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2017年5月4日木曜日

何もかもつまらん

「詩みたいなものを書いた」と男が言う
「やめてよ」と女  

ーー谷川俊太郎「小景」




庭仕事に尻ふり精だす御侠娘
おもむろに跼り腰パン下がつて鳳仙花
露光る谷間の繊毛匂いさざめく
鄙びたる恥丘の憶ひ手にて慰む老鯰の踊り




何もかもつまらんという言葉が
坦々麺をたべてる口から出てきた

ーー谷川俊太郎「坦々麵」




エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)



女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、 S18、20 Janvier 1971)

もちろん「見せかけ」という語でラカンが言いたいのは象徴界のことであり、われわれの現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」である。そして見せかけの世界の割れ目にふと現実界があらわれる。なぜなら見せかけ=女の服装は、不器用にしか現実界を飼い馴らしていないから。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)

女たちは《裂け目の光の中に保留されているもの suspendue dans la lumière d'une béance》(E851)を回帰させるために存在するのである・・・《オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後》(ドゥルーズ)にあるものは、もちろんブラック・ホールというおどろおどろしい「空虚」である・・・《緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘》(レミ・ベロー )などは、いまだ見せかけにすぎない。

谷川俊太郎のいう「詩」とは、この「裂け目にあらわれる現実界」として捉えなければならない。

この世には詩しかないというおそろしいことにぼくは気づいた。この世のありとあらゆることはすべて詩だ。言葉というものが生まれた瞬間からそれは動かすことのできぬ事実だった。詩から逃れようとしてみんなどんなにじたばたしたことか。だがそれは無理な相談だった。なんて残酷な話だろう。

ーー谷川俊太郎「小母さん日記」

谷川俊太郎が高踏派ぶった詩人たちに受けないのは、あれらの高踏ぶりをつねにバカにしているからである。詩とは日常の裂け目にふと現れるものである。精神分析とは、いや詩とは、《見せかけ semblants を揺らめかす fait vaciller ことである、機知 Witz が見せかけを揺らめかすように》(ジャック=アラン・ミレール)。

この裂け目=ポエジーを、ラカン派やラカンに影響をうけた作家のあいだではテュケー Tuché とも呼ぶ(参照:プンクトゥム=テュケー)。
オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーTuchéは、オートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶有性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年、私訳)

ーー《要するにそれは、「偶然 Tuché(テュケー)」の、「機会 Occasion」の、「遭遇 Rencontre」の、「現実界 Réel」の、あくことを知らぬ表現である。》(ロラン・バルト『明るい部屋』)

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウム(studium)を破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなしみ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

さらにこう言ってもよい。お尻の彼方(奥)にある空虚とは、お尻の覆い(ストゥディウム)としての「言い得るもの」固有の「言い得ぬもの」(プンクトゥム)である、と。

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ジジェク,LESS THAN NOTHING,私訳)

お尻の覆いとはそれ自身を徴示すことができないのである。



すべてのシニフィアンの性質は、それ自身をシニフィアン徴示することができないこ とである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

《私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème》(Lacan,AE.572、17 mai 1976)

ーー女たちは詩人ではないかもしれない。だがすべての女は詩である。これが「すべての女は娼婦である」という格言の真意である。

…………

ところで次の現象は職場でしばしば起こる。





とくに残業をペアでしていれば、避けがたい事態である。




ーーしかしうんうん唸っていた女が電話をとると平然となるというのは、あれはいったいどうしたわけだろう? すべては演技(見せかけ)ではないか、と男性諸君は疑うべきである。



もっともここで注意しておかねばならない。《女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein] 。 しかし何かそれ以上のものがあるのだ mais il y a quelque chose en plus…》(ラカン、セミネール20)

