このブログを検索

2017年5月7日日曜日

去勢の愛

真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

…………

ジジェクは大著 LESS THAN NOTHING, 2012にて、「what Hegel misses」という表現を三度使っている。これこそ去勢の愛である。しかもジジェクのヘーゲルへの愛はその後もやむことがないのだから、ある意味、感動的な批判である。

われわれは何かを真に愛するのなら、こうでなくてはならない。

誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)
結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非理想化する。だがかならずしも非崇高化するわけではない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

もっともジジェクはこうも言っている。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)

ここでの一見した齟齬は、おそらく次の文を参照することで解決する。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

理想化は対象aの囮機能にかかわる。崇高化は、おそらく囮の背後の空虚にかかわる。

(究極の)対象a は穴 trou である、とラカン自身も言っている(Lacan、S16, 27 Novembre 1968)

だがこのあたりをどう捉えるかは、論者による。たとえばミレールとジジェクのあいだにはかなりの齟齬がある。いやすくなくともミレールは常に問い直しているように思える。

我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって 、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらは原初の対象a [objets a primordiaux]の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre Athens, May 2013)

あるいはミレールが次のように言うとき、これは崇高化(昇華)とどうかかわるのか。

◆On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。

・ラカンの名高い昇華の定義、《モノの尊厳への対象の昇華 l'objet, ici, est élevé à la dignité de la Chose》(S7)

・このモノとは、私の最も内にある《親密な外部、モノ=対象a としての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(S7)

愛は欲望の昇華である l'amour est la sublimation du désir(Lacan,S10, l3 Mars l963)

ーー等々、種々あるが、このあたりは今は宙吊りにしたままにしておく。

…………

さてジジェクのヘーゲル批判、「what Hegel misses」の箇所をひとつだけ抜き出しておく。

ヘーゲルに欠けているものは対象a、二つの欠如が重なることよって生れる対象である。さらに対象aを考え得ないために、ヘーゲルは純粋反復を捉え得ない。すなわち、「一者」に纏い憑いている対象a の無によって支えられる純粋差異である。この一者は、その影を取り戻そうと試みてそれ自身を反復するのだが。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)

ーーこの対象aを考えられず、純粋差異を捉えられないとは、ある意味、決定的な欠陥であるはずだが。

ヘーゲルは自分が何をやってるのか分かっていなかったのさ。(……)だから彼を解釈しなくちゃいけない。知っての通り、ドゥルーズが哲学者を読むために使った言葉は、アナル解釈だ。オカマを掘らないとな。ドゥルーズが言うように、哲学者を尻から貫通するんだ、汚れのない受胎のためにね。すると怪物が産まれるわけだ。 (ジジェク An Interview with Slavoj ZizekEric Dean Rasmussen、2003、意訳)

…………

スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

愛とは排他的なものである、とフロイトは言った。人は、愛の対象の弱さを見出さないままであれば、実際、ひどく「排他的」になる。たとえば蚊居肢散人のように・・・

彼は、対象と愛の関係にしか入れない人物である。こういった人物は「去勢の愛」について十全に思いを馳せないと、トンデモ男になりがちである。