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2017年1月11日水曜日

お世辞に不寛容

わたくしがアドラーについて悪口を言ったというので「共感」してくれる人のコメントが入っているが、別に共感してくれなくてもよろしい。わたくしは天邪鬼の性格なので言わせてもらうが、日本に流通しているアドラーの片言隻語にふれての悪罵なのであって、アドラー自身の書を読んでいるわけでもなく、日本の岸見さんとかいう方の書を読んでいるわけでもない。

そもそも貴君の「共感」は、次のたぐいの臭気がするぜ。

・賞賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。(ニーチェ『善悪の彼岸』170番)

・思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。(同 184番)

わたくしはアドラーを読んだことがないからエラそうなことは言えないが、たとえばネット上には日本的アドラーへの疑義が次のように指摘されている。


アドラー心理学批判


もしこれが本当ならトンデモ超訳が流通していることになる(ニーチェ超訳と同様、アドラーの骨抜きというヤツだ)。

フロイトは同じ破門に処したユングとは違って、アドラーについては後年までしきりに引用している。アドラーが抑圧概念を否定したり、社会学的なもの、自我心理学的なものに向ったのに対しては、フロイトの逆鱗に触れてはいるが、フロイトに先行して、はやくから後期フロイト概念を出しているわけで、アドラー自身については安易に批判するつもりは、わたくしは毛ほどもない。

たとえば以下にでてくる「攻撃欲動 Aggressionstrieb」はもちろんだが、「欲動交錯Triebverschränkung 」でもフロイトのエロスとタナトスの欲動混淆Triebvermischung 」概念に先んじているわけで。

最近、アルフレッド・アドラーは、私が先刻そこから欲動交錯 Triebverschränkung という名称を借用したところの示唆に富む一研究 (‘Der Aggressionsbetrieb im Leben und in der Neurose' , 1908)において、不安は彼のいわゆる「攻撃欲動 Aggressionstriebes」の抑制によって発生することを詳述し、包括的続論において、この欲動を「生活や神経症における im Leben und in der Neurose」現象の主役だとしている。

われわれが、われわれの恐怖症のケースにおいて不安は、かの攻撃的傾向、つまり父親に対する敵対的傾向と母親に対するサディスティックな傾向の抑圧によって説明されうるという結論に到達したので、われわれはアドラーの見解を見事に証明したように思われる。しかし私は彼の見解は誤った普遍化であるとみなしており、これを承認しがたい。私はわれわれに親しい自己保存欲動と性欲欲動 Selbsterhaltungs- und Sexualtrieben と並んでこれらと同等のなにかある特別な攻撃欲動 Aggressionstrieb を認める決心はつかない。

アドラーはすべての欲動がもっている普遍的で不可欠な一性格、つまり運動性に刺激を与える能力と呼ぶことのできる、もろもろの欲動の中のまさに「欲動的なもの Triebhafte」、駆り立てるものを、不当にも一つの特別な欲動へと実体化してしまっているように思われるのである。そうなると他のもろもろの欲動に残っているものといえば、ある目標に対する関係だけだということになってしまうであろう。それらからは、その目標に到達する手段に対しての関係が、「攻撃欲動 Aggressionstrieb」というものによって奪われてしまうからである。われわれの欲動理論がどんな不確かであり、どんなに曖昧であろうとも、私はさしあたり、おのおのの欲動には攻撃的になろうとするおのおの独自の能力があるとする従来の見解を固執したい。そして私は、われわれのハンスの場合に抑圧された二つの欲動の中に、性的リビドー sexuellen Libido という昔から知られた構成要素を認めたい。フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンスの症例)1909年)
※〔1923年の追加〕本稿で紹介したアドラーの所説は、彼がまだ精神分析の基盤の上に立っていたらしい時期、つまり彼が男性的抗議 männlichen Protests ということをもち出したり、抑圧というものを否定 Verleugnung der Verdrängung したりする以前に書かれたものである。その後、私も「攻撃欲動Aggressionstrieb」なるものを認めざるをえなくなったが、それはアドラーのそれと同じものではない。私はむしろ「破壊欲動もしくは死の欲動 Destruktions- oder Todestrieb」と呼ぶことにしたい(『快原理の彼岸』、『自我とエス』)。リビドー的欲動に対する破壊欲動の対立は、有名な愛と憎しみの両極性の中に現れている。欲動一般のもつ一個の普遍的性格をただ一つの欲動のために侵害するというアドラーの主張に対する私の異論も依然として正しいのである。フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンスの症例)1909年、旧訳、pp.270-271. Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben (1909)

