2017年1月13日金曜日

公的自我理想の背後にある猥褻な超自我

我々は、公的法とその幻想的支え(猥褻な超自我による補填)とのあいだの緊張を置き残して、社会の革命的夢に執着すべきだろうか。そもそもこの緊張は削減しえないものなのだろうか。もし削減しえないなら、諦観し切った保守派の結論をいかにして避けうるというのか? 保守派の言い草とは、どの革命的動乱も、その猥褻な生得の逸脱を通して再生産される専横的秩序の新しいヴァージョンで終わるというものだ。歴史の教訓は、この逆戻りの不可避性を確証しているように見える。(ロレンツォ・キエーザ2004, Lorenzo Chiesa, “Imaginary , Symbolic and Real Otherness)

ーーという文を拾ったので、以下、「自我理想と超自我の相違(基本版)」補遺メモ。

ロレンツォ・キエーザの問いは、ジジェクによれば(『パララックス・ヴュ―』)、ラカン派政治理論の鍵となる問い。

1968年の学園紛争のおりのラカンによる学生たちに向けての言明。

君たち、革命家よ! 君たちは主人を探し求めている。見つかるだろうよ。

Ce à quoi vous aspirez comme révolutionnaire, c’est à un Maître. Vous l’aurez.(Lacan)

…………

まずロレンツォとジジェクらの理想自我・自我理想・超自我の定義は「基本版」を参照してもらうことにして、ボロメオ結びにおける理想自我・自我理想・超自我(想像界/象徴界/現実界)を図示すれば次の通り。






最も基本的な考え方は次の文を参照。

ボロメオ結びにおいて、想像界の環は現実界の環を被っている。象徴界の環は想像界の環を被っている。だが象徴界自体は現実界の環に被われている…。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ1999, DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE, ,PDF
…………

以下、いままで引用してきた文の抜粋。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)

【社会的自我理想と猥褻な超自我】
二〇〇五年十一月、ブッシュ大統領は「われわれは拷問していない」と声高に主張しつつ、同時に、ジョン・マケインが提出した法案、すなわちアメリカの不利益になるとして囚人の拷問を禁止する(ということは、拷問があるという事実をあっさり認めた)法案を拒否した。われわれはこの無定見を、公的言説、つまり 社会的自我理想と、猥雑で超自我的な共犯者との間の引っ張り合いと解釈すべきであろう。もしまだ証拠が必要ならば、これもまたフロイトのいう超自我という 概念が今なお現実性を保っていることの証拠である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

次の文は公的な法となっているが、社会的自我理想とほぼ等価であろう。


【公的な法/超自我的猥褻さ】
公的な法はなんらかの隠された超自我的猥褻さによる支えを必要とする事実が、今日ほど現実的になったことはかつてない。ロブ・ライナー監督の『ア・フュー・グッド・メン』を思い出してみよう。ふたりの米海軍兵士が、同僚を殺した罪で軍法会議にかけられる。軍検察官は計画的殺人だと主張するが、弁護側(トム・クルーズとデミ・ムーアという最強コンビだから裁判に負けるはずはない)は被告人たちがいわゆる「コード・レッド」に従っただけなのだということを立証してみせる。この掟は、海兵隊の倫理基準を破った同僚を夜ひそかに殴打してもよいという、軍内部の不文律だった。このような掟は違法行為を宥恕するものであり、非合法であるが、同時に集団の団結を強化するという役目をもっている。夜の闇に紛れ、誰にも知られず、完璧におこなわれなければならない。公の場では、誰もがそれについて何も知らないことになっている。いや積極的にそのような掟の存在を否定する(したがって映画のクライマックスは、予想通り、殴打を命じた将校ジャック・ニコルソンの怒りの爆発である。彼が公の場で怒りを爆発させたということは、彼の失脚を意味する)。

