2017年1月14日土曜日

「自我理想‐超自我」混淆

すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ。(ニーチェ遺稿「生成の無垢」)
一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(Lacan, S17, 18 Février 1970ーー 原超自我 surmoi primordial
無意識の仮説、それはフロイトが強調したように、父の名を想定することによってのみ支えられる。父の名の想定とは、もちろん神のことである。

L'hypothèse de l'Inconscient - FREUD le souligne - c'est quelque chose qui ne peut tenir qu'à supposer le Nom-du-Père.Supposer le Nom-du-Père, certes, c'est Dieu.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)

…………


公的自我理想の背後にある猥褻な超自我」にて、最後のほうで次の文を引用した。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

この「正義」という言語記号は、もちろんまずは、自我理想のシニフィアン、「一の徴 trait unaire」のシニフィアンのひとつとして機能している。

自我理想とは、人が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体・人を監視し人に最大限の努力をさせる〈大他者〉・人が憧れ、現実化したいと願う理想である。

この「自我理想」=「一の徴」とは、集団を「水平的にー想像的に」統合するための「超越論的ー象徴的」シニフィアンである。




ラカン派的観点からの問題は、自我理想の背後には、--この集団を維持するためにーー必ず猥褻な補完物としての超自我があるということであり、そのジジェクによる事例のいくつかを前回見た。これはもちろん宗教集団も同じ構造をしている。正義の箇所に「神」や「神の愛」を代入するだけでよい。

ところで超自我とは攻撃欲動の化身であることを少し前に見た(「自我理想と超自我の相違(基本版)」)。

……超自我の最も純粋な働き。それは自己破壊の渦巻く循環へと我々を操る猥褻な作用である。

超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な中核ーードイツの観念論者が「否定性」と呼んだもの・フロイトが「死の欲動」と呼んだものーーを曖昧化することにある。超自我とは、現実界のトラウマ的中核からその昇華によって我々を保護してくれるものであるどころか、超自我そのものが、現実界を仕切る仮面なのである。(ZIZEK"LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

晩年のフロイトからも二つの文を引用しよう。

超自我が組み込まれると、攻撃欲動のかなりの部分が自我の内部に固定され、そこで自己破壊的に働くようになる。これは、人が文化の発展への道において自ら引き受ける、健康衛生上の危険である。攻撃性を抑えておくことはそもそも不健康であり、(その人を傷つけて)病気を作り出す性質を持つ。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
攻撃性向 Aggressionsneigung は人間生得に内在する欲動機能 Triebanlage である。…これは文化にとって最大の障害である…。文化は、最初は個々の人間を、のちには家族を、さらには部族・民族・国家などを、一つの大きな単位――すなわち人類――へ統合しようとするエロスのためのプロセスである。……

これらの人間集団は、リビドーの力によってたがいに結びつけられなければならない。……ところが、人間に生まれつき備わっている攻撃欲動 Aggressionstrieb…がこの文化のプログラムに反対する。この攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。……文化とは、人類を舞台にした、エロスと死のあいだの、生の欲動と死の欲動のあいだの戦いなのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年、旧訳p.477、一部変更)


基本的には、自我理想はエロスの機能、超自我はタナトスの機能をもつとしてよい。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛と neikos 闘争 ――は、その名称からいって も機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊 beiden Urtriebe Eros und Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一Vorhandene zu immer größeren Einheitenに包括zusammenzufassenしようと努める。タナトスはそのアソシエーション Vereinigungen を解体 aufzulösen し、統一によって生まれたものdie durch sie entstandenen Gebilde(融合)を破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
おそらく判断ということを研究してみて始めて、第一次的な欲動の戯れ Spiel der primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれるであろう。判断は、もともと快原則にしたがって生じた自我の取り入れ Einbeziehung、ないしは自我からの排除 Ausstoßung の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。肯定 Bejahungーー結合 Vereinigung の代理 Ersatz ーーはエロスに属する。否定 Verneinungーー排除 Ausstoßung の後継 Nachfolgeーーは破壊欲動 Destruktionstrieb に属する。(フロイト『否定』1925年)