《破壊欲動もしくは死の欲動 Destruktions- oder Todestrieb」と呼ぶことにしたい》といいつつ、たとえば最晩年の草稿(『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿(死後出版、1940)では次のように言っている。

超自我が組み込まれると、攻撃欲動のかなりの部分が自我の内部に固定され、そこで自己破壊的に働くようになる。これは、人が文化の発展への道において自ら引き受ける、健康衛生上の危険である。攻撃性を抑えておくことはそもそも不健康であり、(その人を傷つけて)病気を作り出す性質を持つ。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

フロイトの死の欲動概念の核心は、攻撃欲動だよ(フロイトにとっては、と保留しておくが。つまりラカン派はやや異なる部分がある)。

攻撃性向 Aggressionsneigung は人間生得に内在する欲動機能 Triebanlage である。…これは文化にとって最大の障害である…。文化は、最初は個々の人間を、のちには家族を、さらには部族・民族・国家などを、一つの大きな単位――すなわち人類――へ統合しようとするエロスのためのプロセスである。……

これらの人間集団は、リビドーの力によってたがいに結びつけられなければならない。……ところが、人間に生まれつき備わっている攻撃欲動 Aggressionstrieb…がこの文化のプログラムに反対する。この攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。……文化とは、人類を舞台にした、エロスと死のあいだの、生の欲動と死の欲動のあいだの戦いなのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年、旧訳p.477、一部変更)

上の「少年ハンスの症例」1909年の1923年の註にある「男性的抗議 männlichen Protests」概念だって同じだよ。アドラーが死んだ年1937年に次のように言ってるんだから。

…この互いに対応しあっている問題というのは、女性によってはペニス羨望 Penisneidーー男性性器を所有したいという陽性の志向--であり、男性にとっては、他の男性にたいして彼が「受動的あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗である。この共通の問題を精神分析学の命名法では、去勢コンプレクスKastrationskomplex にたいする態度として早く強調してきたのであるが、後になってアルフレッド・アドラーは、男性については「男性的抗議 männlicher Protest」というとまったく適切な名称を使用した。しかし私は、「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937, 旧訳p.410からだが一部変更)


もっとも1925年にはこうもあるが。

私は、最初の批判的な発言である『精神分析運動の歴史について』(1913年)のなかで、すでにこれがアドラーの教説の真理の中核をなすものであり、彼の説は全世界をこの一点(器官劣等性 Organminderwertigkeit ――男性的抗議 männliche Protest ――女性的な線からの退却 Abrücken von der weiblichen Linie)から説明するのに、何の懸念もいだかず、しかもそうしながら、権威への志向につごうのよいように、性愛からその意味を奪いとったのだといって誇っている、ということを認識していた。なんらの曖昧さもなく、この名前でよばれるのに値する唯一の「劣等な」器官はつまり陰核であろう。他方では、分析学者たちは、何十年にもわたる努力にもかかわらず、去勢コンプレクスというものの実在については何一つ認められなかったといっていばっている、という話も聞かれる。たとえこの去勢コンプレクスが消極的な作用にすぎず、見落としと見誤りによる人工的な産物にあるにしても、その働きの偉大さには敬服しなければならない。この二つの説は一対の興味深い対立を生みだしており、一方では去勢コンプレクスというものの痕跡が何もないのに対して、他方では、その帰結以外にはなにものもないのである。(フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925 Einige psychische Folgen des anatomischen Geschlechtsunterschieds)

いやあだいたいわたくしはフロイト愛好者のたぐいはキライだからな、ろくに読みもしてないやつが多い(専門家だってそうだ)。

ひょっとしたらアドラー経由でフロイトを「裸」にすることだってできるかもしれないぜ。頷いたり湿った瞳をおくってきたりするのみのコメントじゃなくて、なにか役に立つこと言ってこいよ。