美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独 solitude temporaire mais profonde にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
◆La Belle Epoque. Hou Hsiao-hsien
冒頭の樟のざわめき、犬の遠吠え、蝉しぐれ、そして艶光る渡り廊下での幼児の歩み、柱時計の音、逆光のなか、カーテンが風でゆれる小部屋の畳の上での、二人の女の親密な語らい⋯そのあと過去が匂いさざめく。
なによりもまずわたくしのプンクトゥムが書き込まれている。そう言おう。
たいていの場合、プンクトゥム punctum は《細部 détail》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
そう、純粋過去の切片としてのプンクトゥムが。
もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥム punctum とは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(『明るい部屋』)
「それは = かつて = あった」のである、わたくしの単独的な身体の出来事として。
だが今はこれ以上記したくない。今はただこう記しておくだけにする、あの侯孝賢の『La Belle Epoque』には、ビクトル・エリセの『エル・スール』がいる、と。
◆Víctor Erice、El Sur (1982)
ふと少女の顔を風のように撫でるものがある、耳のそばを通りぬけてゆく。彼女は部屋の闇のなか大きく目をみひらく……すると成熟したのちの少女の声、それはあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える)。
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断っておくが、わたくしは映画を多く観るほうではない。最近はほとんど観ない。ひさしぶりに上質な映像に巡り合ったその新鮮さのせいで、軀のなかを閃光が走ったということもあるかもしれない。
だがそれだけではない、あそこには手に届かないところにある痛み、傷がある。《痛みとは、遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもない》(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)
ビクトル・エリセを知るようになったのは、次のインタヴューを読んでからにすぎない。
※Rétrospective Hou Hsiao-Hsien - Présentation par Mathieu Macheret(2016)には、侯孝賢の過去の作品の「眩暈のするような」映像が切り取られている。
だがそれだけではない、あそこには手に届かないところにある痛み、傷がある。《痛みとは、遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもない》(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)
ビクトル・エリセを知るようになったのは、次のインタヴューを読んでからにすぎない。
◆蓮實重彦「心もとなく闇の中を歩みはじめるように」(ビクトル・エリセへのインタヴュー1985年、『光をめぐって』所収)
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侯孝賢が北野武に問うている20年ほどまえの映像を眺めてみた。蓮實重彦の湿った声もきこえてくる。
◆たけし、「悲しみ」について語る。in国際映画シンポジウム(4)
――『エル・スール』の場合は、オフのナレーションが素晴らしいのですが、この構成はシナリオ段階から決まっていたわけですね。
エリセ) ええ、あのナレーションの声は、すでに大人になった女、つまりエストレーリアがその成熟した女としての視点から語っているのです。彼女が、少女時代の根源的な体験を、もはや触れえない何ものかとして語っているわけです。それは、内面の日記かもしれない。文学的な作品の一断片かもしれない、しかしそれが文学的なものとして語られることを私は望んだのです。
――その少女時代の根源的な体験の中で、父親が重要な役目を果たしています。ところが、この父親と娘という関係をめぐって「この発想はあからさまにフロイト的だ」という批評を「カイエ・デュ・シネマ」誌で読みました。好意的な文章なのですが、こういう言葉で単純な図式化が行われると、作品の豊かさが一度に失われて残念な気がしました。
エリセ) おっしゃる通り、私は仕事をしているときに、その種のことはまったく考えていない。もちろん、これまでの生涯で目にしたある種のイメージとか、体験したある種の感情とかを映画の中に生かそうとはするでしょう。でも、フロイト的な発想などというものが最初のアイディアとしてあるわけではもちろんありません。私は心もとなく闇の中に歩きはじめる。私が何かを理解するのは撮影が終わった瞬間なのです。映画とは、そうした理解の一形態なのであり、あらかじめわかっていることを映画にするのではありません。
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侯孝賢が北野武に問うている20年ほどまえの映像を眺めてみた。蓮實重彦の湿った声もきこえてくる。
◆たけし、「悲しみ」について語る。in国際映画シンポジウム(4)
※Rétrospective Hou Hsiao-Hsien - Présentation par Mathieu Macheret(2016)には、侯孝賢の過去の作品の「眩暈のするような」映像が切り取られている。