2016年12月6日火曜日

「一の徴」日記④

もう少しフロイトの『集団心理学と自我の分析』に拘ってみよう。

まずフロイト読みなら誰もが知っている次の図をかかげる。




つまりは、


右端にある「外的対象」とは、同一化の対象である。

もし「一の徴」の焦点を絞って、簡略化して図示すれば次のようになる。




すなわち「同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一化し合う個人の集まり」(フロイト『集団心理学と自我の分析』)ができあがる。unarie とは単一のことであり、すなわち単一の徴である。

この全能の徽章 insigne として、単に一つのシニフィアンを取り上げなさい。すなわち、この全き可能態における力 pouvoir tout en puissance・可能性の生誕の徴として徽章を。そうすればあなた方は「一の徴 trait unaire」を得る。その「一の徴」とは、主体がシニフィアンから受け取る不可視の徴 marque invisible を塞ぎ埋め combler、この主体を最初の同一化ーー自我理想 l'idéal du, moi を形成する同一化ーーのなかに疎外 aliène(同一化・異化)する。(Lacan,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960, E.808)
「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)

よく知られているように uni-form(ユニ・フォーム) とは単一の形態でありこれも同様な機能をもつ。ユニ・フォームでなく、それは名前でもよい。たとえば「三井」という名。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

教授の喋り方にかかわる指摘は、前回掲げたがさわりだけ再掲しよう。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは必要がない。(ジュパンチッチ、2006)

これらが「一の徴」の同一化である。たとえばロラン・バルトもこれにかかわるだろう同一化を語っている。

恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

これらを馬鹿げているという人がいるかもしれないが、人間の宿命である。

基本的に、「私が私である」のは、ある重要な他者と関係する私独自の仕方によります。もっと個別的に言うなら、私が他のジェンダーに関わる仕方、他の世代に、私の同僚に、そして最終的には、私自身に関わる仕方です。実に、幼児期以来受け取ってきたジェンダーのアイデンティティを鏡に映すことは、同時にジェンダーの関係を鏡に映すことでもあります。私の男性性は、いかに女性性に気づき学んできたかによって決定されます。もし私が女性をすべての悪の根源、私を罪に陥れるものと思い込んでいたなら、私は恐々とした、厳格な男ーー己れの煩悩に打ち勝つための闘争を女性に投影する男ーーになるでしょう。もし私が女性を優しく思いやりのある、けれども、支配的な存在だと感じていたなら、私はそこから永遠に逃れようと努める大きな息子man-sonになるでしょう。等々。これ等は、男と女の本質を定める努力の運命づけられた特質です。(Paul Verhaeghe、 Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities、2012ーー「アイデンティティ」という語の濫用/復活)

…………

閑話休題。

《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。》(ラカン、S9)





いやあ、じつにすぐれた「一の徴」の隠喩のGIFである。



とはいえ誤解のなきよう断っておくが、「一の徴」はけっしてファルスではない。ときにファルスがその機能を果たすことがあるにせよ。

演奏の後で、歌手やピアニストの周囲に群れをなして殺到する魅了された熱狂的な婦人たちや少女たちのことを考えていただきたい。たしかに、彼女たちの一人一人はたがいに嫉妬に燃えようとしている。けれども彼女たちの数と、それに関連して、愛着の目標を獲得することの不可能に直面して、彼女はそれを断念し、おたがいに髪をつかみ合うかわりに、一体となった集団のようにふるまい、共通のしぐさで人気者を祝福し、彼の巻き毛の飾りを分け合うのをよろこぶだろう。彼女たちは、もともと恋敵同士だったのであるが、同じ対象にたいして、同じ愛によっておたがいに同一化することができた。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

上に掲げたロラン・バルトの《神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚》、これが核心である。たとえば、ロラン・バルトの「プルーストと名」はほとんどそのことのみが書かれている、《誰もがプルースト的作家以上に『クラチュロス』の「立法者」、つまり名の創始者(demiourgos onomaton)に近くはない》。

その意味はで次の二文が臍である。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、S22,.11 Mars 1975)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

そしてーー何度も引用しているがーー、上の二文は次の文と同時に読まなければならない。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17、14 Janvier 1970)

いま我々がフロイト・ラカン的文脈で、かつまた架空の登場人物蚊居肢散人のようなスケベ心を捨てて、真に問うべきなのは、戦後の混乱期に米国からあたえられた憲法ーーとくに九条ーーが、日本社会の縫合点(ポワン・ド・キャピトン≒「一の徴」)になっていたのではなかろうかと問うことである。すなわち「平和憲法」という《神聖なものの至高な形式、マークつきの空虚》を放棄してしまったら日本社会はどうなるのだろう、と問うことである。

※ポワン・ド・キャピトン point du capiton :袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。