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2017年1月27日金曜日

古典的ラカンドグマの転回

また引き続き、文句を言ってくるひとがいるが、この文句コメントは釣りみたいなもんだろうか? あまりわたくしの罵倒癖を刺激しないでほしいもんだね。

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

ま、健康のためにお返事するがね。でシキシーマという人のブログを貼り付けてなんたらと言ってるわけだが、彼は松本卓也くんとお友達らしいな、松本くんはなかなかタイシタ人物だと思うよ、若くて聡明だよ。いくらか成り上がり者系の振舞いが露骨でないわけではないがね。でもあれはあれでいいんじゃないか、若いうちは野心家であってなんの悪いこともない。他方、シキシーマくんというのは完璧「寝言」派だよ、あれ。コメントする気にもならんね。父の名享楽もまったくわかっておらん。どこかでとまってしまっているんだろうな、あれは。ドゥルーズなんたらと言っているようだが、わたくしはドゥルーズはよくしらん、哲学もしらん。だが、すこしまえメモった「超越的法/超越論的法」を垣間見れば、いかにとんでもレヴェルの話をしているかが瞭然とするだろう(いやあ、やや長すぎるメモなので、誰も最後まで読まないだろうということは知っているがね)。

で、その寝言くんはほうっといて、松本くんのツイートを引用してみよう。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(参照

@schizoophrenie 2011/08/20  ラカン派では神経症と精神病の境界は厳密である.父の名があれば神経症,排除されていれば精神病である.しかし,明らかな精神病の標識がないにもかかわらず,神経症のようなシニフィアンの媒介性がみられない症例がある.そのような違和感が普通の精神病の判別のひとまずの鍵となる.(松本卓也

すでに5年以上前のツイートなので、いまさら掲げるのもなんだが、彼は若き最も優秀なラカン派研究者の一人であるのは間違いない。2015年の彼のデヴュー作『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』ではまさかこんなことはーー留保なしにはーー言っていないだろうが(私は未読)、ラカン派研究者の言明というのはおおむね真に受けたらダメだということを示すために掲げた(もっとも彼のツイートにはいくらかの留保があるのでリンク先を参照のこと)。

これは旧来の古典ラカン解釈の「重鎮」たちも同様であり、場合によってはいっそう「誤謬」だらけーー現代的解釈から見ればーーである。

ましてやラカン派研究者ではない精神科医や批評家という種族に属する人たちのラカン的解説はあまりにも古臭い、というか軒並み「寝言」を言っているようにしか思えない。それは、とくに21世紀に入ってから古典的ラカン解釈の反転があるにもかかわらずそれをまったくフォローしていないためだろう。

以下、ラカン主流派の首領ジャック=アラン・ミレールの文章を掲げよう。もちろんこれもそのまま受け取る必要はない。


【神経症なのか精神病なのかは区別がしがたい】
今、私は思い起こしてみる。あの時私はなぜ、今話しているような「ふつうの精神病」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか、と。私は言おう、我々の臨床における硬直した二項特性ーー神経症あるいは精神病ーーから逃れようとした、と。

あなたがたは知っている、ロマン・ヤコブソンの理論では、どのシニフィアンも基本的に次のように定義されることを。それは、今では古臭い理論だ。他のシニフィアンに対する、あるいはシニフィアンの欠如に対するそのポジションによって定義されるなどということは。ヤコブソンの考え方は、シニフィアンの二項対立定義だった。私は認める、我々は長年のあいだ、本質的に二項対立臨床をして来たことを。それは神経症と精神病だった。二者択一、完全な二者択一だった。

そう、あなたがたにはまた、倒錯がある。けれど、それは同じ重みではなかった。というのは本質的に、真の倒錯者はほんとうは自ら分析しないから。したがって、あなたが臨床で経験するのは、倒錯的痕跡をもった主体だけだ。倒錯は疑問に付される用語だ。それは、ゲイ・ムーブメントによって混乱させられ、見捨てられたカテゴリーになる傾向がある。

このように、我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・精神療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。 (Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2009、PDF

 【神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ること】
「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいはそれぞれに仕方で、「みな妄想的である」(Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant )に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.,PDF
……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分析の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

これらは結局、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りなき分析』の記述に回帰したという風に見える。

正常人といってもいずれもみな一定の範囲以内で正常であるにすぎず、彼の自我は、どこかある一部分においては、多少の程度の差はあっても精神病者の自我に接近している…。

Jeder Normale ist eben nur durchschnittlich normal, sein Ich nähert sich dem des Psychotikers in dem oder jenem Stück, …(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』1937年)


【精神病の主因は父の名の排除ではなく、父の名の過剰な現前である】 
ラカンの「父のヴァージョン=倒錯 père-version」についてのアイロニーは、事実上、古典的なままの精神病理論とは正反対の、ひとつの精神病理論 la psychose une théorie inverse de la théorie restée classiqueを提供してる。

すなわち精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。父は、法の大他者と自らを混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。逆に父は、幻想へと結びついた欲望をもつ必要がある。そして幻想ーーその幻想の対象は、構造的に喪われた享楽である幻想ーーによって統御された欲望をもつ必要があるのだ。…(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013, PDF

※上の文の前段については、「超越的法/超越論的法」にてやや長く訳出してある。

《六番目に、最終的に「父の名 le Nom-du-Père」は、一つのサントーム un sinthome として定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの「一つの享楽様式 un mode de jouir 」として》とある前後を読めば、上の文の意味合いがいくらか判然とするだろう。