このような掟は、共同体の明文化された法に背いている一方で、共同体の精神を純粋な形で表象し、個々人に対して強い圧力をかけ、集団の同一化を迫る。明文化された〈法〉とは対照的に、このような超自我的で猥雑な掟は本質的に、人から見えない所で密かに口にされる。そこに、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』の教訓がある。カーツ大佐という人物は野蛮な過去からの生き残りなどではなく、現代の権力そのもの、〈西洋〉の権力の必然的結果である。カーツは完璧な兵士だった。そしてそれゆえに、軍の権力システムへの過剰な同一化を通じて、そのシステムが排除すべき過剰へと変身してしまったのである。『地獄の黙示録』の究極の洞察はこうだーー権力はそれ自体の過剰を生み出し、それを抹殺しなければならなくなるが、その操作は権力が戦っているものを映し出す(カーツを殺すというウィラードの任務は公式の記録には残らない。ウィラードに命令を下す将軍が指摘するように、「それは起きなかった」ことなのである。)(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

次の「ペドフィリア生産装置としての教会」とも題せる文章も同様。

【神父のアイデンティティ(自我理想)の構成/闇の奥(猥褻な超自我)】
…こうして我々は慣習の「闇の奥」に至ることになる。思い起こしてみよう、カトリック教会を掻き乱すペドフィリアのおびただしい事例を。その代理人たちは、これらの事例はひどく嘆かわしいが、教会内部の問題であると主張し、その取り調べにおいて、警察との共同捜索にひどく気が進まない様子だ。

彼らはある意味では正しい。カトリック神父の小児性愛は、単にその「人物」に関わる何かではない。組織としての教会に無関係な私的履歴による偶発的な理由せいで、たまたま神父という職業を選ぶことになったのではない。

それは、カトリック教会それ自体にかかわる現象、社会-象徴的組織としてのまさにその機能に刻印されている現象である。個人の「私的な」無意識にかかわるのではなく、組織自体の「無意識」にかかわるものなのだ。ペドフィリアは、組織が生き残るために、性的衝動生活の病理上現実に適応しなければならない何かではない。そうではなく、組織自体が自らを再生するために必要な何かである。

人は充分に想像できるだろう、「ストレートな」(非小児性愛者の)神父が、その職を何年か勤めた後、小児性愛に溺れこむことを。というのは、組織の論理そのものが彼をそうするように誘惑するから。このような組織的無意識は、猥褻な否認された裏面を示している。まさに否認されたものとして、それは公的組織を支えているのだ(軍隊におけるこの裏面は、性的虐待などの猥褻な性化された儀式で成り立っており、それが集団の連帯を支えている)。

言い換えれば、単純にはこうではない。すなわち、教会は、体制順応主義者的な理由で、当惑させられるペドフィリア醜聞をもみ消そうとするのではない。(逆に)自身を守るとき、教会は内密の猥褻なな秘密を守ろうとしているのだ。これが意味するのは、この秘かな面に自身を同一化することが、キリスト教神父のまさにアイデンティティの構成物であるということだ。もし神父が深刻に(ただの修辞的な深刻さではなく)これらの醜聞を非難したら、彼は聖職コミュニティから締め出される。彼はもはや「我々の一員」ではない(1920年代の米国南部のある町の市民と全く同じように、である。もし市民が、クー・クラックス・クラン(黒人排斥の白人史上主義秘密結社)を警察に告発したら、彼はコミュニティから締め出された。すなわち基本的連帯の裏切者になった)。

したがって、スキャンダルの捜索にひどく気の進まない教会への応じ方は、「我々は犯罪事例を扱っている」とただ難詰するのみにすべきではない。そうではなく、もし教会がその捜索に十分に参加しないなら、犯行の共犯者であると応じるべきだ。さらに、組織としての教会「それ自体」が取り調べを受けるべきだ。あのような犯罪への条件をシステム的に作った仕方に関しての取り調べである。

慣習の猥褻なアンダーグランドは、実に変えるのが困難なものだ。この理由で、すべてのラディカルな解放策は、 フロイトが夢解釈にとっての標語として選んだ Virgil からの引用文と同じである。すなわち「Acheronta movebo(冥界を動かす)」ーー、敢えてアンダーグランドを動かせ! Tolerance as an Ideological Category ,2007,Slavoj Zizekより(Tolerance as an Ideological Category ,2007,Slavoj Zizek、私訳)

