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2016年12月5日月曜日

「一の徴」日記③

「一の徴」日記を①② と続けたが、ここでフロイトに戻ってeinzigen Zug ーーラカンの「一の徴 trait unaire」ーーを再確認しておくことにする。

もっともラカンはフロイトの概念を大幅に拡張してその理論を展開したのだが。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

ジジェクの言っていることは決して誇張ではない、《フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの Ie trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

さてフロイトの『集団心理学と自我の分析』1921からである。

自我が同一化のさいに、ときには好ましくない人物を、また、ときには愛する人物を模写することは注目に値する。両方の場合はいずれもこの同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひくにちがいない。

症状形成の第三の、とくにひんぱんで重要な実例は、同一化が模写した人物との対象関係をまったく度外視する場合である。たとえば寄宿舎の一人の少女が秘密の恋人から手紙を受けとり、その手紙が彼女の嫉妬を刺激した結果、ヒステリーの発作で反応するとき、それを知った彼女の二、三の女友達は、いわば心理的伝染によっておなじ発作を起こすだろう。この機制は、おなじ状態に身を置く能力、または置こうとする欲求にもとづく同一化の機制である。その女友達も秘密の恋愛関係をもちたいとおもい、罪意識の中で、その恋愛につきまとう苦悩をも引き受けるのである。

彼女たちは同情 Mitgefueh からその症状を自分たちのものにしているのだ、と主張することは正しくないだろう。その反対に、同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。その証拠に、このような伝染ないし模倣は、寄宿生の場合よりも、相互のあいだに、ずっとわずかしか一時の共感があるにすぎない事情の中でも行なわれるからである。

一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例で言えば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される。そして、病的な事情の影響下では、この同一化は、一人の自我が創り出した症状にまでおよぶのである。このようにして、症状を通しての同一化は、二つの自我の重複地帯にたいする目じるしとなるが、この地帯は抑圧されていなければならないものである。

…われわれは、この三つの源泉から学んだことを、次のように要約することができよう。第一に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどって、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』人文書院旧訳からだが一部変更)

以下、ジュパンチッチ2006による注釈。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは必要がない。

フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の関係性(密かな恋の危機)の瞬間に現われた「徴 trait」に同一化する形である。

この例は実に最も得るところが大きい。というのは、ラカンがこのフロイトの概念にかんして取り上げた二つの本質的な点を包含しているから。第一に、「一の徴」は、まったく気まぐれなものである。もちろん、同一化の点において「その徴を取り上げる」主体にとっての意義は、まったく気まぐれなものではない。この「徴」の類なさとは、次の事実から生じる。それは、主体の満足あるいは享楽への関係性を徴づけるのだ。すなわち、彼女らの結合の点(あるいは痕跡)を徴づけるのである。これは寄宿舎の例においてことさら明瞭である。

この例においては、何か別のものがまた明らかになっている。最初の少女のヒステリーの発作は、「徴」である(この事例では、すでに症状だが)。この徴が彼女の情事を想起させる。想起させるのは、少女が愛する対象を喪う切迫した危機にあるまさにその瞬間において、すなわち嫉妬によってだ。これは、ラカンがフロイトから取り上げて強調した二番目の重要なポイントである。それは、喪失と「一の徴」、そして埋め合わされた満足との間のつながりにかかわる。(Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value Reflections on Seminar XVII,,2006)


ラカンが「一の徴」概念を中心的に話題にしたのは、セミネール9 とセミネール17 だが、晩年までこの概念に拘っている。

セミネール24(16 Novembre 1976)には次のように記されている。

l'identification « paternelle »
l'identification « hystérique »
l'identification « à un trait »

上の文を別の叙述を拾って補足摘要すれば、

①父-愛への同一化 l'identification au père、l'identification amoureuse

②ヒステリー的同一化 l'identification hystérique(大他者の欲望への同一化) 

③ある徴 un trait、「一の徴 trait unaire」で作り上げられた fabrique 同一化

さらにラカンは、無関心な人物でもこの「一の徴」を基礎に構成された同一化が起こることをーー冒頭に引用したフロイトの『集団心理学と自我の分析』と同様にーーくりかえし強調している。

Une personne peut être indifférente et un trait unaire choisi comme constituant la base d'une identification.

セミネール22からも拾っておこう。

もしリアルな大他者があるなら、結び目じたい以外の何ものでもない。なぜなら大他者の大他者はないのだから。

s'il y a un Autre réel, il n'est pas ailleurs que dans le nœud même et c'est en cela qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre.

リアルな大他者は、あなたを想像界に同一化させる。そのとき、あなたは大他者の欲望へのヒステリー的同一化をする。

Cet Autre réel, faites-vous identifier à son Imaginaire, vous avez alors l'identification de l'hystérique au désir de l'Autre…

リアルな大他者の象徴界にあなた自身を同一化してみなさい。それは私が einziger Zug、trait unaire として特定した同一化である。

Identifiez-vous au Symbolique de l'Autre Réel, vous avez alors cette identification que j'ai spécifiée de l'einziger Zug, du trait unaire.

