2017年1月30日月曜日

スティグママータ stigmata

イエス・キリストは磔刑の際、手足に釘を打ち付けられ傷を負った。そしてキリストのこの傷跡は、後になって熱心な信者の同じところに浮かび上がることがあり、それには大量の出血を伴うそうである。カトリック教会ではこの幻想を「スティグママータ」と呼ぶ。
シャーマンやヨガの行者が真っ赤に焼けた炭の上を平気で歩き足には全くやけどもしない。ローソクの上に手をかざしても何も感じず水ぶくれもしない。

…………

オカルト系だって? いやあそんなことないらしいよ

「すばらしい」映像を見出したよ

◆火傷する催眠術




ーーこういった現象を侮っちゃちけない。

ニューヨークのコロンビア大学医学部のハーバート・スピーゲルが実験したことだ。彼はイマジネーションを利用する実験で、米国陸軍のある伍長を被験者にした。彼は、この伍長に催眠術をかけて催眠状態にしたうえで、その額にアイロンで触れる、と宣言した。しかし、実際には、アイロンのかわりに鉛筆の先端で、この伍長の額に触れただけだった。

その瞬間、伍長は、「熱い!」と叫んだ。そして、その額には、みるみるうちに火ぶくれができ、かさぶたができた。数日後にそのかさぶたは取れ、やけどは治った。この実験は、その後四回くり返され、いつもまったく同じ結果が得られた。

さて、五度目の実験の時には、状況はやや違っていた。この時には伍長の上官が実験に同席していて、この実験の信頼性を疑うような言葉をいろいろ発していた。被験者に迷いや疑惑を生じさせる状況のもとでおこなわれたこの時の実験では、もはや伍長にやけどの症状が現れることはなかった。

スピーゲルは、健康や病気、また、病気からの回復にはさまざまな要因が影響をおよぼし合うと考えている。生理的、心理的、そして社会的な諸要因が相互に関係をもちながら、わたしたちの内部で働いていると言っているのだ。プラシーボ効果を理解するためには、心と体、そしてその両者の関係を促進したり制限したりする第三の要因としての環境状況を考えにいれる必要がある。そして、これら三者を結びつけ活性化するものとして、著者は、言葉のもつ重要性に着目したいと思う。(「心の潜在力プラシーボ効果」 広瀬弘忠

向井雅明氏によるラカン派観点からの説明なら次の通り。

自閉症児は外界からの刺激に対して普通の子どもには見られないような特殊の反応を見せることがある。たとえば、痛みを感じなかったり、ローソクの上に手をかざしても平気で、手にやけどさえしなかったりなどである。
火に手をかざしてもやけどをしないというのはどのように説明すればよいか。やけどは生理的、物理的な現象のように思えるのだが、どうして自閉症者はやけどをしないのであろうか。

やけどとは何であろうか。やけどをすると赤くなったり、水ぶくれができたりする。これらの反応はやけどから直接生まれるのではなく、じつはやけどの知覚に対しる自律神経系(交感神経、副交感神経)の反応により白血球とかリンパ液、退役が動員される結果である。死んだ動物を焼いてもやけどにはならない。また生体はほとんどが水分で構成されているので多少ローソクに手をかざしたところで焦げることはない。(……)ここでは高温があっても暑いという知覚はないので自律神経が反応せず、火傷の症状が生じないのだ。

これらが単なる高温の感覚への反応ではなく、熱いという知覚への自律神経の反応であるということは別の経験からも推論することができる。催眠術である。

催眠術では術師が被験者に催眠状態で「あなたは今やけどをしている」と言うだけで、実際に被験者には水ぶくれなどのやけどの症状ができる。

ここでは自閉症における状況と逆の状況が再現されている。自閉症ではやけどをしたという知覚がないので情報が自律神経系に達せずに症状が生じないのに対して、催眠では言語による偽の情報が自律神経に作用してやけどの症状が生まれると考えられる。つまり言語による情報は知覚による情報と同じ作用を生み出すのだ。(向井雅明「自閉症と身体」(『言語文化27号』 ――●「ラカン研究の現在」

