ラカン的な主題が(たとえば)、彼に東京の市街を思い起こさせることはまったくない。けれども東京は、彼にラカン的な主題を思い起こさせる。こういうなりゆきは、いつも決まってそうなる。すなわち彼がまず観念から出発して次にその観念に似合う映像を見つけるということは、まれである。彼は官能的な対象から出発し、そのあと、自分の仕事の中で、その対象にふさわしい《抽象》形式を見いだす可能性にめぐり会うことを期待する。その時期の知的文化の中から採取される抽象形式のひとつを見いだそうとするのだ。そういう次第で、哲学とはもはや、数々の特殊な映像、数々の観念的虚構の、貯蔵庫にすぎない(彼が借りるのは対象であって推理ではない)。マラルメは「観念の身ぶり」について語った。が、彼はまず身ぶり(身体の表現)を、その次に観念(文化の、テクスト関連の、表現)を、見つける。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
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《シミが現れるとともに、欲望の領野において、その背後に隠されたものの蘇りの可能性が準備される。Avec la tache apparaît, se prépare la possibilité de résurgence, dans le champ du désir, de ce qu'il y a derrière d'occulte》(ラカン、S10、5 Juin l963)
一人の立派なハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。
しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。une tache, un léger frottis de merde, comme un besoin de pigeon, sur la capuche immaculée.(ロラン・バルト『偶景』1969年テキスト、死後出版1982)
作家はいつもシステムの盲点(盲目の染み la tache aveugle)にあって、漂流 dérive している。それはジョーカーjokerであり、マナmanaであり、ゼロ度degré zéroであり、ブリッジのダミーle mort du bridge、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。(『テクストの快楽』1973年)
《享楽 jouissance は欲望に応えるもの(満足させるもの)ではなく、欲望の宙吊りsurprend・踏み越え excède・逸脱 déroute、漂流 dérive させるもののことである。》(『彼自身によるロラン・バルト』)
《私は、欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。》(ラカン、S.20、08 Mai 1973)
《トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance》(Lacan,E 853)
ーー切り落とされたトカゲの尻尾が対象aである。
この本が何でてきているのか、私は知らない。無意識とイデオロギーか。どちらも他人たちの声によってしかおのれを語らぬものだ。私は、私の中を通り過ぎて行くシンボル系とイデオロギー系列を、《そういうものとして》は舞台上に(テクストに)演出して見せることができない。というもの、私自身がそれらの残す盲目の染み la tache aveugle だからだ(私に固有のものとして属しているのは、《私の》想像界、《私の》幻想界であり、すなわちこの本の由来である)。
それゆえ精神分析学と政治批判の取りあつかいに関しては、私にはオルフェウスの流儀しかないのだ。すなわち、決して振りかえらず、決してそれらを見つめず、それらを公言しないことを(決してではないにしても、想像界の進行するところに私の解釈をふたたび導入するのに必要なだけ、ほんのわずかだけ)である。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
・それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。
・ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻 fulgurationである。
・ある何ものかが一閃して quelque chose a fait tilt、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである。(『明るい部屋』)
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ある時期のラカンの対象aの定義(のひとつ)は、「絵のなかのしみ tache dans le tableau」--《 il se fait tache, il se fait tableau, il s'inscrit dans le tableau》 (S11, 04 Mars 1964)である。
対象aは奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。
ある物をまっすぐに、冷静に、偏見を捨てて、客観的に見ると、ぼんやりした染みしか見えない。「ある角度から」、「関心をもって」、つまり欲望に支えられ、貫かれ、「歪められ」た視線で見たときにはじめて、はっきりした形が見えてくる。このことは〈対象a〉、すなわち欲望の対象=原因の完璧な説明になっている。(ジジェク『斜めから見る』1991年)
次の文にはシミという語は現れない。が、「絵の中のシミ」が描写されている、と読めないだろうか?