リアルな大他者の現実界にあなた自身を同一化してみなさい。あなたは、私が父の名として指示したものを獲得する。そしてそれは、フロイトが愛にかかわる同一化として叙述したものである。

Identifiez-vous au Réel de l'Autre réel, vous obtenez ce que j'ai indiqué du Nom-du-Père, et c'est là que FREUD désigne ce que l'identification a à faire avec l'amour.(ラカン、S22、8 Mars 1975)

フロイトのエディプス理論に戻ってしまったじゃないか、いささかそう見えないでもないという見解があるのは、「「一の徴」日記②」の末尾に引用されているポール・ヴェルハーゲによるもの。ほかにも「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」を参照。だがそれは臨床家の方々にまかせ、ここではメモに徹する。

三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名と呼ぶもの que FREGE appelle noms propres である。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)
父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(ラカン、S22,.11 Mars 1975)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008
刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。…(場合によって)仕事の喪失は精神病を引き起こす。というのは、仕事は、生活手段以上のものを意味するから。仕事を持つことは「父の名」だ。

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。 (ミレール、2009. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳,PDF

基本的にはイデオロギー的父の名との同一化はやめて、個人独自の父の名=サントームを発明しないさい、ということではある。

なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

このシニフィアンや父の名、あるいはサントームは、「一の徴」(自我理想)の変種である。


この全能の徽章 insigne として、単に一つのシニフィアンを取り上げなさい。すなわち、この全き可能態における力 pouvoir tout en puissance・可能性の生誕の徴として徽章を。そうすればあなた方は「一の徴 trait unaire」を得る。その「一の徴」とは、主体がシニフィアンから受け取る不可視の徴 marque invisible を塞ぎ埋め combler、この主体を最初の同一化ーー自我理想 l'idéal du, moi を形成する同一化ーーのなかに疎外 aliène(同一化・異化)する。(Lacan,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960, E.808)
「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966ーー「一の徴」日記②)
われわれはシニフィアンの集合 batterie du signifiant における単一の印 trait unique、einziger zug に当面しているのである。 シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante を構成するあらゆる要素と交換可能なものであり、それだけでそして常に同じものとしてこの連鎖を支えることができるのである。

消失していく主体のデカルト的経験そのものの限界に見出すのは、この保証の必要性、もっとも単純な構造の特徴、まったく非人格化した、単一の印 trait unique の必要性である。それは単に主体的なあらゆる内容の抽象のみではなく、この印、単一の印であることによって「一」である Un d'être le trait unique この印を超えるすべての変化を抽象する非人格化である。この印が構成する一の基盤づけはその単一性unicité にのみ由来する。これについては何よりも印として構成されるもの、この印に支持されることによって、すべてのシニフィアンに共通するものとしか言うことができない。

われわれの具体的な経験においてこのようなものにめぐり合うことがあるだろうか。これは哲学思想に多大な被害を与えた機能、つまり古典的伝統におけるすべての主体の構成が持っているほとんど必然的に観念論的な傾向にたいして理想化の機能 fonction d'idéalisation を置き換えるということである。

私が自我理想の形態 la forme de l'idéal du moi のもとに説明した構造的必要性がこの機能の上に成立するのである。根源的なシニフィアンへの主体の始源的同一化という、神話的なものではなく、まったく具体的なもの、 プロチヌスの一者からではなく単一の印 trait unique そのものから出発して、知らない者としての主体の展望が厳密に開くのである。今回はもっとも困難なものについて考察したのであって、これを通してより実践的な定式化が可能であることを期待しよう。(ラカン、S.9、22 Novembre 1961、向井雅明試訳ーー「一の徴」日記


サントームは、症状と幻想の混淆物ーーLe sinthome, un mixte entre symptôme et fantasme (ミレール 1998)であるなら、新しいシニフィアンを発明してそれが機能するように幻想に励みなさいということなのか?

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


ミレール派のThomas Svolosは、「ファミリーロマンスの構築」などという言葉さえ口にしている

サントームの臨床は、「普通の精神病」をもった主体の治療により大きな融通性をもたらしてくれる。排除の臨床では、治療は、父の名に錨を下ろした意味作用の流れに沿って方向づけられる。この臨床における享楽は、想像化された享楽imaginarized jouissanceであると、ミレールは特定する。すなわち象徴化の過程で避難させられた享楽だ、と。

反対に、サントームの臨床は、ラカンのララングによって示された方向に沿って組織される。それはシニフィアンと享楽のあいだの直接のリンクの上に築かれる。享楽の避難は、治療に効果を表す問題でありうるとはいえ、治療は意味作用や享楽の除去に向うだけではなく、意味作用と享楽のリンクに向かう。

エリック・ロランが特定するように、S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行が、普通の精神病の臨床において決定的である。多くの治療において、享楽の量は元のままである(旧来のフロイトの概念を使用するなら)。とはいえ、精神病者は己れの享楽を飼い馴らす新しい方法を見出す。

