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2018年1月13日土曜日

愛のオートマン l' automaton de l'amour

本当の事を云おうか(鳥羽 谷川俊太郎)

わたくしの原光景とは次のようなものであるのは何度か記した。たとえば「水の女の聖水」で。




この原光景とは原母にかかわる。

フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教 Der Mann Moses und die monotheistische Religion. Drei Abhandlungen 』(1938)にて暗示的な形式化がなされている。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウ1999, Paul Verhaeghe, Does the Woman exist?)

鎮守の森の形はどっちかというと次の画像であるが、道の感じは上の画像である。



べつにたいしたホントウノコトではない。男なら似たようなものである。大江が書くほどのホントウノコトではない。

⋯⋯「本当の事をいおうか」といった。「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。……その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」(大江健三郎『万延元年のフットボール』)

とはいえ同じ形をした《偉大な母なる神 große Muttergotthei》(フロイト、モーセと一神教)  が現われると、女神アフロディーテの一撃に打たれるのである。

愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン、S9、21 Février 1962)

陰毛の具合と肢の肉付き加減で、惹かれる強度は異なる。



なにはともあれ肝腎なのは、ブラックホール、すなわち黒い穴である。芥川の羅生門流に「黒洞々たる夜」といってもいい、《外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである》。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)



さらに黒いフェティッシュといってもよい。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir になる。その時空において齎されるものは形態 forme 自体である。(ラカン「カントとサド」E773、Septembre 1962)

ようはマルクスの《自動的フェティッシュ automatische Fetisch》の存在となるのである、あの姿態の女に遭遇すると。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)

ああ、なんというまばゆい神秘!

もちろんフロイトに依拠してもよろしい。

フェティシュ Fetisch とは、男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)のファルスの代理物 Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) なのである。(…)

喪われている女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代理として、ペニス Penis の象徴となるような器官や物が選ばれることは容易に考えられる。

これはかなりしばしばあることかも知れないが、決定的でないことも確かである。フェティッシュを定めるさいは、かえってある過程が抑止されるようにみえる。これはちょうど、外傷性記憶喪失 traumatischer Amnesieのさいの想起の停止を思わせる。またこのさい、関心が中途半端でとまってしまったような状態をつづけ、あの不気味な unheimlichen 外傷 traumatischen をあたえられた直前の、最後の印象といったものが、フェティッシュとしてとらえられる。

こうして、足とか靴がフェティッシュ――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器 weiblichen Genitale のほうへかけて注意深く探っているからである。

毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛Genitalbehaarungの生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性のペニスweiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。非常に頻繁にフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間、すなわち、まだ女性をファルス phallisch のあるものと考えていてよかったあの最後の瞬間をとらえているのである。 (フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927)

ようするに《愛の条件 Liebes Bedingung》としての《愛のオートマン l' automaton de l'amour》はおおむねあの画像から生じてしまう。ま、つまり(極論を言えば)女ならだれでもいい、といってさえいいかも。《すべての女に母の影は落ちている》(バーハウ,1998)であり、すべての女に黒いフェティッシュがあるのだから。

(もちろんこれは極論であって、ボクの場合「黒い」陰毛が肝腎であるし、ほかにもあるかもしれない、たとえばキムスメのような女が無意識的に、両肢にて「誘惑するポーズ」をしているという錯覚に閉じ籠りえたとき・・・)

これがボクの愛の反復強迫される原症状なのである。

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974ーー二つの現実界

◆Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。
Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x(≒対象a)、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。