ラカン派でなくても、たとえば’中井久夫はブラセボ効果の人だよ。

……ちょっと芝居っ気がありすぎるかもしれないけれど、処方が新しくなるときの私は「効きますように」といって渡します。そのとき片手で軽く祈ることもあります。ご承知のように、向精神薬のプラセボ効果は30パーセントであり、薬効はそれに10パーセントかそこらを上乗せするわけですから、この「効きますように」は無意味ではないと思います。(中井久夫「患者に告げること、患者に聞くこと」『日時計の影』所収)
一般には漢方薬は処方者への信頼なしでは効かない。(中井久夫「トラウマについての断想」)

…………

ある子供が怪我をして、泣き喚く。すると、大人たちがその子に話しかけ、叫ぶことを教え、さらに後に、文を教える。彼らは子供に、痛いときの新しい振る舞い方を教えるのである。  「すると、『痛み』という語は実際には泣き喚くことを意味していると仰有るのですか?」――逆である。すなわち、痛みの言葉による表現は、泣き声の代わりなのであって、それを記述しているのではないのだ。 (ウィトゲンシュタイン『探究』244)

この名高い文で、ウィトゲンシュタインは何を言っているのか。痛みという言葉がなければ、痛みはない。彼はほとんどそう言っている。

人間にとって痛みというのは客観的に作用するものではない。状況に応じて同じ怪我でも感じ方が変わる。たとえば注射をすると言われたあとに注射をされると大変に痛く感じるが、地震とか火事にあってパニック状態に陥ると、かなり大きな怪我も痛みを感じないし、怪我をしたことさえ気づかない。このような経験は誰にでもある。すなわち客観的に感覚はあるはずなのだが、それを知覚としては感じないのだ。すでに感覚と知覚は違うと述べた。感覚が知覚になって初めてわれわれは意識的に何かを感じるようになる。心的装置の上で言うと一次翻訳がされなければならないのだ。

もう一つ興味深い例がある。モルヒネは痛み止めとして末期癌の患者によく使われる。モルヒネは痛みの伝達を遮って鎮痛効果を与えるとされる。しかしモルヒネとは、実際は痛みを麻痺させるのではなく、逆に麻薬効果によって知覚のフィルターを弱め、原始的な感覚を増大させて痛みの知覚を無差別的な感覚の中におぼれさせてしまうのだ。(向井雅明「自閉症と身体」(『言語文化27号』 ――●「ラカン研究の現在」

…………

ここでラカン文を二つばかり挿入しよう。

恋慕の状態における対象と自我理想 idéal du moi の厳密な等価性は、フロイトの著作における最も基本的考え方のひとつです。われわれはこれを、彼の進歩のその都度に à chaque pas 見いだします。 愛の対象は、 愛の備給において、 彼が主体に及ぼす捕縛 captation によって、自我理想と厳密に等価です。この理由のために、暗示、催眠においてきわめて重要な経済的機能、依存状態 éta de dépendance があります。依存状態は愛の対象への魅惑、その過大評価によるリアリティの真の倒錯 perversion なのです。(ラカン、S1)
もし大文字の他者において真理と呼ばれるものの一貫性が、いかなる方法でも保証されえずにどこにもないなら、それはどこにあるのか。あるとすれば、対象a のこの機能がそれを請け合う。

Si nulle part dans l'Autre ne peut être assurée d'aucune façon la consistance de ce qui s'appelle vérité, où donc est-elle sinon à ce qu'en réponde cette fonction du (a). (S16,13 Novembre 1968)

