2017年5月3日水曜日

四つんばいになった女性の後ろ姿

フロイトの症例狼男の回想の中で特権的な位置にあった女中グルーシャの記憶映像は、床に膝をついてかがみ、尻を突き出した姿勢でふき掃除をしている姿である。つまり「四つんばいになった女性の後ろ姿」。

だがこの姿態に魅惑されない男というものがあるのだろうか(他人のことはわからないが、たぶんあるのだろう・・・)




上の画像はポーズ感があるので、長らく見ているとすこし幻滅してくる。ただしぼってり感にはいささか魅了される。

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

だが顔が横向きになって撮影者を意識しているのがよろしくない。ようは写真の本質を取り逃がしている。

「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

むしろ次の自然体がよろしい。内股になって恥らい感があるのもよろしい。ただし太腿がーー見えていないがーーあまり豊かではないのではないか。蚊居肢散人は《膝からぐっと太くなる腿》が好みなのであるが。




他方、蚊居肢散人は、乳房のほうにはおおむね不感症である。「鼻のつや」など鼻から御免蒙る。

ある青年の例…彼はある種の「鼻のつや」をフェティッシュ的条件 fetischistischen Bedingung にしていた。…患者はイギリスで行儀作法をしつけられ、後にドイツにやってきたが、そのときには母国語をほとんど完全に忘れていた。この小児期に由来しているフェティッシュ Fetisch は、ドイツ語でなく、英語で読まれるべきもので、「鼻のつや Glanz auf der Nase」は、本来「鼻への一瞥 Blick auf die Nase」 (glance = Blick)なのである。こうして鼻は、結局、彼から勝手に、他人には分からぬような特殊な輝きをつけ加えられて、フェティッシュ Fetisch となっていた。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)

もともと次のたぐいの写真が好みなのである。




フェティシュ Fetisch とは、男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)のファルスの代理物 Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) なのである。(…)

喪われている女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代理として、ペニス Penis の象徴となるような器官や物が選ばれることは容易に考えられる。

これはかなりしばしばあることかも知れないが、決定的でないことも確かである。フェティッシュを定めるさいは、かえってある過程が抑止されるようにみえる。これはちょうど、外傷性記憶喪失 traumatischer Amnesieのさいの想起の停止を思わせる。またこのさい、関心が中途半端でとまってしまったような状態をつづけ、あの不気味な unheimlichen 外傷 traumatischen をあたえられた直前の、最後の印象といったものが、フェティッシュとしてとらえられる。

こうして、足とか靴がフェティッシュ――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器 weiblichen Genitale のほうへかけて注意深く探っているからである。

毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛Genitalbehaarungの生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性のペニスweiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。非常に頻繁にフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間、すなわち、まだ女性をファルス phallisch のあるものと考えていてよかったあの最後の瞬間をとらえているのである。 (フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927)

もちろん例外はあるもので、蚊居肢散人は次の写真になぜひどく魅せられるのか、その理由をいまだ見出していない。




もっとも狸顔の若い女の髪の結い方、形のよい肢の伸ばし方、中華料理店風の店内のざわめき感を好むが、それはプンクトゥムではなくストゥディウムである。《ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない》(バルト)。おそらく女はなかば靴を脱ぎかけており、いかにもストッキングに熟れて香りの高くなった足指を甞めるよう促している、--そのように感じるせいではなかろうか、とは疑っている・・・

かつまた蚊居肢散人の女王様になってくれそうな気配、いやその資質がないではないとの錯覚に閉じ籠りうるタイプの女性である・・・



いずれにしろ人にはそれぞれ「愛の条件 LiebesBedingung」があるのである。だが人はなぜそんな当たり前のことを知らないふりか忘れたふりをしているのか。かつてソクラテスの時代には、《愛とはアフロディーテの一撃 APHRODITE qui frappe だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった》(ラカン、セミネール9)のに。

ところで以下のミレールの文には、愛の自動性という表現がでてくる。これは前回記したマルクスの「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」とほぼ相同的ではなかろうか・・・もしそうだとすると、マルクスは隠れた至高の「愛の思想家」でもあったことになる・・・

◆愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。
ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x(≒対象a)、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。

このそれなりに魅力のある文にて、ミレールはフロイトの発見を強調しているが、いささか強調し過ぎ感がないでもない。

たとえば、

・或る男は人妻のみを欲望しうる。
・貞淑な既婚女性のみを愛する、
・あらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。

などとは、我が国の名言、「一盗、二婢、三妾、四妓、五妻」が示していることである。

さらにまた仏国にも、フロイトと同程度にはすぐれた愛の心理家がいるのではないか。

出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト「逃げ去る女」)
ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。(プルースト「逃げ去る女」)
知りあう前に過ちを犯した女、いつも危険な状態にひたりきった女、恋愛の続くかぎり絶えず征服し直さねばならない女がとくに男に愛されるということがある。(プルースト「 囚われの女Ⅱ」)
相手の人間に愛をそそられるよりも、相手にすてられることによって愛をそそられるのは、ある種の年齢に達した者の運命で、その年齢は非常に早くくることがある。(……)われわれが愛していることを発見するためには、またおそらく、愛するようになるためにさえも、しばしば離別の日の到来が必要だということなのである。(プルースト「逃げさる女」)
それにしても、われわれの欲望は、相手の女たちに、いつもおなじ力ではたらくとはかぎらない。ある夜は、われわれは、その女なしではすまされないが、それが過ぎると一、二か月のあいだは、その女のことで心を乱されることはほとんどないだろう。それに、交替の法則というものがあって、いまここはそれを研究する場ではないが、肉体の愛による大きな疲労のあとには、われわれに一時的な老衰がくることになる、そしてそんな時期にわれわれの映像につきまとう女は、ほとんどその額にくちづけしたにすぎないような女なのである。(プルースト「ソドムとゴモラⅠ」)

さらに20世紀後半の「すけこまし作家」クンデラの「愛の心理学」も、蚊居肢散人の珍重するところである。

三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
相手が女だと、憎しみの情に、好奇心や、親しくなりたいという欲望、最後の一線を越えたいという願望などといった、好意のあらわれを刻みつけることができる。(クンデラ『冗談』)
ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ『笑いと忘却の書』)
媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)