2017年5月27日土曜日

純粋過去の切片としてのプンクトゥム

ロラン・バルトのプンクトゥム概念が、ラカンのリアルにかかわるだろうことは「染みとプンクトゥム」で見た。ここではプンクトゥムが、ドゥルーズやプルーストの概念とも大いに関係していることを見る。

…………

たいていの場合、プンクトゥム punctum は《細部 détail》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

このようにバルトとドゥルーズを並べたからといって、プンクトゥムと潜在的対象とがまったく等価であるというつもりはない。だがプンクトゥムの、少なくとも或る側面は、潜在的対象であることは間違いないように思える。

『明るい部屋』の第19章、第20章は次のような章題をもっている。

19.Le Punctum : trait partiel.
20.Trait involontaire.

まず第19章【「プンクトゥム」--部分的徴 Le Punctum : trait partiel】を見てみよう。

たいていの場合、プンクトゥム punctum は《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(……)

プンクトゥムは、どれほど電撃的なものであっても、多かれ少なかれ潜在的に、ある拡大の能力をもつ。この能力は、往々にして換喩的に働く。子供に手を引かれた盲目のジプシーのヴァイオリン弾きを撮った、ケルテスの写真(1921年)がある。ところで私が、写真に何かをつけ加えて見せる、あの《考える眼》によって見るのは、土が踏み固められた道である。この道の肌目は中部ヨーロッパにいるという実感を私に与える。私は指向対象 référent を知覚する(ここでは、写真は真にそれ自身を超えてしまっている la photographie se dépasse vraiment elle—même。これこそ写真の術を証明する唯一の証拠ではなかろうか? つまり、媒体としての自分を空無化し S’annuler comme médium、記号であることをやめ n’être plus un signe、ものそのものとなること mais la chose même ?)。私は、かつてハンガリーとルーマニアに旅行したとき横切った村々を、いまふたたび全身で感じ取る。

この文に引き続いて《プンクトゥムによる(よりプルースト的でない moins proustienne)他の拡大の例もある》とある。つまりバルトは《写真は真にそれ自身を超えてしまって》《媒体としての自分を空無化し、記号であることをやめ、ものそのものとなること》をプルースト的プンクトゥムにかかわるものとしていることになる。

このプルースト的プンクトゥム、バルトにとっての《かつてハンガリーとルーマニアに旅行したとき横切った村々》の《土が踏み固められた道》の肌理とは、純粋過去の切片 un lambeau de passé pur ではないか?

潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)



バルトは写真の形式的な評価とはまったく異なったことを語っている。ゆえに《プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡す me livrer ことになる》。バルト単独的なものによって、つまり写真のなかにバルトの経験あるいは徴が書き込まれているから魅惑されるのである。《対象aは奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。》(ジジェク、1991)

プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある。(『明るい部屋』第10章)

これは「染みとプンクトゥム」で見た通り。

ところでドゥルーズは、イデア的リアルなもの réel idéal =潜在的なもの virtuel としているが、これはバルトのプルースト的プンクトゥムと果たして異なるところがあるだろうか?

現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの》(プルースト「見出された時」))――このイデア的リアルなもの、この潜在的なものが本質である。« Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits. » Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence. . (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』,1964-1970-1975)


第19章に引き続く第20章の章題は、まさにプルースト用語の「無意志的 involontaire」という語がつかわれた「無意志的徴 Trait involontaire」である。

ーー第20章を見る前に『明るい部屋』の核心の一つの第28章「温室の写真 La Photographie du Jardin d’Hiver」において、バルトはプルーストを引用して次のように語っていることを先に示しておこう、

ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した  dont pour la première fois je retrouvais dans un souvenir involontaire et complet la réalité vivante 》のである。

さて第28章【無意志的徴 Trait involontaire】である。

ある種の細部は、私を《突き刺す poindre》ことができるらしい。もしそれが私を突き刺さないとしたら、それはおそらく、写真家によって意図的にそこに置かれたからである。(……)

私の関心を引く細部は、意図的なものではない。少なくとも厳密に言えばそうではないし、またおそらく、そうであってはならないのである。私の関心を引く細部は、撮影された事物の場に、不可避でもあり無償でもある補足物として存在する。それは必ずしも写真家の技量を証明するものではない。ただ、写真家がその場にいたことを告げるだけである。あるいはまた、それよりもさらにわずかなこと、つまり、写真家がある対象全体を撮ると同時に、他の対象をも部分的に撮らざるをえなかったということを告げているだけである(道路とそこを歩き回るヴァイオリン弾きとを《切り離す》ことなど、どうしてケルテスにできたろう?)。

「写真家」の透視力は、《見る》ことによってではなく、その場にいることによって成り立つ。そしてとりわけ「写真家」は、オルフェウスと同じように、自分が写してきて見せるものを降りかえって見てはならないのだ!(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)