サントームの第一の意味は「原抑圧(欲動の原固着)」(ミレール、2011)、「享楽の原子」(ジジェク、2012)とされる。あるいは死の欲動にかかわるとされる。

ジジェク2012年には次のような指摘もある。

le‐Nom‐du‐Père 父の名→le‐Nom‐du‐Pire 悪化の名→ 死の欲動(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

…………

以下もラカン解釈の「通念」となってきたものの「脱構築的」見解である。

【人間の始まりは想像界ではなく象徴界である】

人間にとって、最初の大他者は母であり、二番目の大他者は父である。

例外はある。母が養育者・授乳者ではなかったり、父は不在で母子のみ、あるいは祖父母や親族が代わりである場合がある。父が主夫で最初の大他者であることさえある。だがこれらの例外は考慮から外す。

基本的には母なる大他者が、最初の大他者である。 ではなぜ母は小文字の他者ではなく、大文字の他者なのか。

母は母語を話す。母語という言語は大他者である。 
母はある文化のなかの存在である。文化は大他者である。 
母の鏡に映るものは、その文化の慣習である。

これだけで母子関係が、単純には想像界的二者関係でないのが分かる。

例えばジャック=アラン・ミレールは2008年に次のように指摘している。

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか。精神生活の始まりはなにか?

古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。

事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)

私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

こう指摘されてみれば実に当たり前なのだが、1980年代から1990年代、21世紀に入っても、ラカン理論が言及されるときは、馬鹿のひとつ覚えのように、最初は「想像界」とされてしまうことが多い。特に文学畑の批評家のたぐいはいまだ「重度障害者」が多い。おそらく日本における最初期のラカン紹介、たとえば浅田彰の『構造と力』などの記述に囚われたままなのであろう。

もっともラカン派でさえも、この2008年になってようやくラカン主流派の首領ミレールが曖昧な口振りで指摘していることから窺われるように、いまだ「病人」がいないわけではない。


【無意識は言語のように構造化されていない】

……いやあ、また「まがお」スタイルでを記述してしまった。どうもわたくしにはこのスタイルで記述すると反動が生まれる。

いずれにせよ「想像界」という最も基本的な概念のひとつでも上のような具合なので、他のやや難解な概念は、今後きっと反転があるよ。だいたい今まで流通している通念のラカンを「まがお」で信じちゃいけない・・・

たとえば《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》というのは、かねてより異論がある。

ミレールは2014年になってようやくーーわたくしの知る限りでだがーー鮮明に指摘している、《「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる ni même l'inconscient structuré comme un langage》無意識をの方が核心だと(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)。

たとえばAndré Greenーーラカンのセミネールへの古くからの参加者で、ある時期からラカン批判をするようになったーーは次のように言っている(WIKI)。

ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言っている…しかしあなたがたがフロイトを読めば、明らかにこの主張は全く機能しないのが分かる。フロイトははっきりと前意識と無意識を対立させている(フロイトの言う無意識とは物表象によって構成されているのであって、それ以外の何ものによっても構成されていない)。言語に関わるものは、前意識にのみ属しうる。(Quoted in Mary Jacobus, The Poetics of Psychoanalysis 、2005)

言語のように構造化されているのは「前意識」のみである、と言っていることになる。

グリーンがいつからこのように言い始めたのかはーーすこし調べてみたかぎりではーー判然としない。ただし、グリーンの発言の注釈者の論文のなかで、次のような叙述を見出しはした。《Si le préconscient peut être structuré comme un langage, ce ne peut donc être le cas de l'inconscient.》。その論者の論調からすると1970年代にはすでにこのように言っていたようにみえる。
もっともグリーンの論にでてくる「物表象」についてはいまでも議論がないではない。

ラカンは同じ物表象でも、Sachvorstellung /Dingvorstellungを区別した(セミネール7)。

c'est qu'en tout cas FREUD parle de Sachvorstellung et non pas de Dingvorstellung. (09 Décembre 1959)

フロイトはDingvorstellung などと言っていないじゃないか、というわけだ。

たしかに無意識論文にはこうある。

意識的表象は、物(事物)表象 Sachvorstellungenとそれに属する語表象 Wortvorstellungen とをふくみ、無意識的表象はたんに物(事物)表象 Sachvorstellungen だけなのである。(フロイト『無意識』1915年)

だがフロイトは『悲哀とメランコリー』(1917年)で、《die unbewußte (Ding) Vorstellung des Objekts》--つまりフロイトは Ding を使って無意識の表象と言っているじゃないか、あんな区分けなどラカンの「寝言」だよ、という議論である…


…………

ほかにもラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールによる次のような言明もある。

【欲望は大他者の欲望ではない】
「欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果 un effet de l'opération du langage だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける évide le réel, y fait trou。この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、「欲望は大他者の欲望」ではありません。コレット・ソレール2013,Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013
※参照:基本版:現代ラカン派の考え方


あるいは存在欠如概念はどうか。

【存在欠如→享楽欠如】
私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »
主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen、LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF
リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

くりかえせばこれらの注釈ももちろん「真に受ける」必要はないからな。

やあこういったことを記すと、後味が悪くなるんだけど、ほんとにニーチェのいうように健康のためにいいんだろうかね?

いずれにせよ、わたくしはは明日からテト祝いで忙しいから、しばらくはもなんたら言ってきても無視するぜ。