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2018年1月9日火曜日

ラカン派的子宮理論

わたくしは吉行淳之介の子宮をめぐる「直観」をーーやや挑発的にーーしばしば引用する。

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)

だが、この「直観」を信用するのは、それなりの裏付けがある。以下はベルギーのラカン派臨床家による子宮理論解釈のさわりである。

後期理論の段階において、ラカンは強調することをやめない。身体の現実界、例えば、欲動の身体的源泉は、われわれ象徴界の主体にとって根源的な異者 étranger であることを。

われわれはその身体に対して親密であるよりはむしろ外密 extimité の関係をもっている。…事実、無意識と身体の両方とも、われわれの親密な部分でありながら、それにもかかわらず全くの異者であり知られていない。(⋯⋯)
偶然にも、ヒステリーの古代エジプト理論は、精神分析の洞察と再接合する或る直観的真理を含んでいる。ヒステリーについての最初の理論は、Kahun で発見された (Papyrus Ebers, 1937) 4000年ほど前のパピルスに記されている。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされるとの説明がある。子宮は、身体内部にある独立した・自働性をもった器官だと考えられていた。

ヒステリーの治療はこの気まぐれな器官をその正しい場所に固定することが目指されていたので、当時の医師-神官が処方する標準的療法は、論理的に「結婚」に帰着した。

この理論は、プラトン、ヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス、等々によって採用され、何世紀ものあいだ権威のあるものだった。なんという奇矯な考え方!ーーだが、たいていの奇妙な理論と同様に、それはある真理の芯を含んでいる。

まず、ヒステリーはおおいに性的問題だと考えらてれる。第二にこの理論は、子宮は身体の他の部分に比べ気まぐれで異者のようなものという着想を伴っており、事実上、人間内部の分裂という考え方を示している。つまり我々内部の親密な異者・いまだ知られていない部分としてのフロイトの無意識の発見の先鞭をつけている。

神秘的・想像的な仕方で、この古代エジプト理論は語っているのだ、「主体は自分の家の主人ではない」(フロイト)、「人は自分自身の身体のなかで何が起こっているか知らない」(ラカン)、と。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS, 2004、PDF

「外密」、「異者」という用語が出てきているが、いくらか詳しくはーーたとえばフロイト・ラカン自身の言葉のいくつかはーー「ひとりの女とは何か?」を見よ。

ここでは次の簡潔な三文のみを引用しておく。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
われわれにとって異者としての身体(異物としての身体) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)

男性のオチンチンも異物ではないか、という女性の方々の問いはあるだろう。だがあれはたいして親密ではないのである。(すくなくともわたくし一個人としては)外部にくっついてる厄介なものという感じを抱くに過ぎない。

女性の子宮への感じ方は、わたくしはティレシアスのように両性になったことはないので不詳だが、どうもオチンチンとくらべれば遥かにとても親密でありながらかつ異物であるのではないかと憶測している。