は、多くの観衆のもとで行われた。…これは、ほとんどの我々のなかには潜在的な拷問者がいるということだ。 (ポール・バーハウ1998、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)
あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。(……)

例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004)
誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」)