「藕糸孔中蚊睫」、--ぐうしこうちゅうぶんしょうと読む。実に美しい言葉に出会った。やあ、もっと前に行き当たっていたら、このブログも蚊居肢じゃなくて「孔中蚊睫」「藕孔蚊」とかしたのに。
今頃、二葉亭四迷の『浮雲』を初めて読んだのだがーー学生の頃一度読もうとしたことはあるのだが漢字と平仮名・片仮名のバランス、というより片仮名の使い方が「下品」に思えてやめてしまった、だが今はまったくどうということもないーー、とてもよく出来た小説だ。言文一致の最初の小説などということはうっちゃって、文章の巧みさ、心理小説としてわたくしは感心してしまう。
「シテ見れば大丈夫かしら……ガ……」
トまた引懸りが有る、まだ決徹しない。文三周章ててブルブルと首を振ッて見たが、それでも未だ散りそうにもしない。この「ガ」奴が、藕糸孔中蚊睫の間にも這入りそうなこの眇然たる一小「ガ」奴が、眼の中の星よりも邪魔になり、地平線上に現われた砲車一片の雲よりも畏ろしい。
然り畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな不了簡が竊まッているかも知れぬと思えば、文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らしてしまいたい。シカシ散らしてしまいたいと思うほど尚お散り難る。しかも時刻の移るに随ッて枝雲は出来る、砲車雲は拡がる、今にも一大颶風が吹起りそうに見える。気が気で無い……(二葉亭四迷『浮雲』)
《筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによる》(Wiki)とあるが、1887年 - 91年の作で、1864年生まれの四迷の23-27歳の作品ということになる。
いずれにせよこれが20代の作家の作品なのかと感心してしまう。たとえば次の文章。
この「今の家内」を「現在の世界資本主義」に置き換えてさえ読めるんじゃないだろうか?
善の陳腐さだっていいさ、愛他主義・協調・連帯ってのはどこに行っちまったんだろ? 1960年代には日本にも次のような気配があったんじゃなかろうか。
やっぱり20世紀の三度の父の死が痛かったんだよ。
①第一次世界大戦の終戦(1918年)により、ヴィクトリア朝モラルの社会、全き父権制社会伝統的な階級構造と支配的な宗教による「禁止」、超=強制倫理の支配する時代が死んだ。
②その後、縮小再生産された「小さな父」の権威も1968年の学園紛争で死んだ。
③そして最後に生き残ったイデオロギー的父ーー「マルクスの父」に代表される==が、1989年に決定的に死んだ。
1990年以降現在までは、新自由主義という非イデオロギー的イデオロギーの時代、資本の論理の時代、むき出しの市場原理の時代ということになる。
心を留めて視なくとも、今の家内の調子がむかしとは大に相違するは文三にも解る。以前まだ文三がこの調子を成す一つの要素で有ッて、人々が眼を見合しては微笑し、幸福といわずして幸福を楽んでいたころは家内全体に生温い春風が吹渡ッたように、総て穏に、和いで、沈着いて、見る事聞く事が尽く自然に適ッていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強ちにそれを足そうともせず、却って今は足らぬが当然と思っていたように、急かず、騒がず、優游として時機の熟するを竢っていた、その心の長閑さ、寛さ、今憶い出しても、閉じた眉が開くばかりな……そのころは人々の心が期せずして自ら一致し、同じ事を念い、同じ事を楽んで、強ちそれを匿くそうともせず、また匿くすまいともせず﹆胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事は云わず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親で無い親、――も、こう三人集ッたところに、誰が作り出すともなく、自らに清く、穏な、優しい調子を作り出して、それに随れて物を言い、事をしたから、人々があたかも平生の我よりは優ったようで、お政のような婦人でさえ、尚お何処か頼もし気な所が有ったのみならず、却ってこれが間に介まらねば、余り両人の間が接近しすぎて穏さを欠くので、お政は文三等の幸福を成すに無て叶わぬ人物とさえ思われた。が、その温な愛念も、幸福界も、優しい調子も、嬉しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になッてから、取分けて昇が全く家内へ立入ったから、皆突然に色が褪め、気が抜けだして、遂に今日この頃のこの有様となった……
今の家内の有様を見れば、もはや以前のような和いだ所も無ければ、沈着いた所もなく、放心に見渡せば、総て華かに、賑かで、心配もなく、気あつかいも無く、浮々として面白そうに見えるものの、熟々視れば、それは皆衣物で、躶体にすれば、見るも汚わしい私欲、貪婪、淫褻、不義、無情の塊で有る。以前人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢を洗った愛念もなく、人々己一個の私をのみ思ッて、己が自恣に物を言い、己が自恣に挙動う﹆欺いたり、欺かれたり、戯言に託して人の意を測ッてみたり、二つ意味の有る言を云ってみたり、疑ッてみたり、信じてみたり、――いろいろさまざまに不徳を尽す。(四迷『浮雲』)
この「今の家内」を「現在の世界資本主義」に置き換えてさえ読めるんじゃないだろうか?
疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014,Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーーラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈)
善の陳腐さだっていいさ、愛他主義・協調・連帯ってのはどこに行っちまったんだろ? 1960年代には日本にも次のような気配があったんじゃなかろうか。
そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強ちにそれを足そうともせず、却って今は足らぬが当然と思っていたように、急かず、騒がず、優游として時機の熟するを竢っていた、その心の長閑さ、寛さ、今憶い出しても、閉じた眉が開くばかりな……
やっぱり20世紀の三度の父の死が痛かったんだよ。
①第一次世界大戦の終戦(1918年)により、ヴィクトリア朝モラルの社会、全き父権制社会伝統的な階級構造と支配的な宗教による「禁止」、超=強制倫理の支配する時代が死んだ。
②その後、縮小再生産された「小さな父」の権威も1968年の学園紛争で死んだ。
③そして最後に生き残ったイデオロギー的父ーー「マルクスの父」に代表される==が、1989年に決定的に死んだ。
1990年以降現在までは、新自由主義という非イデオロギー的イデオロギーの時代、資本の論理の時代、むき出しの市場原理の時代ということになる。
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)
1990年以降の「市場原理主義」の時代の標語は、生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々だろう。これら「経済のディスクール」が席捲する時代は、「エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性」という人間のタナトス的性格が支配する時代、すなわち弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代だ、《事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから》(柄谷行人)、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(中井久夫)。
我々の社会は、絶えまなく言い張っている、誰もがただ懸命に努力すればうまくいくと。その特典を促進しつつ、張り詰め疲弊した市民たちへの増えつづける圧迫を与えつつ、である。 ますます数多くの人びとがうまくいかなくなり、屈辱感を覚える。罪悪感や恥辱感を抱く。我々は延々と告げられている、我々の生の選択はかつてなく自由だと。しかし、成功物語の外部での選択の自由は限られている。さらに、うまくいかない者たちは、「負け犬」あるいは、社会保障制度に乗じる「居候」と見なされる。(ヴェルハーゲ「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらした Neoliberalism has brought out the worst in us"」Guardian(2014.09.29))
こういった文脈のなかでラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールは《私たちは、父たちを彼らの役割へと教え直したい世紀のなかにいる。》( Colette Soler,PDF)ということになる………………………………
ところで四迷は坪内逍遥から「三遊亭圓朝の落語のように書いてみたら?」とすすめられてあの文体が出来上がったそうだ。というわけで圓朝をすこし覗いてみたら愉快な文に行き当たった。
その昔は場末の湯屋は皆入込みでございまして、男女一つに湯に入るのは何処かに愛敬のあるもので、これは自然陰陽の道理で、男の方では女の肌へくっついて入湯を致すのが、色気ではござりませんが只何となくいゝ様な心持で、只今では風俗正しく、湯に仕切りが出来まして男女の別が厳しくなりましたが、近頃までは間が竹の打付格子に成って居りまして、向うが見えるようになって居りますから、左の方を見たいと思うと右の頬ばかり洗って居りますゆえ、片面が垢で斑になっているお人があります。(三遊亭円朝『業平文治漂流奇談』)
なぜ銭湯の混浴なくなっちまったんだろ? 愛他主義はああいったところから始まるんじゃなかろうか・・・
其の頃本所中の郷に杉の湯と云うのがありました。家の前に大きな杉の木がありますから綽名して杉の湯〳〵と云いますので、此の湯へ日暮方になって毎日入湯に参りますのは、年のころ廿四五で、髪は達摩返しに結いまして、藍の小弁慶の衣服に八反と黒繻子の腹合の帯を引掛けに締め、吾妻下駄を穿いて参りますのを、男が目を付けますが、此の女はたぎって美人と云う程ではありませんが、どこか人好きのする顔で、鼻は摘みッ鼻で、髪の毛の艶が好くて、小股が切上って居る上等物です。
丁度九月二日の事で、常の如く番頭さんが女の方へ摺寄って来るとき、女の方で番頭の手へ小指を引掛けたから、手を握ろうとすると無くなって仕舞うから、恰で金魚を探すようで、女の脊中を撫でたりお尻を抓ったりします。………(同上三遊亭円朝)