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2017年11月1日水曜日

白い馬と糸杉



実に美しい。ベルトルッチ  Bertolucc の「1900年 Novecento」--伊語の「Novecento」は「900」であるほかに、「1900年代」「20世紀」という意味があって、邦題は誤訳だそうだがーーは、とても美しい景色で始まる。この5時間強の作品の第二部でも、同じ場所(たぶん)の冬景色が現われる。





ーーつまりはわたくしの愛するドミニク・サンダとともに。




ところで今ふたつ掲げたドミニクの映像のあいだには、名優ドナルド・サザーランドによる「血まみれの頭」が現われるのだ。これがいかにもベルトルッチらしい。




リルケがいうように「美は恐るべきものの始まり」である。この映像を見据えることによって、はじめてドミニク・サンダはいっそう光り輝く(イヤア本当ニソウカナ・・・ドミニクは、あれは狂気の目をもってるよ、オレのオッカサンみたいだ・・・サザーランドとの親和性? まさか! せいぜい愛すべき変態映画作家ベルトルッチ程度さ・・・)

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

そしてこの世界の夜、つまりは《否定的なものを見すえ Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。》(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

ドミニクが乗る白い馬は、じつは「白い亡霊 weiße Gestalt 」でありうる。

ところで1945年イタリア解放の日(25 Aprile 1945)における農民たちの歓喜の映像にも、冒頭に掲げたのと同様な、こよなく美しい景色が現われる(あの並木はたぶんイタリア糸杉だと思うが、不詳)。

◆Novecento Atto II La Liberazione2




実に美しい並木である。ゴッホは終生、糸杉を描いた。


(ゴッホ、糸杉と二人の女性)

糸杉の花言葉は死あるいは再生だそうである。おそらくフロイトのいう 《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)、《沈黙の死の女神 die schweigsame Todesgöttin》(『小箱選びのモティーフ』1913)、つまりは原母、母なる大地に抱かれる死であり再生だろう。