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2017年5月28日日曜日

眼差しの作家たち

(Elizabeth and I; 1933)

(Despite his mother's dying in early 1933, Kertész married Elizabeth on 17 June 1933)

「写真」には、私の目をまともに眼差す me regarder droit dans les yeux 能力がある(……)。

写真の眼差し regard には何か逆説的なところがあるが、ときにはそれが実人生においても起こることがある。

先日、一人の若者が、喫茶店で、連れもなく店内を見まわしていた。彼の眼差し regard はときどき私の上にそそがれた。そこで私は、彼が私を眼差している me regardait という確信をもったが、しかし彼が私を見ている me voyait かどうかは確かでなかった。それは考えられないような不整合であった。どうして見ることなしに眼差す regarder sans voir ことができるのか?

「写真」は注意 attention を知覚 perception から切り離し、知覚をともわない注意はありえないのに、ただ注意だけを向けるかのようである。それは道理に反することだが、ノエマのないノエシス noèse sans noème、思考内容のない思考作用 acte de pensée sans pensée、標的のない照準 visée sans cible である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

(Kertesz and his wife Elizabeth, 1931)

…眼差し regard は、例えば、誰かの目を見る je vois ses yeux というようなことを決して同じではない。私が目 yeux すら、姿 apparence すら見ていない ne vois pas 誰かによって自分が眼差されていると感じる me sentir regardé こともある。なにものかがそこにいるかもしれない ことを私に示す何かがあればそれで十分である。

例えば、この窓、あたりが暗くて、その後ろに誰かがいると 私が思うだけの理由があれば、その窓はその時すでに眼差しregard である。こういう眼差しが現れるやいなや、私が自分が他者の眼差しにとっての対象になっていると感じる、という意味で、私はすでに前とは違うものになっている。(ラカン、セミネールⅠ、02 Juin 1954)

(Broken Plate,1929)

視野においてはすべてが、二律背反的な二つの項がある。

①物 choses の側には眼差し regard がある。すなわち、物が私を眼差す regardent。
②私にはそれらの物が見える voir。

聖書においてしきりに強調される、《彼らは、見えないかもしれない眼をもっている Ils ont des yeux pour ne pas voir》という言葉は、この意味で理解されなければならない。

何が見えないかもしれないのか Pour ne pas voir quoi ? それはまさしく、物が私を眼差している les choses me regardent ことである。(ラカン、S11、11 mars 1964)

(New York City,1979)

ーーアンドレ・ケルテスは、「このトルソーは妻に似ている、肩と首が」と言った(妻の死1977年後のこと[Jennifer Friedlander、Affecting Art: Barthes, Kertész, and Lacan、PDF])。

眼差しは意識の裏面で ある le regard est cet envers de la conscience、という表現はまったく不適切というわけではない。というのは、眼差しには実体を与える donner corps ことができるから。

サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他者の実存 l'existence d'autrui という次元で、眼差しを機能させている。……

サルトルのいう眼差し regard とは、私に不意打ちをくらわす眼差しである。
私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しである。

無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場において、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として眼差している人の目 œil de celui qui me regarde comme objet を《暗点化・ 盲点化 scotomiser》させるにまで至る、という特権を持つことになる。私が眼差しのもとにあるかぎり、私はもはや私を眼差している人の目 œil qui me regardeを見ることはできないし、逆にもし私が目を見れば si je vois l'œil、そのときは眼差しは消えてしまう le regard qui disparaît、とサルトルは書いている。

これは正しい現象学的分析だろうか。そうではない。私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとしては見ていない je ne le vois point comme regard、というのは真実ではない。(…)

眼差しは見られる Le regard se voit 。つまり、サルトルが記述した、私を不意打ちするあの眼差し、私を恥 honteそのものにしてしまう――サルトルが強調したのはこの恥という感情である――あの眼差し、それは見られる。
眼差しとの遭遇 rencontre du regard はーーサルトルのテクストの中に読み取ることができるものだがーー見られる眼差し regard vu のことではまったくなく、私が大他者の領野 champ de l'Autre で想像した眼差しに過ぎない。

彼のテクストに当たれば判然とすると思うが、サルトルは視覚器官に関わるものとしての眼差しの出現のことを語っているのでは決してない。狩りの場合の突然の木の葉の音とか、廊下に不意に聞こえる足音とか――これはどういう刻限か?ーー鍵穴 trou de serrureから眼差すという行為 l'action de regarder において彼自身が露呈する刻限である――のことを言っている。覗いている voyeur ときに眼差しが彼に不意打ちをくらわせ、彼を動揺させ、動転させ、彼を恥の感情にしてしまう。

ここで言われている眼差しは、まさに他者そのものの現前 présence d'autrui comme telである。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我々が把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を眼差している他者の実存 l'existence d'autrui comme me regardant という機能においてなのだろうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないだろうか。

欲望がここでは視姦 voyure の領野において成り立っているからこそ、我々は欲望をごまかして隠すことができるのではないか。(ラカン、S11、26 Février 1964)

敬意を表しつつもいささかのサルトル批判があるが、ラカンは何を言おうとしているのか。

ーー目撃者としてつねにそこにいる〈第三者〉の眼差しのことである。

貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クリフォードといっしょに、無人島に漂着する。セックスの後、女は男に「どうだった?」と訊く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えてくれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むから、ズボンをはき、顔に髭を描いて、親友の役を演じて欲しいというのだ。「誤解をしないでくれ、おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明け合うときの、独特の流し目で、こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クリフォードと寝たんだぜ!」

目撃者としてつねにそこにいるこの〈第三者〉は、無垢で無邪気な個人的快感などというものはありえないことを物語っている。セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)


(André Kertész, Avec Elizabeth, Hongrie 1920)

きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うだろう? オナニーしているときのことだけど

ーー「耳だわ、もちろん」

《Which part of the body is most intensely used while masturbating? ーーThe ear. 》(“THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE” Paul Verhaeghe)


(Elizabeth and me,1921)

窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗き見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001)

(André Kertesz Flowers for Elizabeth , 1976)

痴漢たちは、発見され処罰されることをきわめて深く懼れているものの、同時に、その危険の感覚なしには、かれの快楽は薄められあいまいになり衰弱し、結局なにものでもなくなる。禁忌が綱渡り師にその冒険の快楽を保証する。そして痴漢たちが安全にかれの試みをなしとげると、その瞬間、安全な終末が、サスペンスのなかの全過程の革命的な意味を帳消しにしてしまうのである。結局、いかなる危険もなかったのだから、いままで自分の快楽のかくれた動機だった危険の感覚はにせに過ぎなかったのであり、すなわち、いまあじわい終わったばかりの快楽そのものがにせの快楽だと、痴漢たちは気がつく。そして再びかれはこの不毛な綱渡りをはじめないではいられない。やがて、かれらが捕えられ、かれの生涯が危機におちいり、それまでのにせの試みがすべて、真実の快楽の果実をみのらせるまで……(大江健三郎『性的人間』)

◆Masters of Photography: Andre Kertesz