主体のサントームは、主体の対象a、享楽のひとつ、彼の存在のサンブラン(見せかけ)に意味作用を持った同一化のリンクをする。このサントームを以て、主体は享楽自体ーーしばしば、精神病者にとってひどく破壊的な享楽ーーを除去するわけではない。むしろ享楽のお茶を濁す方法を見出すのだ。サントームは、精神病者にとってのララングのクッションの綴じ目なのである。

サントームは主体にとって社会的紐帯以外の何ものでもない。神経症の場合、父の名としてのサントームである。その父の名は〈大他者〉を構造化するものであり、あるいは、フロイトの読解なら、社会と無意識を統御するエディプス王、それは言説を統制するアリストテレスのトポスのようなものである。

しかし、その大抵の一般形式においては、サントームは社会的紐帯を構築する。どの話す存在にとっても〈大他者〉は存在しないとはいえ、〈大他者〉のサンブラン(見せかけ)はある。これが主体が利用する〈大他者〉であり世界を捉えるものである。それは、神経症の幻想を通してであったり、精神病者の最も風変りな仕方であったりするが、それらのサントーム的な、かつサンブラン化された〈大他者〉の構造化、ひどく型に嵌らない、〈大他者〉ーートポスの王を統御するあり方。

この状況において、分析家は、主体に作用するひとつの〈大他者〉an Otherを利用することによって、ーーそのひとつの〈大他者〉とは主体のサントームにとってぴったりの〈大他者〉だがーー精神病者を手助けする相当の自由の範囲をもつ。精神病の主体にとっての〈大他者〉the Otherのサンブランの練り上げのこの過程は、治療の方向性にとって、異なる水準を構成する。

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。Thomas Svolos、2008,Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant

 もっとも美や芸術の創造行為、あるいはそれらへの愛でさえ、ファミリーロマンスの一種かもしれないが(ラカンはジョイスをめぐってサントーム概念を語った)。ようは昇華である。性関係の不在と身体の享楽の。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらが原初の対象a(objets a primordiaux)の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(ミレール、2013,JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre)
すべてが見せかけ semblant ではない。ひとつの現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界 Le réel du lien social は、性関係の不在 l'inexistence du rapport sexuel であり、無意識の現実界 Le réel de l'inconscient は話す身体 le corps parlant である。 (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

「真の」芸術家のやっていることも昇華にすぎないかもしれないとはいえ、こうは引用しておこう。

芸術のシーニュが他のあらゆるシーニュにまさっているのは何においてであろうか。それは、他のあらゆるシーニュが物質的だということである。それらはまず第一に、シーニュが発せられていることにおいて物質的であり、シーニュのにない手である事物の中に、なかば含まれている。感覚的性質も、好きな顔も、やはり物質である。(意味作用を持つ感覚的性質が特に匂いであり味であるのは偶然ではない。匂いや味は、最も物質的な性質である。また、好きな顔の中でも、頬と肌理がわれわれをひきつけるのも偶然ではない。) 芸術のシーニュだけが非物質的である。恐らく、ヴァントゥイユの短い楽節は、ピアノとヴァイオリンとから流れでてくるもので、非常によく似た五つのノートがあって、そのうちのふたつが反復される、というように、物質的に分解されるものであろう。しかし、プラトンの場合と同じように、三プラス二は何も説明しない。ピアノは全く別の性質を持った鍵盤の空間的イマージュとしてしか存在せず、ノートは、全く精神的なひとつの実体の《音声的な現われ》としてのみ存在する。《まるで演奏者たちは、その短い楽節が現われるのに要求される儀礼をしているようで、演奏しているようではなかった……》 この点において、短い楽節の印象そのものが、物質なし(シネ・マテリア Sine materia)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』--社交・愛・感覚・芸術のシーニュ

…………

※付記

なぜ「一の徴」との同一化をめぐってラカンは晩年こんなにも模索したのか。

それはラカンの最後の教えは症状(サントーム)との同一化だからだ(サントーム≒「一の徴」であるのは前回みた)。

症状と同一化する s'identifier こと、症状と距離を取りつつ distance, à son symptôme。症状とうまくやっていくこと、これが最後のラカンである(ようするに原症状は治療不可能ということ)。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

《(これはまた)精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。》(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体 analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” 1976)
ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26、9 janvier 1979、粗訳)

La métaphore du nœud borroméen à l’état le plus simple est impropre. C’est un abus de métaphore parce qu’en réalité, il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel, c’est l’essentiel de ce que j’énonce. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel parce qu’il il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c’est ce que je n’ai pas osé dire. Je l’ai quand même dit. Il est bien évident que j’ai eu tort, mais je m’y suis laissé glisser, tout simplement. C’est embêtant, c’est même plus qu’ennuyeux. C’est d’autant plus ennuyeux que c’est injustifié. C’est ce qui m’apparaît aujourd’hui. C’est du même coup ce que je vous avoue. (Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 9 janvier 1979)


ロレンツォ・キエーザやジジェク、そしてヴェルハーゲによるミレール批判はあるが(現在のミレール派臨床のやり方について)、彼らはラカンの上の言葉をどう捉えているかはわたくしには判然としない。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007)

※上のロレンツォの文にある「主体の解任」をめぐっては、「主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten」を見よ。