これは、女たちは徹底的な象徴界の住人(徹底的な見せかけ)であればこそ、非全体pas-tout(ファルスの彼方の女性の享楽)が顕現するということである(参照)。

とはいえ女の怖ろしさーーその戦慄と魅惑ーーの片鱗はできるだけ若いうちに学んでおくべきである。

「それはともかく、電車の中でいろいろなことを学んだよ。女の怖ろしさの片鱗も、最初に知ったのは電車の中だ。夏だった。三十くらいの人妻とおもえる女でね、丁度きのうのように、電車は空いていたが、並んで窓に向いて立って、触っていた。ブラウスの胸がしだいに盛り上がってきた。電車が停って、三人の乗客が入ってきた。そのうちの一人に、その女と知り合いの女がいたんだな。同年配の女だ。どういう具合になるかみていると、今まで乱れていた呼吸がすうっとおさまって、いかにも親しげで同時に儀礼的な挨拶を換しはじめた。顔色も態度も少しも乱れたところがない。こわいとおもったね」(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

次のようなウブそうな表情に騙されてはならないのである。




ーー場合によっては、このタイプの女が手あたり次第に咥えこんでいる可能性を諸君は疑わなければならない。《女の淫蕩の血が私の血と違ふところは、女は自分で狙ふこともあるけれども、受身のことが多かつた。人に親切にされたり、人から物を貰つたりすると、その返礼にカラダを与へずにゐられぬやうな気持になつてしまふのだつた》(坂口安吾)。むしろ男に向って、《あたしは便器か/いつから/知りたくは、なかったんだが/疑ってしまった口に出して/聞いてしまったあきらかにして/しまわなければならなくなった》(伊藤比呂美)と言い放つ女のほうが貞女だったりするのである。

電車の中は、そう混雑していたわけではない。井村は窓際に立っていた。傍らに、人妻風の二十七、八歳にみえる女性が立っていた。(……)青春の日々のことが、鼻の奥に淡い揮発性の匂いを残して掠め去って行った。

その瞬間から、傍らの女の存在が、強く意識されはじめた。それも、きわめて部分的な存在として、たとえば腕を動かすときの肩のあたりの肉の具合とか、乳房の描く弧線とか、胴から腰へのにわかに膨れてゆく曲線とか、尻の量感とか……、そういう離れ離れの部分のなまなましい幻影が、一つの集積となって覆いかぶさってきた。

いつの間にか、彼は青春の時期の井村誠一になっていた。肘を曲げて、軽く女の腕に触れてみると、女は軀を避けようとしない。さらに深く曲げた肘で、女の横腹を擦り上げるようにして、乳房を下から持ち上げた。身を堅くした気配が伝わってきたが、相変わらず女は軀を避けようとしない。乳房の重たさが、ゆっくりと彼の肘に滲み込んできた。次の瞬間、彼はその肘を離し、躊躇うことなく、女の腿に掌を押し当てた……。
(……)

女は位置を少しも動かず、井村の掌は女の腿に貼り付いている。女も井村も、戸外を向いて窓際に立っていた。掌の下で、女の腿が強張るのが感じられた。やがて、それが柔らかくほぐれはじめた頃、女は腿を曲げて拳を顔の前に持上げると、人差指の横側で、かるく鼻の先端を擦り上げた。女はその動作を繰返し、彼はそれが昂奮の証拠であることを知っていた。衣服の下で熱くなり、一斉に汗ばんできている皮膚を、彼は掌の下に思い描いた。

窓硝子に映っている女の顔を、彼は眺めた。電車の外に拡がっている夜が、女の映像を半ば吸い取って、黒く濡れて光っている眼球と、すこし開いたままになっている唇の輪郭だけが、硝子の上に残っている。



大学生の頃、井村がしばしば体験した状況になったのである。不思議におもえるほど、女たちは井村の掌から軀を避けようとしなかった。一度だけ、手首を摑まれて高く持ちあげられたことがあったが、それ以外は女たちは井村の掌を避けようとせず、やがて進んで掌に軀を任せた。

当時、井村誠一は童貞であった。彼は掌に全神経を集め、その掌に未知なるものへの憧れを籠め、祈りさえ籠めて押し当てた。

そして、掌の当る小部分から、女体の全部を、さらには女性という存在全部を感じ取ろうとした。彼女たちが軀を避けなかったのは、彼の憧れを籠めた真剣さ、むしろ精神的といえる行為に感応したためか。