《写真家がある対象全体を撮ると同時に、他の対象をも部分的に撮らざるをえなかった il ne pouvait pas ne pas photographier l'objet partiel en même temps que l'objet total》とは、《写真家は全対象 l'objet total を撮ると同時に、部分対象 l'objet partiel を撮らざるをえなかった》とも訳せるだろう。

バルトにとっての部分対象=細部とは、《私をひきつけたり傷をおわせる細部(プンクトゥム) un détail (punctum) qui m'attire ou me blesse》である。

ところでバルトは、第39章「プンクトゥムとしての時間 Le Temps comme punctum」にて、「細部 détail」とは異なった、「時間としてのプンクトゥム」を語っている。

ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(『明るい部屋』)

だが「プンクトゥムとしての時間 Le Temps comme punctum」とは、やはり潜在的対象である。純粋過去の切片である。《潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur》(ドゥルーズ、1968)。すくなくともドゥルーズの解釈ではそうなる。それは《局在化した時間の本質 l'essence du temps localisée》なのである。

マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたちになっている。コンブレーは、かつて現在であった été présent ような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、意志的記憶 la mémoire volontaire の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、リアリティréalité においてではなく、その真理 véritéにおいて現われる。

コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現勢の意志的記憶 mémoire volontaire actuelle と過去の意識的知覚 perception consciente ancienne の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》(プルースト)である。つまりそれは、現在と過去、現勢的なものである現在 présent qui est actuel と、かつて現在であった過去 passé qui a été présentとの単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを超えて、かつてあったすべての過去 tout passé qui a été、かつてあったすべての現在 tout présent qui fut よりもさらに深い、過去の即自存在 l'être en soi du passé である。《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間の本質 l'essence du temps localiséeで ある。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

こうして「純粋過去の切片 un lambeau de passé purとしてのプンクトゥム punctum」ということが言えるはずである。わたくしに言わせれば、バルトのプンクトゥムを語るのに、ラカンのリアルにも触れず、ドゥルーズ=プルーストの純粋過去にも触れず、などという巷間の研究者たちは、死刑に値する。

…………

上にドゥルーズがプルーストの「見出された時」から次の二つの文を引用しているのを見た(彼は別の書にても繰返し引用している)。

・現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits

・純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur

この二つの文が含まれる箇所をプルースト自身から引用しておく。疑いなく『失われた時を求めて』の核心箇所の一つである。

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。

ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続 la durée d'un éclair、純粋状態にあるわずかな時間un peu de temps à l'état pur ――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。

あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。

ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう? (プルースト『見出された時』井上究一郎訳だが、一部変更)

…………

以前、「純粋過去Ⱥと潜在的対象S(Ⱥ)」にてラカンのマテームを使用し、次のような図示をしてみたことがある。



この図を利用すれば、次のように図示できるはずである。




S(Ⱥ)とは初期フロイト概念の「境界表象 Grenzvorstellung」と等価である。なおかつS(Ⱥ)はS(a)、つまり原対象aのシニフィアンとしての対象aと書けることは(すくなくともS(Ⱥ)のある側面は)ブルース・フィンクがはやくから指摘している(Fink,1995)。

ジジェクの簡潔な言い方なら次の通り。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

かつまたバルトは「プンクトゥムとしての時間」を言い表すのに「純粋表象 représentation pure」という語を使っているのは上に見た通りである。

再掲すれば、

もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥム punctum とは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。

Ce nouveau punctum, qui n’est plus de forme, mais d’intensité, c’est le Temps, c’est l’emphase déchirante du noème (« ça—a-éte’ »), sa représentation pure.(『明るい部屋』)

このようなプンクトゥムを見出すことにより、写真は、いやすべての芸術、あるいは愛の対象は、「関心の突然変異 mutation vive de mon intérêt」を生む。

(ここでバルトが愛したブレヒトの「異化効果 Verfremdungseffekt」という言葉を想い起しておいてもよいだろう)。

以下の文は第21章からであり「細部としてのプンクトゥム」を語っているが、「純粋過去の切片としてのプンクトゥム」も同じはずである。

ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの徴がつけられることによって、写真はもはや任意のものでなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのでる(指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない)。

Un détail emporte toute ma lecture; c’est une mutation vive de mon intérêt, une fulguration. Par la marque de quelque chose, la photo n’est plus quelconque. Ce quelque chose a fait tilt, il a provoqué en moi un petit ébranlement, un satori, le passage d’un vide (peu importe que le référent en soit dérisoire).(ロラン・バルト『明るい部屋』)

こうして「愛する原因は対象にはない」というプルーストのテーゼを、ロラン・バルトも確認していることになる。愛の原因が対象にあるなどという思い込みに《またしてもまんまとだまされたくはなかった》(プルースト)。

・愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime

・われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

※参照:愛の心理学:「女の笑い方、ジェスチャ」