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2017年11月2日木曜日

樟がざわめく古い屋敷

実によくない(侯孝賢「黃金之弦」2011



樟がざわめいていた。

そこらじゅうに黒光りする渡り廊下がある屋敷だった。祖父は庭の池を埋めた。小さな孫が溺れ死んだためだ。座敷で初孫の私と二人きりで昼寝をしていたらしい。記憶にない。伯父夫妻は離婚した。伯父は、祖父の工場を五キロ先の田舎に移して大きくし、そこに家を建て再婚した。




母には二つ下の美丈夫な叔父がいた。結婚を約束した叔父の恋人が自殺した。夜道、ひとり運転する車が故障して、手助けを装った男に暴行され、叔父が許さなかったせいだと聞く。叔父は五十歳で死ぬまで独身のままだった。母はその二年前、同じ五十歳で死んでいた。

母の姉は、学徒勤労動員によって軍需工場で働いている最中、爆撃で吹き飛ばされ手足がばらばらになって帰ってきたそうだ。仏壇の写真は美しかった。線香のよい香りがいつもした。祖母が手を合わせていた記憶はあるが、母が仏壇に向かっていた記憶はない。

私が五歳のとき、名古屋の新築の家で、母は「神経」を患った。家族は、静岡との県境にある故郷の町の、祖父の屋敷裏に家を建て直し移り住んだが、母は祖父の家で寝ていた。分裂病と診断されたが怪しい。戦争神経症ではなかったかと睨んでいる。テレビで戦争の映像が現れると、たちまち顔色が変わり席を立った。祖母の看病なしで自宅で過ごせるようになった後も、戦争の映像に遭遇すると身体を震わせ、テレビをすぐさま消した。

父の姿はほとんど見えなかった。名古屋のさらに西にある町に通勤していたせいだ。朝早く家を出、夜遅く帰宅した。私は二人の叔父に可愛いがられた。

祖父は小さな事業だが成功していた。ひとりだけ東京に住む叔父がいたが、横浜に家を買い与えた。偶然にも後に私が結婚する女が、この横浜の家の道路越しにある会社の寮に住んでいた。この叔父は五十歳になる直前、神経を病んで入院したがたいしたことはない。

祖父が小学四年生のとき死んだのは憶えている。祖母は叔父が死んだ後すぐに死んだように思うがはっきりしない。

一番下の叔父は東京下町の女と結婚していたが、祖母の死後、叔父の遺産で家を建て替えた。気味が悪いと叔母がいったらしい。樟も切り倒され、コンクリートの塊の家が出来上がった。私は叔父の遺産で京都にマンションを買った。

横浜の叔父は、古い家がなくなり帰るところがなくなったと言った。私は? 母が亡くなり樟が消えても帰るところがなくなったわけではない。だが足がひどく遠のいたのは確かだ。

だがこれだけである筈はない、あの樟がざわめく古い屋敷の記憶は。憶い出せない肝腎なことがある気がしてその事に苛立つ。




11月4日が母の命日であることぐらいは憶えている。