…………

【フロイトの『集団心理学と自我の分析』版】


《集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と「退行的な」原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも「退行的な」原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的「死の欲動」の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(……)

われわれはフロイトの立場に少なくとも三つの点を付け加えるべきだ。第一に、フロイトは人為的集団の教会モデルと軍隊モデルのはっきりした区別をしていない。「教会」はヒエラルキー的な社会秩序を表わし、平和と均衡を必要にせまられた妥協をもって維持しようとする。「軍隊」は、平等主義の集団を表わし、内的なヒエラルキーによって定義されるのではなく、彼らを破壊しようとする敵への対抗勢力として定義される。――ラディカルな解放運動は、常に軍隊がモデルであり、決して教会ではない。千年至福の教会millenarian churchesは実のところ軍隊のように組織されている。

第二に、「退行的な」原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の「自然な」基礎ではない。彼らは後に来るのだ、「人為的な」集団を維持するための猥褻な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥褻な享楽を提供する。

最後に挙げるがけっして重要性に劣るわけでないものとして、そもそも野性的な暴徒とは、本当に社会的つながりの野放しのゼロ度なのだろうか? むしろ社会組織に及ぶギャップもしくは非一貫性への自制心を失った反動なのではないか。暴徒の暴力は、定義上、社会的ギャップの外部の原因として、(誤)認知された対象に向かう(たとえば、ユダヤ人)。まるでその対象が破壊されれば社会的ギャップが廃棄されるかのようにして。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012, 私訳)

《集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な欲動が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


…………

【自我理想による集団結合】

以下、自我理想による集団結合の例。

同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴 einzigen Zug」)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921ーー「一の徴」日記③

フロイトによる自我理想の有名な図式は次の通り(『集団心理学と自我の分析』)。




この図を横軸と縦軸を変換させて簡潔に記せば次のようになる(コレット・ソレールによる図式)。



「trait unaire」とは上に掲げたフロイト文にある「一の徴 einzigen Zug」のことである。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

ラカンにとって「一の徴 trait unaire」が自我理想とほぼ等価であるのは次の二文が示している。

この全能の徽章 insigne として、単に一つのシニフィアンを取り上げなさい。すなわち、この全き可能態における力 pouvoir tout en puissance・可能性の生誕の徴として徽章を。そうすればあなた方は「一の徴 trait unaire」を得る。その「一の徴」とは、主体がシニフィアンから受け取る不可視の徴 marque invisible を塞ぎ埋め combler、この主体を最初の同一化ーー自我理想 l'idéal du, moi を形成する同一化ーーのなかに疎外 aliène(同一化・異化)する。(Lacan,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960, E.808)
「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)



【日常的な集団結合の事例】
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)
例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは必要がない。

フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の関係性(密かな恋の危機)の瞬間に現われた「徴 trait」に同一化する形である。

この例は実に最も得るところが大きい。というのは、ラカンがこのフロイトの概念にかんして取り上げた二つの本質的な点を包含しているから。第一に、「一の徴」は、まったく気まぐれなものである。もちろん、同一化の点において「その徴を取り上げる」主体にとっての意義は、まったく気まぐれなものではない。この「徴」の類なさとは、次の事実から生じる。それは、主体の満足あるいは享楽への関係性を徴づけるのだ。すなわち、彼女らの結合の点(あるいは痕跡)を徴づけるのである。これは寄宿舎の例においてことさら明瞭である。

この例においては、何か別のものがまた明らかになっている。最初の少女のヒステリーの発作は、「徴」である(この事例では、すでに症状だが)。この徴が彼女の情事を想起させる。想起させるのは、少女が愛する対象を喪う切迫した危機にあるまさにその瞬間において、すなわち嫉妬によってだ。これは、ラカンがフロイトから取り上げて強調した二番目の重要なポイントである。それは、喪失と「一の徴」、そして埋め合わされた満足との間のつながりにかかわる。(Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value Reflections on Seminar XVII,,2006)