まず「男女の愛:「名前をつけて保存と上書き保存」」末尾の引用文の一部を再掲する。
「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために」(プルースト「スワンの恋」)
愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
なぜ《われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛する》のか。
ーー愛する理由は、対象にはなく、われわれ自身のなかにあるからである。自身といっても《自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi 》(プルースト『ソドムとゴモラⅡ』「心情の間歇」)の中ににある何かを愛するのである。これをラカン派では、対象aと呼ぶ。すなわち《対象a、あなたの中にあるあなた以上のもの toi plus que toi,qui est cet objet(a)》(ラカン、S11)。
次のジジェクの対象aをめぐる文は、「私をうんざりさせる」ものさえが、愛の原因でありうることが記されている。
幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。
欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。
たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。
でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)
次のミレールの文も対象aをめぐっている。
――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?
最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。
ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。
このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”より)
対象aがどんなものであるのかについて、切実に思いを馳せることができるのは、ジジェクのクローンをめぐる次の文である。
…クローンの不気味さ…よく知られた事例を取り上げよう。愛する唯一の子どもが死んで、両親は彼をクローンすることに決めた。そして彼を取り戻す。結果はゾッとするものであるのは明らかではないだろうか?
新しい子どもは、死んだ子どもの全ての属性を持っている。しかし、この同一性自体が、差異をいっそう明白にするーーまったく同じに見えるにもかかわらず、彼は同じでない。だから、彼は残酷なジョーク、恐るべき詐欺師だーー。失われた息子ではない。そうではなく、冒瀆的なコピーなのだ。彼の現前は、私にマルクス兄弟の古いジョークを想起させないではいられない。《あなたのすべては、私にあなたを思い出させる--、あなたの目、あなたの耳、あなたの口、あなたの唇、あなたの手と足……すべてだ、あなた自身以外の!》(ジジェク、パララックス・ヴュー、2006、私訳)
…………
最も重要なのは、対象に「対象a(欲望の対象‐原因)」が書き込まれているか否かで、「パスカルのパンセ」よりも「石鹸の広告」のほうを愛して何の不思議でもないことを知ることである。
われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)
これは、ロラン・バルトがその遺作『明るい部屋』で次のように言っていることにもかかわる。
たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。
……(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷 blessure もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』)
「(心の)傷 blessure」とは、プンクトゥムのことである(参照)。
場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る…。ラテン語には、そうした傷 blessure、刺し傷 piqûre、鋭くとがった道具によってつけられた徴 marque を表す語がある。…句読点 を打たれたような効果 effet comme ponctuées、ときには斑点状 mouchetées になってさえいる、感じやすい痛点 points sensibles、…それゆえ、ストゥディウム studiumの場をかき乱しにやってくるこの第二の要素を、私はプンクトゥム punctum と呼ぶことにしたい。
ある本質(心の傷の)une essence (de blessure) …それは変換しうるものではなく、ただ固執 l'insistance する。(『明るい部屋』)
傷 blessure という語に反応して、ジュネ=ジャコメッティを引用しておこう。
美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な singulière、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
ここでジュネも言っているように、「傷 blessure」とは「独異な=単独的な singulière」ものである。