あるいは、誰にも知られることのない、後腐れのない、深刻で重大な関係に立至ることもない、そういう状況の中で快楽を掠め取ることには、もともと多くの女性は積極的姿勢を示すのであろうか。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)



蚊居肢散人は忸怩たる過去をもっている。高校一年のとき、一度だけ《肘を曲げて、軽く女の腕に触れてみると、女は軀を避けようとしない。さらに深く曲げた肘で、女の横腹を擦り上げるようにして、乳房を下から持ち上げた》という経験があるだけなのだから(この四両編成の通学電車では、多くの高校生(沿線には四つの高校があった)が同じ車両の同じ扉から入って同じ位置に立つという習慣をもっており、蚊居肢子は、この色白のぽっちゃりした匂いやかな少女の脇に立つこと一週間が続くという幸運をもった。そして毎日漸次、釣り側にぶら下がって曲げられた肘の喰い込みが深くなっていったのだが、下半身に鞍替えすると、少女は次の日から消えてなくなった)。

この深みにはまることの寡少さゆえに、女の怖さを知るのがひどく遅れた。その知に至ったのは、ようやく30歳前後のことであった・・・

ゆえに今でも庭仕事に訪れたおきゃん娘の「誘惑」ーーおそらく意識的には意図していないつもりであるだろうあのお尻、いやその奥までの露出ーーにこの齢になっても血迷ってしまう。そして次のような状況を「妄想」するのである・・・




もちろんここに書かれたことは「痴漢のすすめ」をしているわけでは決してないことを断っておかねばならない。核心の問いは「エロス」である。それを問いだしたら「何もかもつまらん」どころか「何もかもつまる」のである・・・

谷川俊太郎の「担々麺」はそのことを示している、《何もかもつまらんという言葉が/坦々麺をたべてる口から出てきた》。担々麺にはワカメがふんだんに入っていたに違いないのである、《おなかの平野をおへその盆地まで遠征し/森林限界を越えて火口へと突き進む》(「指先」)。いずれにせよ「つまらん」と「担々麺」の裂け目にエロスの神秘が隠れているに決まっている・・・(技法的にはシェイクスピアやヴァレリーが多用したオクシモロンの変種とオッシャルお方もいらっしゃるだろうが、そのたぐいのお話は無視させていただくことにする)。

もちろん谷川も老いが深まったせいで穴埋め機能が弱まって、谷川の底穴に劣化コルク栓が「詰まらん」ようになったのかもしれない、という可能性を捨て去るつもりはない。《女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。……彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす》(ラカン、S20)




ーー齢を重ねると、ヒクヒクされればされるほど、萎れてくる場合があるから厄介である。しかし男性諸君! 伊藤比呂美の「あたしは便器か」に対抗して、一度は「ボクはヴァイブレーターか!」を若いうちに経験をしておかねばならない。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えである。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe、1998、私訳)

あるいは次のような経験も是非シツヨウである。

佐枝は逃げようとする岩崎の首をからめ取りながら、おのずとからみつく男の脚から腰を左右に、ほとんど死に物狂いに逃がし、ときおり絶望したように膝で蹴りあげてくる。顔は嫌悪に歪んでいた。強姦されるかたちを、無意識のうちに演じている、と岩崎は眺めた。(古井由吉『栖』背)

仮にここまでいかずとも高校生ぐらいのうちに次のたぐいの少女に出会っておくべきであったのだが、残念ながら蚊居肢子界隈には存在しなかった。




このような種々の経験をへてこそ、真のエロスを考え得るようになるのである。

歳をとりますとね、エロスは深まります。死が近くにあるわけですから。子供の頃、よく不思議な夢の話を聞いた。暗いトンネルの出口の向こうに、お花畑が広がっている。人が生死の境にいる時、そういう夢を見る、と。( 古井由吉「サライ」2011年3月号)