ーー惚れた腫れたってのも催眠術のひとつってことになるな、人間だけならまだしも、芸術作品とかに惚れるのも催眠術の一種なんじゃなかろうか・・・

いや芸術作品だけじゃなくて思想家や詩人とかもさ。

次のようになった場合、疑わなくちゃな。

スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

プルーストは次のように書いているけど、これは間違いなくあるだろうな。

偉大な作家とさえいわれる人たちが『オシアン詩篇』のような凡庸で人を迷わせる作品に天才的な美を見出すにいたった、という事実を理解させる理由の一つは、おそらく過去というもののあの想像上の遠さにあるのだろう。われわれは遠い昔のケルトの吟遊詩人たちも現代思想をもちうるということにおどろくのであって、ゲール人の古い歌のつもりでいるもののなかで、現代人にしかたくみにうたえないと思っていた歌の一つに出会うと、すっかり感心してしまうのだ。

才能のある翻訳者がいて、ある程度忠実に古代の作家の作品を現代語に移し、もし現代の作者名をつけてべつの形で出版したらそれだけでもよろこばれるであろうと思われているいくつかの部分を、それにつけくわえさえいいのであって、この翻訳者はたちまち詩人に感動的な偉大さをあたえることになり、詩人はそのようにして何世紀にもわたる鍵盤をかなでつづけるのである。この翻訳者は、もしその書物を彼の原作であるとして出版したならば、凡庸な書物の作者としかなれなかったのだ。翻訳として世に出されたからこそそれが一つの傑作の翻訳であると見なされるのだ。(プルースト「ゲルマントの方Ⅱ」井上究一郎訳)


※訳者注:『オシアン詩篇』。3-5世紀ごろ、古代ケルト族の勇者で詩人のオシアンがうたったアイルランドの叙事詩。 1765年にスコットランド生まれのイギリス人マクファーソンが原作を英語散文に訳した『オシアン作品集』によって世界的にひろまり、ゲーテ、スタール夫人、シャトーブリアン、バイロンなどが賞賛した。

安吾も次のように書いてるけどさ。

小林は骨董品をさがすやうに文学を探してゐる。そして、小さな掘出し物をして、むやみに理屈をつけすぎ、有難がりすぎてゐる。埃をかぶつて寝てゐる奴をひきだしてきて、修繕したり説明をつけて陳列する必要はないのである。西行だの実朝の歌など、君の解説ぬきで、手ぶらで、おつぽり出してみたまへ。何物でもないではないか。芸術は自在奔放なものだ。それ自体が力の権化で、解説ぬきで、横行闊歩してゐるものだ。(坂口安吾「通俗と変貌と 」初出1947年)

さてかなり脇道に逸れてしまったが、再度向井雅明氏の記述。上の文ーーいやだいぶ前のラカン文ーーを読んでからだといっそうわかりやすいだろう。

ラカンによると催眠術は自我理想に対象が重なりあう時に効力を発する。自我理想は(……)自我に対して支配的な立場をとる審級である。自我理想は通常、対象とは分離されているものであるが、催眠においては対象と重なり同じ位置におかれるようになる。ラカンはここにおける対象を自らの考案した対象a に相当するものと考える。催眠術でガラスの玉を見せたり、術師の目を見せたりするとき、そこにはまなざしとしての対象a があると考えられる。そして術師の声も対象a としての声として作用する。さらに催眠術をかけられる状況において術師は常に何か特殊な力を持った支配的な立場に置かれる。すなわち自我理想の場に置かれるのだ。同時にまなざし、声といった対象a がそこで作用し、自我理想と対象a の混同がなされ催眠作用をうみだすのだ。(向井雅明「自閉症と身体」)

そもそもフロイトはかのシャルコーのもと「催眠術師」として始めたんだから。それにモルヒネ専門家だし。



ーーシャルコーには、「あなたは心臓病で死ぬ、徴候はすでにかくかく」という匿名の手紙が根気よく送り続けられていたらしい。彼は実際に旅行中に心臓死を遂げた。

娼婦とかバーの女ってのも催眠術師だよ。

……私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』)