「自我の取り入れ」という表現があるが、自我はまさに自我理想を取り入れるのであり、その反動として排除・タナトスが生じる。

最も具体的でわかりやすい例は、次の文だろう。

ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・バーハウ 1998、Paul Verhaeghe,THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

フロイトのいう攻撃欲動が《人間生得に内在する欲動機能》である側面を除外しても、なぜエロス的融合によって攻撃欲動が必然的に生じるかといえば、完全に融合してしまえば自らのアイデンティティを喪失してしまうからである。ラカン派では同一化とは疎外ともいい、臨床的には、それを人は怖れる(たとえば愛の融合への魅惑と戦慄 fascinans et tremendum → その反動としての分離)。

これは集団心理学においても同じである。集団統合の理想が完全になされれば個々の国の「主体=アイデンティティ」は消滅してしまう。その反撥として攻撃欲動・破壊欲動が露顕し、その欲動を内部の紛糾・闘争に向かわせないためには、外部に向ける必要がある。

すなわち、ユーラシア大陸の西端の陸塊にすぎないとはいえ、その「ヨーロッパ半島」におけるヨーロッパ共同体という「自我理想」を自らを維持するためには、外敵との「戦争行為」が必要であった・・・中東でのいくらかの外部への攻撃欲動振り向けはあったにしろ、英国脱退を押しとどめるには、もうすこし華々しく戦いをやる必要があったのだろう・・・

いずれにせよ自我理想と超自我は表裏一体である。それはフロイトにエロスとタナトスの「欲動混淆Triebvermischung 」という概念があるように。

ラカンの見解では、超自我 surmoi は自我理想 idéal du moi とはっきりと差別化される必要があるとはいえ、超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。両方とも、主体が徴づけられた欠如への関わりとして機能する。その欠如とは、自我と理想自我 moi idéal とのあいだの相互作用にすべて関係がある。 

自我理想はこの欠如との関係において「橋を架ける」機能を持つとラカンは言明している。…

超自我は、逆転した効果・分割効果を持つ。ラカン(E.684)は、超自我を次のように特徴づけている。すなわち、「如何に人があるか」(自我)と「如何に人がありうるか」(理想自我)とのあいだの差異を指摘する「内なる声」として。

事実上、超自我の指摘は、「如何に人がありうるか」の考えを「如何に人はあるべきか」の命令へと変換する。そのようにして、主体の欠陥を強調することになる。いくらか《得意にさせる exaltant》形で機能する自我理想とは対照的に、超自我は《強制する contraignant》効果を持つ(S.1)。超自我から湧き起こる無慈悲な非難は、自我理想によって励まされた完全性の期待を与える錯覚を粉々にする。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005,PDF)

すこし長くなるが、以下のフロイトによるマゾヒズム論文は、示唆溢れる指摘に溢れているので「欲動混淆」概念の出現箇所の前後を含めて引用しておこう。フロイトは「権力への意志」を死の欲動と等価としていることにも注目したい。

は、『性欲論三篇』中の一章において幼児期性愛 infantilen Sexualität の源泉に関してこう主張した。性的興奮 Sexualerregung は、きわめて数多くの内的事象がある量的限度を越えて強烈なものになるや否や、その副作用として発生する。いやおそらく、有機体中に生起する一切の重要なことは、かならずその構成要素を性欲動興奮 Erregung des Sexualtriebes のために役立たせるような性質を持っているのであろう。したがって、苦痛興奮や不快興奮Schmerz- und Unlusterregung もまたそのような作用をおよぼすにちがいない。苦痛・不快緊張 Schmerz- und Unlustspannung におけるこうした随伴的リピドー興奮 libidinöse Miterregung は後年には枯渇するところの幼児的生理的機制なのではあるまいか。この随伴的リビドー興奮は性的体質の異なるに応じて異なった発達度を持ち、いずれにせよ、のちに心理学的には性愛的マゾヒズム erogener Masochismus というものを作りあげるところの生理学的基盤をなすものではあるまいか。