・列車のバーテンダーが、ある駅で降り、赤いジェラニウムの花を摘み、水を入れたコップにさして、汚れた茶碗やナプキンを放り込んでおくかなり汚い物入れとコーヒー沸しの間に置いた。
・手はもうすでに少し分厚いが、華奢で、ほとんどなよなよした少年が、突然シャッターのようにすばやく、男であることを表す仕草――爪の裏でたばこの灰を落とすーーをする。(ロラン・バルト『偶景』1969年)
『彼自身によるロラン・バルト』における「想起記述 anamneses」も類似した試みとすることができるかもしれない。
おやつのときの、つめたい砂糖入りミルク。古い白い茶碗の底に、陶器のきずがひとつあった。かきまわすときにスプーンに当たったものはそのきずだったか、それとも、溶け残りか洗い残しの砂糖のこびりついたものだったろうか。
手紙で借りる話をまとめておいた家具つきのアパルトマンが、ふさがっていた。彼らは、パリのある十一月の朝、ド・ラ・グラシエール街で、トランクと手荷物をかかえて途方に暮れる羽目となった。近所の乳製品のおかみさんが、うちへ入れて、あついショコラとクロワッサンをご馳走してくれた。(『彼自身によるロラン・バルト』)
だがバルトは《艶消し》とも記している。
私が《想起記述》を呼んでいるものは、被験者が、稀薄な思い出を《拡大もせず、それを振動させることもなしに》ふたたび見いだすためにおこなう作業―――享楽と努力の混合―――である。それは俳句そのものだ。《伝記素》とは、つくりものの想起記述以外の何ものでもない。私が自分の愛する著作者に想定する想起記述である。
これらのいくつかの想起記述は、程度の差はあるがともかく、みな《つや消し》である(意味作用を発揮していない、すなわち意味を免除されている)。それらをうまくつや消しのものにすることに成功すればそれだけ、それらは想像界からうまく逃れることになる。(『彼自身によるロラン・バルト』)
俳句とあるが、ロラン・バルトは三度の日本旅行(1966年5-6月、1967年3-4月、12-1月)で、俳句に魅せられたのである。
俳句は、羨望をおこさせる。どれほど多くの西欧の読者が夢みたことだろうか。手帳をたずさえて、あちこちで「印象」を書きとめながら歩きまわることを実生活でしてみたいものだ、と。その「印象」記では、簡潔さは完璧さを保証するものとなり、素朴さは深遠さを証明するものとなるだろう。(……)
俳句においては、意味は一瞬の閃光、光の浅い傷跡にすぎない。シェイクスピアは「見えない世界を照らしだした閃光とともに、意味の光が消えてゆくとき」と書いていたが、俳句の閃光にはなにも照らしださないし、明らかにもしない。(ロラン・バルト『記号の国』1970年)
さてバルトの「プンクトゥム」とラカンの「対象a」はどう異なるのだろう?
たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(『明るい部屋』)
もちろんそれぞれ微妙な差異はあるに決まっている。だが重なるところは多いのは、ここまで見て来た通り。
場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る…。ラテン語には、そうした傷 blessure、刺し傷 piqûre、鋭くとがった道具によってつけられた徴 marque を表す語がある。…句読点を打たれたような効果 effet comme ponctuées、ときには斑点状 mouchetées になってさえいる、感じやすい痛点 points sensibles、…それゆえ、ストゥディウム studiumの場をかき乱しにやってくるこの第二の要素を、私はプンクトゥム punctum と呼ぶことにしたい。
ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
冒頭にかかげたバルトの文にあるように、観念から出発するのではなく、まずは具体的に、そして誰にでもあるだろう〈あなた〉を突き刺すもの、それを問うことから始めればよいはずである。
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バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、ラカンのオートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché(ミレール2011, jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)
写真は絶対的な「個 Particulier」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの Contingence」であり、「あるがままのもの Tel」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché(テュケー)」の、「機会 Occasion」の、「遭遇 Rencontre」の、「現実界 Réel」の、あくことを知らぬ表現である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
テュケー Tuché の機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)
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オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶然性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年、私訳)
ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。
オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。
テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。
しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF )
※参照:プンクトゥム=テュケー
上に掲げたラカン派三者(ミレール・ドラ―・ロレンツォ)の観点に依拠するとすれば、蓮實重彦の「ストゥディウム」と「プンクトゥム」を二元論として扱う記述はいささか許容しがたい。
例の「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という二元論が写真をめぐる言説にどれほど有効な視点をもたらすかどうかも、主要な話題とはなりがたい。(蓮實重彦『表象の奈落』、P.348)
バルトは《ストゥディウム studium は、つねにコード化されているが、プンクトゥム punctum は、そうではない》と言っている。
試しにこう言ってみよう、ーープンクトゥムはストゥディウムの内部にあるが、この内部の異者である。プンクトゥムは、分節化されたストゥディウムの非一貫性の領域に外立する、と。
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))
ここでバルトの「エクスタシー」という表現に注目しておこう。
狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリズムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌をめくること)によって弱められ、相対的なレアリズムにとどもるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリズムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリズムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるのなら、「写真」は狂気となる。つまりはそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、(……)これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。
以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
『明るい部屋』は写真論の体裁をとっているが、それだけでは決してない。