クロッシュ氏は音楽評論を批判してこう言っている。
作品を通して、それらを生み出させた様々な衝動や、それらが秘めている内的な生命を見ようとするんです。めずらしい時計かなぞのように作品を分解することで成り立つ遊びより、ずっと面白くはありませんか ? (『ドビュッシー作曲論集 反好事家八分音符氏』)
ムッシュー・クロッシュとはもちろん、ドビュッシーが創り上げた架空の人物である。
小倉朗もこう言っている、《バッハの作品を見て、それが理論的であり、規則に厳格であると人はしばしば感嘆する。しかし、理論的であり、規則に厳格だからバッハの音楽が美しいと考えたら嘘になろう》。
ところでバーンスタインは、音楽における意味を四種のレベルに分類している。
①物語的=文学的意味
②雰囲気=絵画的意味
③情緒反応的意味
④純粋に音楽的な意味
そして④だけが音楽的な分析を行うに値するとしている。
音楽を説明すべきものは音楽そのものであって、その周囲に寄生虫のように生じた、音楽以外のもろもろの観念ではない(バーンスタイン)
とはいえ何が④の「純粋に音楽的な意味」なのだろうか。まさか《めずらしい時計かなぞのように作品を分解することで成り立つ遊び》だけではあるまい。
そしてムッシュー・クロッシュのすすめる《作品を通して、それらを生み出させた様々な衝動や、それらが秘めている内的な生命》とは、バーンスタインの区分する③の「情緒反応的意味」とどこか違うのだろうか。
もちろんこの問いは、音楽だけに限らない。すくなくとも芸術全般にかかわる。
おそらく制作者サイドであれば、やはり④が肝腎なのだろう。
岡崎乾二郎)……だから、ぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。(共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」『批評空間』 第3期第2号、2001)
だが受け手側はどうなのか。 ③の「情緒反応的意味」をどう捉えるかにもよるが、「情緒」を「わたくしを衝き動かす内的生命」として捉えれば、これが肝腎なのではなかろうか。
ただし「情緒」の危険性というのは常にある。多くの音楽ファンとはホモ・センチメンタリスである。
ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(クンデラ『不滅』)
◆Schumann Der Nussbaum Bernarda Fink
ああ、あああ、あああああああ、ブラヴォー! ブラヴォー!!
彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、ブラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。(プルースト「見出された時」)
「ブラヴォー、ブラヴォー」はやめなくてはならない・・・
すくなくとも次のようにひそやかに語る必要がある。
……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、…(プルースト『囚われの女』)
だがこう語ることは、バーンスタインが「寄生虫」と呼ぶ ①物語的=文学的意味、②雰囲気=絵画的意味、③情緒反応的意味とどう違うのだろうか。
そもそも音楽で最も美しいのは「寄生虫」、すなわち《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫》ではなかろうか・・・
最後にバーンスタインの死の年のリハーサル風景の映像をかかげておこう。当時わたくしはこの映像をみて「情緒的に」ひどく感動した(ナレーションの声だけはなんとかしていただきたいとは思ったが)。エイズで喉を侵されているバーンスタインは掠れ声で、《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫》で始めねばならない、といっている。