しかし、この説明には不充分なところがあって、マゾヒズムと、欲動生活の上でその敵対者となっているところのサディズムとの規則的で緊密な関係は、このような説明では少しも明らかにはならない。さらにもう一歩遠く遡って、生物体中にはたらいていると考えられるところの二種類の欲動という仮説にまでたちもどると、われわれは上述のものと矛盾することのない、別の筋道に到達する。

(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊欲動 Destruktionstrieb に敵対する。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態(たといそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。

それが破壊欲動 Destruktionstrieb とか征服欲動 Bemächtigungstrieb とか権力への意志 Wille zur Macht とかいうものなのであろう。この欲動の一部が直接性愛機能 Sexualfunktion に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズムである。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性的興奮によってそこにリビドー的に拘束されるlibidinös gebunden。これが原初的な、性愛的マゾヒズムMasochismus zu erkennenである。

リビドーによる死の欲動のかかる飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも百パーセントに純粋な死の欲動や生の欲動というものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混合型 Triebvermischung (欲動混淆)がいつも問題にされざるをえないのだということである。同様にして、ある種の作用の下では、いったん混合した二欲動がふたたび分離することもあるらしいが、死の欲動のうちどれほどの部分が、リビドー的付加物に拘束することによる飼い馴らしを免れているかは、目下のところ推察できない。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に転移され終わったのち、その残余として有機体内には本来の性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として生命体そのものを自己の対象とする。かくてこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向けられた投射されたサディズム、あるいは破壊欲動がふたたび摂取され内面に向けられうる projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb wieder introjiziert, nach innen gewendet werden kann のであって、かかる方法で以前の状況に組みいれられると聞かされても驚くには当たらない。これが二次的マゾヒズムなのであって、これは本来の(一次的)マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus (1924) フロイト著作集 6 P303-304、一部変更)

ここで最晩年のニーチェを引用しよう。

権力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)


この「情動Affekte」は、欲動とほとんど等価である。実際に、欲動と訳している研究者もいる(『「権力への意志」の冒険』砂原陽一、PDF)。

そして、《すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》(Lacan Ecrit848)。

以下のフロイト文は、柄谷行人が『憲法と無意識』論などにも援用している箇所とその前段である。柄谷にとって「憲法の無意識」とは「憲法の超自我」である。その論理にいくらか危ういところがあるようにみえるのは、彼はフロイトと同様、自我理想と超自我を区別していないせいであろう。

《フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。…………》(ジジェク、2006

さてもう一度、フロイトの『マゾヒズムの経済的問題』からである。

サディズムの刃が自分自身に向け戻されるという事態は、文化的な欲動の禁圧のあるところにはかならず起こるものであり、この禁圧は、ある人間の破壊的欲動要素の大部分を実人生において消費することを妨げる。このような破壊欲動のまいもどってきた部分が、マゾヒズムの高まりとして自我の中に現れてくると考えられる。しかし良心がしめす諸現象から推察されるように、外界から回帰する破壊欲動はこうした変換を受けずに超自我によって受容されて、超自我の自我に対するサディズムを煽りたてる。

超自我のサディズムと自我のマゾヒズムは相互に補いあい、力を合わせて同一の諸結果を生みだす。思うに、こう考えてこそ本能の禁止からーーしばしばまたはまったく一般的にーー罪悪感が生まれてくるということが理解されるのであり、ある人が他人にたいする攻撃を抑制すれば抑制するほど、良心はそれだけいっそう厳格で過敏なものになるということも分かるのである。かくて、自分は文化的に好ましからざる攻撃をいつも避けていると自ら知っているような個人は、〈攻撃を避けているという点では〉立派な良心の持ち主であるが〈自分が攻撃を避けていると自負しているという点では〉自らの自我をさほど疑心暗鬼に監視していない、と予想することができよう。人は通常、最初に倫理的要請があり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明のままである。実際はその反対に進行するように思われる。最初の欲動断念は、外部の力によって強制されたものであり、この欲動断念がはじめて倫理性を生み出し、それが良心というかたちで表現され、欲動断念をさらに求めるのである。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924、旧訳pp.308-309、一部変更)